ルートなし山頂秋葉山

このランドマークを通る活動日記

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386 m

第22回孫市まつりと、雑賀衆 VS. 信長・秀吉との戦跡を訪ねる

和歌山市(和歌山,兵庫)

2026.03.29 (日)日帰り

ハゲ親父
ハゲ親父

このランドマーク付近の写真

顕如上人桌錫所の碑
天文19(1550)年、弥勒寺山に紀州御坊が移転してきた
この場所に紀州御坊が移転した経緯については詳しくはわからないが、当時精強をもって全国に知られていた「雑賀衆」の中には本願寺を支持する者が多かったと言われていることから、雑賀衆が自らの本拠地であった弥勒寺山に紀州御坊を招いたのかもしれない
しかし、従来は雑賀衆の大半が熱狂的な本願寺の信者であったとする言説が多かったが、最近の研究では他宗派の信者も多数いたと考えられており、単純に「雑賀衆 イコール 本願寺門徒」との図式では捉えられないとされる
顕如上人桌錫所の碑 天文19(1550)年、弥勒寺山に紀州御坊が移転してきた この場所に紀州御坊が移転した経緯については詳しくはわからないが、当時精強をもって全国に知られていた「雑賀衆」の中には本願寺を支持する者が多かったと言われていることから、雑賀衆が自らの本拠地であった弥勒寺山に紀州御坊を招いたのかもしれない しかし、従来は雑賀衆の大半が熱狂的な本願寺の信者であったとする言説が多かったが、最近の研究では他宗派の信者も多数いたと考えられており、単純に「雑賀衆 イコール 本願寺門徒」との図式では捉えられないとされる
秋葉山 山頂(弥勒寺山城跡)
雑賀孫市が織田信長と戦うため、天正5(1577)年に築いた砦
雑賀孫市は「雑賀城」より、雑賀全体を見渡すことができる「弥勒寺山城」を本拠としていた

天正5(1577)年、織田信長の嫡男「織田信忠」率いる約100,000の軍勢は、海沿いと山沿いの2手に分かれて雑賀城へ進軍。対する雑賀衆の棟梁「鈴木孫一」は、手勢わずか2,000人
勝負は目に見えているはずだったが、鈴木孫一は巧みなゲリラ戦を仕掛けて織田軍を翻弄した。対陣した和歌川にあらかじめ逆茂木などを沈めておき、川を渡る織田軍を足止めすると、鉄砲部隊でいっせいに狙撃
織田軍は多大な損害を受けて退却を余儀なくされます。以降も地の利を活かしたゲリラ戦を展開されたことで、織田軍は絶対に避けたかった長期戦へと引きずり込まれてしまったのでした。見かねた織田信長は、制圧を諦めて懐柔策に切り替える
鈴木孫一らに停戦を持ちかけて条件付きで服従を約束させ、辛うじて体面を保ったのであった。しかし、織田軍が撤退した約半年後、鈴木孫一は早くも反旗を翻し、第二次雑賀合戦が勃発。雑賀衆は、ここでも約80,000の織田軍相手にゲリラ戦で対抗し、再び織田軍を退けた
結局、織田信長は最後まで雑賀衆を討つことができないまま、石山合戦が終結

紀州征伐の達成は「本能寺の変」の3年後、「羽柴秀吉」の時代まで持ち越された
秋葉山 山頂(弥勒寺山城跡) 雑賀孫市が織田信長と戦うため、天正5(1577)年に築いた砦 雑賀孫市は「雑賀城」より、雑賀全体を見渡すことができる「弥勒寺山城」を本拠としていた 天正5(1577)年、織田信長の嫡男「織田信忠」率いる約100,000の軍勢は、海沿いと山沿いの2手に分かれて雑賀城へ進軍。対する雑賀衆の棟梁「鈴木孫一」は、手勢わずか2,000人 勝負は目に見えているはずだったが、鈴木孫一は巧みなゲリラ戦を仕掛けて織田軍を翻弄した。対陣した和歌川にあらかじめ逆茂木などを沈めておき、川を渡る織田軍を足止めすると、鉄砲部隊でいっせいに狙撃 織田軍は多大な損害を受けて退却を余儀なくされます。以降も地の利を活かしたゲリラ戦を展開されたことで、織田軍は絶対に避けたかった長期戦へと引きずり込まれてしまったのでした。見かねた織田信長は、制圧を諦めて懐柔策に切り替える 鈴木孫一らに停戦を持ちかけて条件付きで服従を約束させ、辛うじて体面を保ったのであった。しかし、織田軍が撤退した約半年後、鈴木孫一は早くも反旗を翻し、第二次雑賀合戦が勃発。雑賀衆は、ここでも約80,000の織田軍相手にゲリラ戦で対抗し、再び織田軍を退けた 結局、織田信長は最後まで雑賀衆を討つことができないまま、石山合戦が終結 紀州征伐の達成は「本能寺の変」の3年後、「羽柴秀吉」の時代まで持ち越された
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