宇喜多直家と秀家の軌跡を訪ねて 亀山城・砥石城・乙子城・岡山城…宇喜多親子縁の史跡巡り
【宇喜多直家と秀家親子の軌跡を訪ねるツアー】 岡山県立博物館では9月18日から11月23日まで特別展「宇喜多直家と秀家 ライバルとしのぎを削ったサムライたち」が開催され、宇喜多ゆかりの武具や書状が公開されています。 これを機に宇喜多直家と秀家親子の軌跡を訪ねるツアーを組みました。 亀山城(沼城)跡を皮切りに、教意山 妙興寺(きょういさん みょうこうじ)、下笠加大楽院(しもかさが おおらくいん)跡、大雄山 大賀島寺(だいゆうざん おおがしまじ)、砥石城(といしじょう)跡、仁生田畠(にぶたばた)古戦場跡、乙子城(おとごじょう)跡、上寺山 餘慶寺(うえてらさん よけいじ)、金陵山 西大寺観音院(こんりょうざん さいだいじかんのんいん)、石山城跡、岡山神社、岡山県立博物館(特別展)、岡山城と全部で13ヶ所の宇喜多直家・秀家ゆかりの史跡を巡りました。 ログは位置関係を明確にするためにとりましたが、各スポット間の移動手段は自動車です。 宇喜多直家は戦国時代の備前・美作(みまさか)を舞台に勢力を伸ばした武将で、もとは備前守護代・浦上宗景(むねかげ)の家臣でしたが、やがて主家をしのぐ力を持つまでになり、備前(現在の 岡山市・玉野市・瀬戸内市・備前市など)と美作(現在の津山市、真庭市、美作市、新見市など)の大半と播磨(現在の兵庫県南西部)の一部にまで影響力を及ぼす大名勢力となっていました。 今年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、毛利家に従属する備前岡山城主として描かれており、羽柴秀吉が播磨路に侵入し始めると、直家は当初は毛利氏と連合して秀吉勢の進出を阻みました。 しかし、直家は天正7年(1579年)、秀吉方に帰順し、逆に毛利氏と敵対することになります。 直家は義理や面子にこだわって滅びるのではなく、情勢の変化を見て、自家にもっとも有利な道を選び直すという戦国武将としては非常に徹底した現実主義者だったといえます。 その子である宇喜多秀家は、織田信長の後継者である豊臣秀吉の義理の娘である豪姫と婚儀を結ぶほど秀吉に寵愛されました。 朝鮮出兵の「文禄の役」では総大将となり、徳川家康と並ぶ五大老にもなりました。 また、秀家は岡山の丘に本丸を定め、慶長2年(1597年)に岡山城の天守を完成させました。 慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では西軍の主力の一人として参戦し、敗れて領国を失い、数年の逃亡生活の後、八丈島に流され、そこで生涯を閉じます。 明暦元年(1655年)に死去し(享年84歳)、関ヶ原の戦いに参戦した人物の中で最も長く生きたと言われています。 この宇喜多直家・秀家親子のNHK大河ドラマ実現に向けて、現在WEB上で署名を募っており、これを書いている時点で9万名近くの署名が集まっているようでした。 今回、宇喜多直家・秀家ゆかりの場所を訪ねることで、現在の岡山の土台を築いた宇喜多親子の波乱万丈に満ちた人生を深掘りできたように思います。 以下に宇喜多家ゆかりの史跡について、巡った順に少しずつ紐解いていきます。 【宇喜多直家飛躍の地 亀山城(弁天山)】 宇喜多直家は現在の瀬戸内市邑久町豊原(おくちょうとよはら)にある砥石(といし)城で生まれたとされています。 6歳の時、祖父の能家(よしいえ)が同じ浦上家臣の島村貫阿弥に急襲され、無念の自害に追い込まれます。 宇喜多家は没落し、直家は父※興家(おきいえ)とともに各地を放浪し、商人の家(現在の長船福岡)に身を寄せるなど、極貧の少年時代を過ごしました。 ※興家の父親説については諸説あり。 やがて成長した直家は、主君である浦上宗景(むねかげ)に仕え、わずかな手兵を率いて乙子城(おとごじょう)、次いで新庄山城(しんじょうやまじょう)の城主となります。 そして、次なる標的として定めたのが、交通の要衝であり、周囲を底なしの泥深い湿地帯(沼)に囲まれ、一歩足を踏み入れれば生きては戻れない天然の要塞だった亀山城(沼城)でした。 ちなみに亀山城の名は、本丸や二の丸があった弁天山の形が亀に似ていることから名付けられました。 一方、沼城の名は、 城の周囲が低湿地帯(沼)や天然の堀(砂川など)に囲まれていた地形に由来しています。 どちらの表記も正しいのですが、ここではいったん亀山城を統一表記とします。 当時の亀山城は、浦上家の重臣であった中山 備中守( びっちゅうのかみ )信正が城主でした。 直家はこの亀山城を手に入れるため、後の直家の冷徹イメージにつながることにもなる恐ろしい策を講じます。 直家は中山信正の娘を妻に迎え、信正の婿となります。 永禄2年(1559年)、直家は自身の居城に信正を招待し、さらに、祖父を砥石城で自害に追い込んだ張本人であり信正と同盟関係にあった祖父殺しの仇敵・島村貫阿弥も同時に招きました。 宴が最高潮に達した時、直家が合図を送ると刺客たちが一斉に飛び出し、島村貫阿弥はその場で斬り捨てられました。 一方、実の舅(しゅうと)である信正には、酒に猛毒を仕込んでいたとも、その場で兵を差し向けて惨殺したとも伝えられ、信正は信頼していた婿(直家)の裏切りによって、絶命しました。 直家はこうして、妻の父親を謀殺するという大罪を犯し、亀山城を手に入れたのです。 亀山城を拠点として勢力を拡大していったという意味で、亀山城は直家飛躍の地と言えます。 また、息子の宇喜多秀家はこの亀山城で誕生したと伝えられています。 【黒田家と宇喜多家の墓所が並ぶ戦国武将ファン垂涎の教意山 妙興寺】 祖父・能家が戦死し没落した宇喜多直家は、幼少期に父・興家とともに備前福岡(現在の長船町福岡)へ逃れ、地元の豪商・阿部善定に匿われて過ごしました。 この商業で活気に満ちた「福岡の市」を見て育ったことが、後の直家の優れた先見性と才覚に繋がったと云われています。 関ヶ原の戦いの後、黒田官兵衛・長政親子は筑前国(現在の福岡県)に国替えとなりました。 その際、黒田家が最も苦しい時代を過ごし、一族の強固な礎を築いたこの備前福岡の地名を忘れないために、赴任した新たな城下町を福岡と名付けました。 これが現在、いろいろな意味で全国から注目されている😓福岡県・福岡市の始まりです。 教意山 妙興寺(きょういさん みょうこうじ)の境内には、黒田官兵衛の曾祖父・黒田高政の墓や祖父・重隆の供養塔<写真28>があります。 そのすぐ近くには、宇喜多直家の父である宇喜多興家の墓<写真27>もひっそりと佇んでいます。 後に黒田官兵衛が直家を織田信長側へと誘い入れる歴史を考えると、彼らのルーツが同じ備前福岡(長船町福岡)の地にあることは非常に興味深いものでした。 【宇喜多直家が叔母のもとで多感な幼少期を過ごした下笠加大楽院】 天文7年(1538年)頃、直家が数え年10歳(あるいは12歳)の時、祖父・能家が砥石城で殺され、宇喜多一族は没落した際、直家はこの地にあった真言宗の尼寺「下笠加大楽院(しもかさがおおらくいん)」に預けられました。 直家は継母との折り合いが悪かったこともありこの寺に送られ、叔母からの手厳しい教育を受けながら、後の下剋上を生き抜くための辛苦に耐えたとされています。 現在は寺院としての建物はなく跡地となっていますが、敷地内には「御前庵主宗永上人」の墓<写真30>や、大楽院の鎮守であった荒神<写真29>が祀られています。 【宇喜多家一門の供養塔がある大雄山 大賀島寺】 大雄山 大賀島寺(だいゆうざん おおがしまじ)は、奈良時代に聖武天皇の勅願(ちょくがん)によって開かれ、のちに報恩大師が定めた「備前四十八ヶ寺」の一つに数えられる格式高いお寺です。 戦国時代には宇喜多直家の祖父・能家(よしいえ)の代から宇喜多家の菩提寺となり、江戸時代には岡山藩主・池田家からも厚い尊崇(そんすう)を受けました。 安永10年(1781年)に再建された本堂<写真34>は、岡山県下でも最大級の規模を誇る壮大な木造建築で、瀬戸内市の重要文化財に指定されています。 境内には宇喜多能家の埋葬地や、一族の供養塔<写真32>が残されています。 また、宇喜多基家が着用したと伝わる県重要文化財の甲冑など、ゆかりの古文書や用具が伝えられています。 山の上にあるお寺のため、山頂・展望台付近からは瀬戸内市の街並みやのどかな田園風景<写真37>を一望することができます。 自動車でもアプローチが可能ですが、道幅が自動車1台分しかなく、カーブは一度ハンドルを切り返してからでないと進めない所も数か所ありますので、時間的に余裕があれば、次項で触れる砥石城跡と兼ねて歩いて登ることをおすすめします。 【宇喜多直家の生誕地・砥石城】 砥石(といし)城は、文明年間(1469〜1487年)頃に備前守護代の浦上氏によって築かれたとされ、のちに重臣・宇喜多能家(直家の祖父)の居城となりました。 享録2年(1529年)、この城で宇喜多直家が生まれたと伝えられています。 直家が6歳の時、祖父・能家が西隣の高取山城主・島村観阿弥に責められて自害すると、父・興家とともに砥石城を脱出し、備後鞆(びんご とも 現在の広島県福山市鞆)や備前福岡、備前笠加(かさが)を転々としました。 成長して頭角を現した直家は、永禄2年(1559年)に仇敵である島村氏を討ち果たして砥石城を奪還しました。 そして、弟の春家を城主に据えて一族の旧領を取り戻しました。 その後、直家が岡山城へ拠点を移すとともに役割を終え、廃城になったとされています。 砥石城は標高約100mの砥石山山頂に位置し、南北約300mにわたって主郭(本丸)や曲輪(くるわ)が一直線に並ぶ連郭(れんかく)式の山城構造が残っています。 本丸の西側などには、古い時代の石垣の一部や土塁の遺構<写真48~49>を確認できました。 山頂からは、かつて中世山陽道の政治・経済の要所として大いに栄えた備前福岡(現在の長船)の街並みや、広大な千町(せんちょう)平野を一望できます<写真44~46>。 城がこの地に置かれた地理的な重要性を肌で感じられます。 【宇喜多直家が砥石城奪還のための攻略戦を展開した仁生田畠古戦場】 戦国時代の天文14年(1545年)から天文18年(1549年)頃にかけて、主君・浦上宗景の命を受けた宇喜多直家の軍と、砥石城に立てこもる敵勢(浦上氏を裏切り備中の三村氏に内通した※浮田(うきた)国定・島村氏ら)との間で、4年越しの一進一退の攻防が繰り広げられました。 ※「浮田」性は「宇喜多」宗家ないし本家より別れた一族(諸家)。 砥石城は峻険な山城で、直家率いる軍勢は城を力攻めしようと試みましたが、山の上から迎撃する敵の激しい抵抗に遭いました。 そのため、山の麓に広がる平地であった仁生田畠(にぶたばた)の一帯は、押し寄せる直家軍とそれを阻もうとする城外打ってつけの敵兵とがぶつかり合う最も激しい戦闘(白兵戦・小競り合い)の舞台となりました。 直家はこの仁生田畠での熾烈な実戦経験から、力攻めだけでは被害が大きいと判断します。 そこで包囲を続けながら、城内にいる旧宇喜多家臣(祖父・能家を慕っていた者たち)へ秘密裏にアプローチをかけ、寝返りを誘う工作(調略)を仕掛けました。 天文18年(1549年)の春、調略が十分に実を結んだと見た直家は、全兵力を率いて砥石城への総攻撃(夜襲)を決行します。 城内からの内応(裏切り)もあり、敵方は大混乱に陥り、直家は見事に祖父の仇敵から砥石城を奪還することに成功しました。 このように、仁生田畠古戦場<写真62>は力攻めによる激突から、のちに直家の代名詞となる「知謀・調略を用いた鮮やかな勝利」へと戦術が進化していく、宇喜多直家の成長の原点となった戦場です。 【宇喜多直家が最初に城主となった出世の城・乙子城】 乙子(おとご)城は天文13年(1544年)に築城された、吉井川河口にある標高40m程の丘陵にある城跡で、別名は音湖城ともいいます。 ここは宇喜多直家が弱冠16歳で築城(改修)し、入城したのが始まりとされています。 当時、児島(半島)は瀬戸内海に浮かぶ文字通りの島でした。 児島と岡山平野の間には、吉備穴海(きびのあなうみ)といわれる内海があり、九州と畿内を結ぶ重要な航路で、源平の争乱の舞台にもなりました。 乙子城は、この内海の東の入り口を押さえる拠点に位置する場所に築城されました。 直家はここに5年間在城し、この地の治安維持と戦功を挙げました。 その恩賞に上道郡奈良部(現在の岡山市竹原)の新庄山城を与えられ、天文18年(1549年)に移転しました。 その後、乙子城は持城として、弟の浮田(うきた)忠家を城主に置いていましたが、宇喜多直家が永禄2年(1559年)に亀山城に移り、岡山市平野の平定が進むにつれその存在価値が薄らぎ廃城となりました。 現在は「宇喜多直家 国とりはじまりの地」の碑<写真77>や案内板が建てられ、木々の間から吉井川や周囲の平野を見渡すことができる展望地となっています。 【九州攻めで遠征した宇喜多秀家が戦利品として持ち帰った梵鐘がある上寺山餘慶寺】 上寺山餘慶寺(うえてらさんよけいじ)には、創建1270年余りの歴史の中、多くの寺宝が残されており、文化財の宝庫として国や県、市から指定されているものがあります。 餘慶寺は宇喜多家の保護を受け、境内には宇喜多家の祖先とされる 児島高徳(たかのり) の供養塔も立っています。 宇喜多家の旗印「兒」の文字は、この児島氏の「児」から取られたと伝えられています このことから、郷土における宇喜多家の歴史的影響と宗教的拠点としての役割が窺えます。 鐘楼に設置された梵鐘(ぼんしょう)<写真65>は、元亀2年(1571年)に明人が豊後(ぶんご)国府中の惣道場に寄進したもので、様式的な特徴から豊後高田(大分県北東部)の高田鋳物師の作であると考えられています。 寄進先の惣道場は一向宗門徒の集まる施設と見られます。 天正15年(1571年)に豊臣秀吉の九州遠征に参加した宇喜多秀家軍が戦利品として持ち帰り、餘慶寺に寄進したものと伝えられています。 この経緯から、梵鐘は地元では「上寺の晩鐘」として親しまれています。 この梵鐘は岡山県指定の重要文化財に認定されており、現在も保存と管理が厳重に行われています 。 鐘楼は嘉永3年(1850年)に再建され、重層袴腰(はかまごし)付の構造で、屋根や軸部の均整が美しい建造物としても評価されています 。 【宇喜多直家・秀家による広大な寺領の寄進を受けた金陵山 西大寺観音院】 金陵山 西大寺観音院(こんりょうざん さいだいじかんのんいん)は、岡山県岡山市東区にある高野山真言宗の別格本山です。 奈良時代の751年に開基されたと伝わる歴史ある名刹で、日本三大奇祭の一つとして世界的に知られる裸祭り「西大寺会陽(えよう)」の舞台として非常に有名です。 中国三十三観音霊場の第一番札所でもあります。 鎌倉時代には天皇や将軍の祈願所として栄えた西大寺ですが、室町時代の応仁の乱以降の混乱で一時衰退を余儀なくされていました。 しかし、戦国時代に入り、備前の覇者となった宇喜多直家、そして宇喜多秀家は、西大寺を深く崇敬しました。 彼らは多くの寺領(領地)を西大寺に寄進し、お寺の経済基盤を圧倒的に安定させました。 この宇喜多家の厚い庇護があったからこそ、西大寺はその後も地域の中心的な名刹としてあり続けることができました。 西大寺はかつて、複数の塔頭(子院)が交代でお寺の管理(別当)を行っていました。 しかし、宇喜多氏が備前を統治していた天正年間(1573〜1591年)ごろから、現在の観音院が定着して寺務を統括するようになったとされています。 まさに宇喜多家の時代が、現在の「西大寺観音院」の体制が確立した重要な転換期でした。 西大寺といえば500年以上の歴史を持つ会陽(裸祭り)が有名ですが、このお祭りが現在のような激しい宝木(しんぎの奪い合いへと発展・定着していった時期も、まさに宇喜多氏が台頭・活躍した16世紀(室町後期〜戦国時代)と完全に重なっています。 近年、西大寺観音院では境内のトイレの改修工事が行われましたが、そのデザインテーマとして「宇喜多直家公の時代」が採用されるなど、現代においても宇喜多家との歴史的絆が観光スポットの魅力としてユニークに生かされています。 また、地元の観光イベント(会陽宵祭りなど)では「岡山おもてなし武将隊」の宇喜多秀家公が出陣し、境内を盛り上げることも定番となっています。 宇喜多家が一寺院の発展に多大に貢献していたことが驚きでした。 【宇喜多家やライバルの武将たちの書状や刀剣類などを展示した岡山県立博物館】 冒頭でも触れました通り、宇喜多直家と秀家親子の軌跡を訪ねるツアーを企画した要因となったのが、岡山県立博物館で開催されていた特別展「宇喜多直家と秀家 ライバルとしのぎを削ったサムライたち」です。 今回の特別展では、宇喜多秀家所用と伝わる貴重な甲冑(鎧)を含む、刀剣や書状など約90点におよぶ歴史資料が展示されています。 宇喜多直家の書状など貴重な資料が展示されていたのですが、撮影が許可されず、唯一撮影が許されたのが「黒漆塗桐紋蒔絵鉄五枚胴具足(くろうるしぬりきりもんまきえ てつごまいどうぐそく)」<写真110>でした。 兜を彩る巨大な三日月の前立(飾り)が圧倒的な存在感を放っており、豊臣政権下で五大老を務めた宇喜多秀家の華やかな風格を感じさせる見事な逸品でした。 開催期間は11月23日までとなっていましたが、10月20日より展示品を一部入れ替えるようでした。 【宇喜多、小早川、池田という岡山城主の崇敬を受け城下町とともに発展した岡山神社】 岡山神社は岡山後楽園と岡山城近くを流れる旭川沿いに位置し、清和天皇貞観年間(約860年)に創建され、当初は「坂下の社」と呼ばれていました。 もともと岡山と呼ばれる丘の上に鎮座しており、この岡山の丘こそが、現在の岡山城本丸(天守閣が立っている場所)です。 つまり、神社があった場所に、後から岡山城が建てられたという関係になります。 天正元年(1573年)、宇喜多直家がこの地に入城し、岡山城を本格的な居城として築城・拡張し始めます。 その際、本丸を造るために神社を現在の場所(城の北西にあたる現在の石関町)へと遷座(せんざ)させました。 このとき直家は、神社を単に退去させるのではなく、岡山城の守護神(城内鎮守)として位置づけ、神社の土地(社領)を寄進して手厚く保護しました。 豊臣秀吉の時代に岡山城の天守閣を築いた宇喜多秀家は、岡山神社の本殿を造営しました。 宇喜多氏の後に岡山城主となった小早川秀秋は、岡山神社の拝殿などを造営しました。 その後、明治まで城主を務めた池田家も、城の鎮守として特別に崇敬し、多くの領地(社領300石余)を寄進して支え続けました。 永禄年間(1558~1570年)に岡山大明神と改められましたが、明治15年(1882年)に現在の岡山神社と社号が変更されました。 現在の岡山神社からは岡山城の姿を望むことができ<写真00>、城のすぐそばでその歴史を見守り続けてきた関係性が今も感じられます。 【宇喜多直家・秀家親子が築いた岡山のシンボル岡山城】 岡山城の前身となる石山城跡<写真109>は、 もともと金光氏が構えていた石山の城(石山城)を、宇喜多直家が手に入れて本拠地としました。 現在の岡山城周辺の旭川流域には、「岡山」「石山」「天神山」という3つの小高い丘が並んでいました。 そのうちの「石山」に小規模な城を構えていたのが、守護代・松田氏に属していた金光宗高(かなみつ むねたか)です。 居城の沼城(亀山城)から平野部への進出を狙っていた直家は、金光宗高に毛利氏への内通という無実の罪(謀叛の疑い)を被せて切腹に追い込み、城を奪い取りました。 城を手に入れた直家は大規模な改修を行い、天正元年(1573年)に正式に亀山城から居城を移しました。 直家がそれまでの山城を捨て、当時はまだ湿地帯の広がっていた石山を居城に選んだのには、先見の明とも言える次の3つの理由がありました。 1つ目は、城のすぐ脇を流れる旭川は瀬戸内海へとつながっており、物資の輸送や商業の発展に最適でした。 また、将来的に巨大な城下町を展開できる広大な岡山平野の中心でもありました。 2つ目は、 従来の険しい山にこもる戦い方から、鉄砲を活用し、広大な平野で大軍を動かす戦い方へとシフトする時代の変化を見据えていました。 3つ目は、 敵対する備中(岡山県西部)の勢力や、その背後にいる有力大名・毛利氏の侵攻を食い止める防衛拠点として適していました。 直家は石山城を拠点に、主家であった浦上宗景を追放して備前と美作の覇者へと君臨します。 しかし、織田信長・羽柴秀吉と同盟を結び、毛利氏との全面対決が本格化する最中の天正9年(1581年)、直家は石山城にて病没しました。 直家の死後、家督を継いだ幼少の息子の宇喜多秀家は、豊臣秀吉の絶大な後ろ盾を得て57万石の大大名へ成長します。 秀家は、父の居城だった「石山」の隣にある「岡山」の丘へ本丸を移し、8年の歳月をかけて現在の岡山城を築城しました。 外壁に黒漆を塗った下見板を取り付けたため、漆黒の姿から烏城(うじょう)と呼ばれるようになりました。 また、発掘調査で宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しており、築城時には城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、豊臣政権下の有力大名である威厳を示していたことがわかっており、これにより金烏城とも呼ばれます。 多岐にわたる旭川の河道を利用して、流れを現在のように城の北や東を守るように整えたり、堀づくりに活用し、堀の間に南北に長い城下町をつくりあげました。 こうして今に続く中心市街地の原型ができ、岡山の名が、市名、県名となる礎となりました。 その後城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は、さらに拡張され今に至ります。 前述のように、この日は終日、宇喜多直家と秀家親子の軌跡を訪ねるツアーを敢行しました。 これまで個々に見てきた宇喜多家縁の史跡が、この日、一本の糸でつながった気がしました。 やはり、岡山の歴史は宇喜多直家・秀家なしには語れません。 実現するか否かはわかりませんが、NHK大河ドラマに取り上げるのに値する奥深い歴史を感じ取ることができました。





