クライミングで完登を目指して同じ課題やルートを何度もトライすることを「打ち込む」と言います。何日も何回も、登れるまで壁に取りつくような「執着した状態」を指していることが多いです。 クライミングの楽しみの一つには「完登できた時の達成感」があります。他にも「登ることそのものの充実感」や「成長を感じたときの自己肯定感」などなどクライミングの楽しみは様々ありますが、この「達成感」というヤツは面白いなぁと思います。 「達成感」は、文字通りに目標を成し遂げた時に感じる喜びです。その目標が高く困難なものであれば達成感はより高くなります。クライミングでは、トライする課題やルートの難易度(グレード)が目安としてあるので、目標設定を自分でできるのです。 さて、「リードクライミングジム」で2月頃からトライし始めたルートがありました。5.11cというグレードのルートですが、かぶった(130度)壁にあります。垂壁であれば登れるグレードでも、ハングした壁になるととたんに登れません…。 最初は3手まで進むのがやっと。やっぱり被り壁はオッサンには無理だわ~と泣きが入りました。ここでイソップ童話の「すっぱい葡萄(狐と葡萄)」が頭に浮かぶんです。届かない葡萄を前に(ふん、どうせこの葡萄は酸っぱくて不味いに決まってる)と負け惜しみを言うキツネの話です。 ところで「負け惜しみ」って言葉も興味深いですね。 「負け」を「惜しむ」と分けてみたときに、優劣が明確になる勝負事で「自分は負けてない」と屁理屈を言う場合もありますが、「すっぱい葡萄」の場合は何に「負け」ているのでしょう。 これは、己の弱さや足りなさを素直に認められない「自分」に負けているという事なのかなと思うのです。素直に認めた上で立ち上がろうとするならば、それは「負け」でなく「克つ」ことになるのだろうと。 僕は垂壁なら5.12aまで登れるんだもんね。ハング壁の5.11cなんて、しょせん体力自慢の若者がブイブイ言わせて登るだけのルートやんか。オッサンには登れなくってもいいもんね~。と思うのは簡単なのですが、でもそれって「すっぱい葡萄」なんじゃないか?と頭をよぎりました。 そこでともかく僕は「すっぱい葡萄」に飛びつき続けることを選択してみました。ひとつには「その葡萄は甘い」という事を経験的に知っているからです。つまり、「もし目標達成できたならば、その喜びはとても大きい」ということや、「執着したあげくにやはり目標達成できなかったとしても、得られるものがある」ということを知っているからです。さらには「目標に向かって行動すること、それ自体」を楽しむことができるからでもあります。 さてこのルートに打ち込み始めて、3手が4手、4手が5手とわずかづつ進めるようになってきました。核心部で手詰まりになって進展が見られなくなった時に、僕のトライを見ていた人たちが様々なアドバイスをくれました。そうしたアドバイスのお陰もあって、結果として完登できたのでしたが、そこである気づきがありました。 自分より登れる人のアドバイスを聴ける自分と、自分より登れない人のアドバイスを聴けない自分がいたことです。核心部で手詰まりの時に、自分より登れない人のアドバイスを僕は軽んじていました。ところが完登した時に、初めて分かりました。アドバイスをくれた人は、自分が登れるとか登れないとか関係なく、みんな僕の応援をしてくれていたんだよな。ありがたいなあ、と。 ある意味、感謝の気持ちって自分自身がやり切ったときに生まれるものだと思うのです。逆を言えば、感謝の念が出ないというのは、やり切ってない。やり切った上であれば、たとえ目標が達成できなかったとしても、感謝の念は起きるだろう。自分を出し尽くしてない時こそ、「すっぱい葡萄」が出てくるのかも知れません。 「打ち込む」って「出し切る」ってことなんだなあ。自分自身で勝手に決めつけている限界に挑戦することで学ぶことは多いものだなあと感じたのでした。 ああ、またまた支離滅裂な長文になりましたね。 ええ、今夜も既に酔っていますとも(笑)。 https://youtu.be/fBgOCRrMUuY

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。