猿の墓🐒と岩戸山⛰️卍🙏
国﨑半島から加津佐の岩戸山へ出掛けてきました🚙💨定期的に岩戸山の大智禅師さまと猿の墓を訪ねて…🐒 <大智禅師さまとは?> 島原の有馬澄世より加津佐へ招かれた熊本の曹洞宗・高僧です。有馬氏が招いた目的とは、島原の民の生きる力に仏教を根付かせて欲しい願いでした🙏禅師さまは熊本檀家たちの事も考え断りたい心境の中、島原の民へ曹洞宗の教えを広められました卍🙏 <有馬家の裏切り> しかしながら、後の有馬晴信がキリシタン大名となり、民はキリスト教へ改宗。本来、民の生きる力となって欲しい有馬家の裏切りに神社、お寺は悉く破壊されました。仏教弾圧を避けて仏教徒たちは岩戸山の隠れた洞穴に観音さまたちを隠し、穴観音として信仰を続けました🙏しかしながら、キリシタンたちは穴観音を発見し、崖の洞窟から海へ石仏さま達を投棄🌊木製の仏さま達は奪われ、キリシタンの焚き木とされました💢 <破壊された円通寺跡に神学校✝️> 禅師さまが創建された水月山・円通寺はキリシタンにより破壊されました🔥その場所近くにキリスト教の神学校が建てられました。キリシタンによる神道・仏教弾圧は続けられ、過酷な場所となりました。キリシタン大名の大村純忠、有馬晴信、大友宗麟らは神学校から優秀な4人を選抜してローマへ派遣。これが天正遣欧少年使節です。ローマ教皇へ接見させて、帰国後に日本人宣教師とさせる目的でした。その目的背景にあったのは、外国人宣教師だと日本人を見下して布教がうまく進まないと想う気持ちからでした。 <長崎贈与事件と豊臣秀吉の禁教> 豊臣秀吉が九州制定時に初のキリシタン大名・大村純忠が長崎をイエズス会に寄進した事を知る😲九州制定なのに長崎は日本の土地ではなく、他国の領地になっていたこと!秀吉が制定出来ない長崎にはカトリックやフランシスコ会達が居た領地となっていたこと💢長崎では、キリスト教への改宗を拒否する民や反抗出来ない立場を創り若者男女を日本人奴隷として海外へ売りさばき奴隷ビジネスで資金を増やしていたこと。少年は労働奴隷、少女は性奴隷として…これを九州で知った豊臣秀吉が怒り、禁教令時代へ入ったのです。そして、秀吉はイエズス会より長崎を取り戻したのです。 <禁教令時の天正遣欧少年使節は?> 少年4人はローマに居る頃、日本では豊臣秀吉の禁教令時代となり、帰国出来ずに居ました。後の徳川家康も更に強固なキリシタン弾圧にて、少年達は密かに帰国後してイエズス会に入るも隠れて布教を続けました。後に大村純忠の甥っ子である千々石ミゲルのみ『キリスト教は邪宗』と言い、棄教。他の少年3人はキリシタン弾圧の中、布教を続けました。ミゲルはローマでポルトガル船内に長崎から奴隷として連れて来られていた少年少女を見てたのです。ミゲル自身と同じ長崎の少年少女…心痛かったと想われます🙏 <徳川家康のキリスト教弾圧> 貿易は必要だが、カトリックの行為が許せない国内事情があった。また、同じキリスト教内でも日本人奴隷や貧困ビジネスが問題となった。そして、キリスト教の教えに戻ろうと出来たのがプロテスタント✝️🙏家康はカトリックと断絶、プロテスタントを家臣に置き、諸外国との窓口や情報収集にあたる。家康がキリシタン弾圧を強化したのは、信徒の数が増えたこと。増えてもいいように見逃してはいたが、信徒たちが信じ崇拝するのは天下人の家康では無く、キリストの神であること✝️🙏信徒の国内反乱が起きては家康は日本を守れないと考える。天下人になったのは、戦が無い安全な日本創りにあった。これを守る為には、カトリックによる日本植民地支配を避ける必要があり、キリシタン弾圧を強化したのです。 <スペインとポルトガルで世界植民地支配>スペインとポルトガルが世界植民地支配をする際、キリスト教布教にて植民地支配をする計画があった。スペインとポルトガルで地球半分に別けて侵攻したのです。しかし、他教との争いが起きてきます。イスラム教会とカトリック教会は争っていましたが、カトリック教会が疲弊してゆく。キリスト教を信じさせる為に魔女狩りを行う。それを見てた人の恐怖心を煽り『免罪符を買いなさい!』と人の心につけ込んだ金儲けに必死となる。これらの行為や人身売買などでカトリック教会は信徒たちの中でも良くない意見も出る。その結果、キリスト教の基本に戻ろうとする動きが始まりプロテスタントが誕生する。カトリック中でも正しくなったのがイエズス会である。徳川家康は、これまでのカトリックを切り離し、プロテスタントのウイリアム・アダムス(家康が大分県臼杵市で座礁したオランダ船🇳🇱リーフデ号を捕らえた乗組員、カトリックの狙いを家康へ明かす)を側近とする。そのプロテスタントが後の日本名を貰い受けた三浦按針氏である。秀吉も家康もキリスト教を否定していた訳ではなく、信仰を侵攻に代える勢いがカトリックにはあったことにある。日本侵攻を考えないプロテスタントと諸外国との貿易を続けた理由です。 <朱印船の意味> 貿易と称し、痛い目にあった日本。しかし、時は戦国時代から始まった事もあり、秀吉と家康の天下人の下に日本には強い武士たちが犇めいていたこと。ポルトガルの植民地支配を断念させた。諸外国との貿易を安全に続ける為にも朱印制度を設け、この船が国の公的機関船である事を証明させた。要は反省点として!これまでの誰でも近づいてきた貿易ではなく、正式な国が行う貿易である証明を必要にしたこと。これが朱印である。しかし、その日本朱印船がマカオでポルトガルに襲撃され乗組員全員が殺害された。日本では長崎に居たポルトガル船のデウス号を襲撃する許可を家康は出し、有馬晴信が中心となりデウス号を攻撃。デウス号は福田と伊王島沖で争うも、捕らえられるのを恐れたデウス号船長は自爆してデウス号は海に沈んだ。それから長崎の外国船監視は更に厳しくなる。私のレポで松島(ライオン島)にデウス号を向いたマリアさまが居られると触れた理由です。





