根来寺の前山砦跡と秀吉の紀州攻め
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山
(和歌山, 大阪)
2026年03月24日(火)
日帰り
前山砦とは、戦国時代に存在した根来寺の要塞
根来寺が位置する和歌山県と大阪府との境界には和泉山脈が横たわり、寺はその南部の一峰である、一乗山と南側の前山と称される独立山塊状の山に挟まれた狭小な平地部と谷筋に立地する
戦国時代の境内範囲は、東は菩薩峠、西は大門池東側の細尾根、南は東西に衝立のように延びる前山、北は和泉山脈南麓の北山であり、東西・南北とも約2kmに及ぶ。このなかに菩提川・大谷川・蓮華谷川などに形成された谷が入り組んでいる
根来寺は一乗院大伝法院と号する新義真言宗の本山である。その淵源は大治5(1130)年に覚鑁上人が高野山に大伝法院と密厳院を創建し、みずから大伝法院の座主となったことにはじまる。高野山中における金剛峰寺方と大伝法院方の対立により、正応元(1288)年、頼瑜のとき根来に移転し、新義真言宗が成立した。室町時代には伝法堂院や大塔が造営され、戦国時代にかけて大きく発展した。山内には円明寺などの塔頭子院が多数存在し、山内の坊舎2700余りとも伝えられ、大きな勢力をなしていた。この時期に紀北地方や泉南地方の小領主地侍層の子弟が根来の山内に入って、根来衆という僧兵集団となり強力な軍事力を構成した。こうしたなかで、天正13(1585)年3月23日、豊臣秀吉の紀州攻めにあって、その多くが焼亡した。江戸時代に入り和歌山藩主の浅野家が復興し、大伝法堂・大門が再建され今日に至る
根来寺南方、東西に延びる通称「前山」稜線上には長大な土塁や堀切状の地形が確認出来る。また最西端では櫓台とも思われる建物跡が見つかっており、根来寺が築いた城塞施設の遺構と評価されている
現在の前山は、五百仏山とも呼ばれ、尾根は五百仏山四国八十八カ所霊場の遊歩道となっている。遊歩道以外は草木が多く薮状態である。西から東にかけて4つのピークに郭跡があり、大きな鞍部の平坦地は南大門跡と言われる
今日は、五百仏山四国八十八カ所の第八十八番(大窪寺)から稜線に登り、尾根を東側へ進んだ。ところでころで根来寺の大塔や大伝法堂が見える。西端の郭群から約200m尾根を進むと大きな鞍部の平坦地にでる。ここは南大門跡と伝わる。鞍部両側の斜面上も小郭跡である。鞍部の東側のピークから約200mのピークにも平坦地があり、南側に小郭跡がある。さらに東側ピークも郭跡で南側下の堀切がある
西端郭群から東へ尾根上に低い土塁が続くが、これは城郭遺構ではなく、江戸期の村落境界線のようなものである
この後、五百仏山四国八十八カ所の第四十二番(佛木寺)が建つ、前山(愛宕山)山頂から元気の森へ向かい、根来両景峰・根来山を歩いて、根来寺へ下って行った
根来寺が落ちた翌24日には根来寺と共同歩調をとっていた粉河寺も落ちました。
雑賀衆は内部分裂が続き、混乱していました。秀吉は本願寺の顕如に降伏勧告を行わせ、大半の雑賀衆は勧告を受け入れ、あるいは脱出した者もいました。鈴木孫一は小牧・長久手の戦いのときから、鉄砲隊を率いて秀吉軍の一員となっていました。それぞれがつながりを欠いた中で、雑賀南郷の太田二郎左衛門尉を中心にした雑賀衆の一部と根来衆の残党、惣の農民たちなど合わせて3000~4000人が「太田城」に立て籠もり抵抗をつづけたが、4月22日歴史に残る水攻めによって落城した
ここに、秀吉最大の脅威であった紀州の宗教勢力が倒されたのである
最後に、根来寺は秀吉軍による焼き討ちで炎上したとずっと信じられてきたが、この通説に再検討を迫る史料が奈良県の長谷寺で発見された。これは智積院第3世の能化であった日誉が寛永13年に著した「根来破滅因縁」と題するもので、これによると、秀吉は高野山の木食応其を使者として、根来寺に降伏の勧告をしたこと、それに反発した行人衆がその夜、木食応其の宿舎を100挺の鉄砲をもって襲撃したことがわかる
もしも、秀吉の命令で根来寺が焼き討ちされたのであれば、多宝塔・大伝法院本堂など根来寺の中心となる伽藍が焼け残っているのは不自然である
豊臣兄弟との縁も深いこの地域、現在放送中の大河では、和歌山城やこの根来寺のことを、どのように描くのか、今から楽しみである😄