不動峰~黒峰薬師堂~県境稜線~黒峰~不動峰周回ルート
向坂山・三方山・天主山
(宮崎, 熊本)
2026年03月28日(土)
日帰り
以前から、黒峰山から私の在住する馬見原へ繋がる県境稜線の、古道調査を実施しているのだが、地理院地図に黒峰薬師堂と不動峰を繋ぐ破線ルートの記載があるので調査した。
結果的には周回ルートに成るのだが今回はテープも付けた。不動峰側からはピストンに成る事が多いので、これからの参考になればと考える。
ルートの詳細はオプションに記載しているが、黒峰薬師堂について触れておこう。
薬師堂自体、室町時代に創建されたらしいのだが、仔細は殆ど解っていない。
「阿蘇家古文書」に1472年(文明四年)に編纂された「阿蘇山本堂造営棟別料足日記写」と言うやたら長い名前の文書が残っている。
”知保郷”と呼ばれたこの地域の集落69ヶ所、747軒が列挙されているが、早い話が阿蘇家への納税記録と考えれば間違いない。その中に薬師堂に至る近隣の集落に”さいちやう寺””さいふく寺”の記載が見える。
この時代、浄土真宗はこの地域には、まだ流入していないので、禅宗系のお寺かな?と思っていたが、阿蘇家との関連を考えれば山岳信仰(天台密教)の寺と考えた方が良さそうだ。
現に廃寺になったと思われる、”さいふく寺(西福寺)”には応仁2年(1468年)の銘が入った、神楽面?が残っている。(仮屋神社所蔵)。
おそらく、薬師堂周辺は修験道(山伏)の修行場、あるいは霊域として存在していたのではないか?
阿蘇大宮司家は中世の時代、豪族でありながら阿蘇山修験道ネットワークも支配下に置いていた。
阿蘇山の坊中を中心に、夥しい数の宿坊・庵があり300人~400人の修験者が居たのは解っている。又、阿蘇家の中心は”矢部浜の館”にあり、史実に残っているだけでも、有事の際、都合3回黒峰の稜線を越えて、五ヶ瀬鞍岡に逃げ込んでいる。
推測でしかないのだが、黒峰薬師堂周辺は常時修験者(山伏)が数人規模で滞在し、山岳修行を日課としながら、阿蘇家にとっては、最後の生命線でもある稜線越えの逃避行ルートの確認もおこなっていたのではないか?
この時代、医療も進んでいなく民間療法に頼る以外にはなかった。
修験者(山伏)は医療、薬草にも通じていて、この地域に住む人にとっては有難い存在でもあった筈だ。
それが薬師詣での古道として今も残っているのだろう。しかし、1500年代末、阿蘇家が衰退しその役割も終え、薬師堂だけが残ったのではないか。
尚、薬師信仰と天台宗は密接な関係にあり、本尊の一つでもある。
”知保郷”と呼ばれた、自分が生まれ育ったこの地域を知りたいと言う思いで、文献を読み漁り、かなりの数のフィールドワークもこなしてきたのだが、いきおい宗教それも仏教を中心とした事柄に集約されてきた。
私自身は仏教の教義など殆ど知らないのだが、1500年代初頭、豊後大分から馬見原に来られて真宗を布教された”慶徳法師”の存在を知ったことからだった。
おおよその概略は掴めたのだが、真宗流入以前の宗教が”山岳仏教”あるいは修験道(山伏)に及ぶことも、改めて知る事に成る。
今、修験道について勉強しているのだが、この地域の歴史に多大な影響を及ぼしていることが、朧気ながら認識できる。
明治初年に「神仏分離令」それに続く「修験道(山伏)禁止令」により、廃仏毀釈運動がおこり、史料等が失われたのは残念だが、断片的な記憶がまだ残っている可能性がある。
いずれにしても、山岳信仰・山岳仏教は、現代の私達が認識できないだけで、歴史あるいは生活に於いても多大な影響を及ぼしているのではないか?
尚、黒峰山あるいは不動峰の名前の由来も、修験道を根底に考えれば理解出来るのではないだろうか。