お初の象山を歩き、ヤマザクラ咲く吉野へ
吉野山・青根ヶ峰・百貝岳
(奈良)
2026年04月08日(水)
日帰り
今日は吉野山域で旗の立っていない、象山へ出かけた
象山(きさやま)はマイナーな里山。歴史の歌や古人の日記に登場することでは有名な山だが、登山道は無いと言う情報であった
朝一番の電車で、上市駅から県道39号線を歩き、宮滝から取り付いたが、この取り付きは最悪だった。直近に歩いた先人の軌跡をダウンロードし、そのルート通りに登ろうとしたが軌跡を外し、結果的に急斜面のトラバースから、尾根方向に向かって直登することになってしまった💦💦
この象山への登りは、今日のハイライトだったが、この難所を越えて、尾根上へ出てからは普通の山道になった😄
山頂を越えて吉野へ向う時、二人連れの女性ハイカーにも出会った
吉野の奥駈道からは、待望のサクラロードとなったが、吉野山のサクラは終盤を迎えつつあった。来年は、もう少し早く来よう
四寸岩山 山頂ではyamatabiさんと出会い、大峰山方面や弘法トレイルの山並みを説明して頂いた😄
薊山から柏原山を経由し下山して、大滝村を写真を撮りながら歩いていると、地元の女性の方から、「サクラが好きなら、この先に赤滝のサクラが見頃を迎えてますよと」教えて頂いた。今いる場所から3km程度とのことで、行って見ようという誘惑にも駆られたが、バスの時間もあるので予定通りのルートを進んだ
ところが、その方が引き返して来て「良かったら車で送りますよ」とまで言われた。行って見たいとも思ったが、見知らぬ人のお世話になるのも、ご迷惑をおかけすると思い。「私は歩くために来ているので、最後まで歩きます」と言い、その女性の気遣いに対して、お礼を言って別れた
でも、歩きながら赤滝のサクラを見たかったなぁと、思ってしまった😋
【往路】
■下市口
↓ 06:18~06:27
↓ 近鉄吉野線 吉野行
■大和上市
【復路】
■黒滝案内センター
↓ 15:50~16:38
↓ 奈良交通バス
■下市口駅
吉野桜の歴史
伝承によれば、今から約千三百年前、役小角が蔵王権現像を桜に刻んだことが献木の始まりとされる
奈良時代には、相次ぐ遷都という大規模な公共工事で吉野山の樹林が建築材として伐採され、その後赤松や山桜の二次林が形成される
平安時代になると、吉野山に庵を構えた西行法師が多くの和歌を詠み、「吉野山」と「桜」の関係が深くなったとされる
しかし、吉野山が現在のようなサクラの名所として、文献上で確実なのは、文禄三(1594)年に開催された、太閤秀吉の吉野山の花見が開催された時である
時代が代わり江戸時代になると、吉野山を訪れた客がサクラの苗を植えるのが流行った。吉野山がサクラで覆われるようになったのは、参拝客の植樹が大いに貢献した
因みに、参拝客による植樹は昭和の初期まで続いた
吉野山のヤマザクラが一番最初に迎えた危機は、明治維新の廃仏毀釈で寺院が衰退した時である。山林を購入した業者により伐採の危機に瀕した桜を私財を投じて救済したのが「山林王」と呼ばれた、土倉庄三郎氏と云われる
因みに、庄三郎の功績は、林業の世界に留まらず、山林王として手にした巨万の富を、3つに分け、国、教育、事業に思い切った投資をした。同志社大学、日本女子大学の設立を支援したほか、板垣退助が推し進めた自由民権運動も後押しました。林業だけでなく、日本の未来をも変えた人物であった
奈良県吉野郡川上村大滝集落の対岸にある鎧掛岩には、「土倉翁造林頌徳記念」と彫られた磨崖碑が建てられている
終戦直後にも、極度の物資不足により、暖房や燃料として木材が求められ、吉野山の貴重なサクラの木も、燃料として伐採される危険に晒されていた。これを救ったのが当時の野村證券会長の瀬川美能留氏だったと云われる
その後も、気候変動、外来害虫の侵入、サクラの高齢化、自然災害等による危機が訪れているが、現代の桜守りにより維持されている