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このランドマークを通る活動日記

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世界遺産と青根ヶ峰

吉野山・青根ヶ峰・百貝岳(奈良)

2025.12.11 (木)日帰り

mochiiii
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このランドマーク付近の写真

黒漆金銅装神輿
現在行われ祭りでは、この神輿のレプリカが曳行される
黒漆金銅装神輿 現在行われ祭りでは、この神輿のレプリカが曳行される
本殿
文禄3(1594)年、吉野の花見を催した豊臣秀吉は、この地を訪れて秀頼誕生を祈願したのだという
現在の社殿は、慶長10(1605)年に豊臣秀頼によって建立された
本殿 文禄3(1594)年、吉野の花見を催した豊臣秀吉は、この地を訪れて秀頼誕生を祈願したのだという 現在の社殿は、慶長10(1605)年に豊臣秀頼によって建立された
西行法師座像
西行法師は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。俗名は佐藤義清といい、若い頃は平清盛と同僚で、鳥羽上皇に仕える北面の武士であった。しかし、23歳で突然出家し、法名「円位」を経て名を「西行」と改めた。全国を旅して多くの和歌を詠み、自然や人生の哀れを素朴な言葉で表現し、後世の歌人にも多大な影響を与えました。家集に「山家集」があり、「古今和歌集」には最多の94首が収録されている
西行法師座像 西行法師は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。俗名は佐藤義清といい、若い頃は平清盛と同僚で、鳥羽上皇に仕える北面の武士であった。しかし、23歳で突然出家し、法名「円位」を経て名を「西行」と改めた。全国を旅して多くの和歌を詠み、自然や人生の哀れを素朴な言葉で表現し、後世の歌人にも多大な影響を与えました。家集に「山家集」があり、「古今和歌集」には最多の94首が収録されている
楼門
子守宮とも呼ばれ、「みくまり」が訛って「みこもり」となり、子授けの神としての信仰を集めた
文治元(1185)年、源義経が金峯山寺の僧兵に追われて逃げ延びた場所とも伝えられている
楼門 子守宮とも呼ばれ、「みくまり」が訛って「みこもり」となり、子授けの神としての信仰を集めた 文治元(1185)年、源義経が金峯山寺の僧兵に追われて逃げ延びた場所とも伝えられている
吉野水分神社
水を司る天之水分大神を主祭神とし、大和国の東西南北(宇太・葛城・吉野・都祁)に置かれた社の一つ
もとは吉野山最南端の青根ヶ峰の山頂にあって、大同元(806)年頃に現在地へ遷座された
吉野水分神社 水を司る天之水分大神を主祭神とし、大和国の東西南北(宇太・葛城・吉野・都祁)に置かれた社の一つ もとは吉野山最南端の青根ヶ峰の山頂にあって、大同元(806)年頃に現在地へ遷座された