音を立ててはいけない 榛名山東部
榛名山・天狗山・天目山
(群馬)
2026年04月11日(土)
日帰り
「音をたてずにいきなさい」とカモシカは言った。
足場のそれほどよくない、山の急斜面から彼はこちらに首を傾けていた。
「どうして」と僕は尋ねた。
腐れかけた枯れ葉と小枝が敷き詰まったこの道を、音を立てずに歩くことなど、とうていできない。
「あいつらに気づかれる。それだけは避けないといけない」とカモシカは言う。
「この山中には僕とあなたしかいないように思えるけども」と僕は返した。
カモシカは黙っていた。彼は、その立派な図体からひょろりと伸びた前脚を地面に軽く叩きつける動作をした。僕とカモシカの間を、ひんやりとした風が渓谷に沿って吹き上げるように流れていく。
たいていの場合、とカモシカは口を開いて、それから続けた。
「あいつらは烏帽子のような形をしている。雄と雌の区別はない。馬に乗っている個体もいるが、ときに蛇のように細長く波を打つようなやつもいる。」
僕にはいささか、悪い冗談のように思えた。この山中では、その得体のしれない何か、よりも、春の目覚めの悪いクマや、笹藪から迷い出てきたうりぼうのほうがよほど怖く感じられた。
「そもそも、この山道を、音を立てないというのは、どうしたって無理でしょう」
「いいか、音を立てないというのは、足音を鳴らしたり、けたたましい鈴の音をたてたり、水筒の乾いたプラスティックの音を立ててはいけないということじゃない。それは自然であり、この世界にすきまなくぴったりと納まっている。肝心なことは、この先に疼きを持ち込んではいけないということだ」
おびただしい鳥の群れが、渓谷のはるか上を、たかく昇っていくのが見えた。僕は、彼の言葉を呑みくだせなかった。
「疼きがあると、この世界とズレが生じる。こちら側と外側がかみ合わないと、きしむようなひどく嫌な音がする。ひそんでいるあいつらは、すぐに音に気付く。そして、お前を探しに動くだろう。だから、この先にいくのならば、けっして音をたててはいけない。」
「でも、どうやって。僕はあなたのようにここで生きているわけではないし、うまくここを歩くことはできない。僕にはその提案はひどく難しいように思えるけども」と僕は返した。
足がよろけを含んだのか、足元で、枝の折れる、乾いた音が響いた。
「むずかしくはない。想像してみるんだ。ウィーンの国立歌劇場でマエストロが登壇し、スタインウェイのグランドピアノの前にある、すこし控えめな椅子に腰かける。彼は、拍手が鳴りやむのを待ち、姿勢を正し、指をそっと鍵盤の上に移動させる。満員の観衆のだれもが、その最初の一音を待っている。このときに、音はない。いや、実際には鼻をすする老婦人が、パンフレットの紙をにぎりしめる若い学生がその場にいるかもしれない。でも、その場に生じた世界には音はない」
「最初の一音を待つ。国立歌劇場で」
「そうだ。邪(よこしま)でなければいい」
「不幸にも、音を出してしまったら、どうなる」
「音を聞きつけた、鳥のようなやつが、とりどりの奇異な声で鳴き出す。それがあいつらの合図だ。血目(ちまなこ)になって、お前をさがしに動く。そうなったら、急いでこの森から抜けなさい。時間の勝負になる。くれぐれも、あいつらに捕まってはいけない」
「捕まったら」と僕は上擦った声をあげて、その先の言葉を飲んだ。想像したくもない、とても良くないことが、起こるのだろうということは、明らかであり、聞くに及ばなかった。
「おまえが愛するこの世界の内側から、外側に連れていかれる。はた目には精巧にできたそれであるから、最初は気づかないかもしれない。だが、それは完全に別の氷の世界にいってしまうようなもので、お前自身が人の形をした別のものになる。」
カモシカは、何かに気づいたように顔を空に向け、その小さな耳を震わせた。
「さあ、山の影も長くなってきた。あいつらは聞き耳をたてている。はやく行きなさい。いいか、ゆめゆめ音をたててはいけない。お前は良き劇場の観衆だ。マエストロである必要はない」
僕はカモシカに丁重に礼をいい、静けさのきわまった森の奥に足を進めた。
雲は低く垂れて、薄暗い谷の底から吹き上がる風は、さきほどよりも、湿り気を含んでいる。
一度、引き返そうとも考えたが、既にそれをできるには深くこの森に入りすぎていたので、思い直して、地図を広げ、尾根の分岐をめざして、ほの暗い谷筋の道を進むことにした。
※榛名山の山々を文中にちりばめて、春樹さんの作風の物語にしてみました。