寺真田庵

このランドマークを通る活動日記

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2312 m

高野山町石道(雨引山・弁天岳)

高野参詣道(高野山・楊柳山・雨引山)(和歌山,奈良)

2026.09.19 (土)日帰り

ななまる
ななまる

このランドマーク付近の写真

真田地主大権現 真田昌幸の墓
昌幸は、甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸綱の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された
関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されたが、東軍に属した長男の信幸とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められ、この地で最後を迎えた
真田地主大権現 真田昌幸の墓 昌幸は、甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸綱の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された 関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されたが、東軍に属した長男の信幸とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められ、この地で最後を迎えた
真田庵
高野山からこの地へ下った、真田昌幸父子の屋敷(蟄居)跡に建てられたお寺
真田庵 高野山からこの地へ下った、真田昌幸父子の屋敷(蟄居)跡に建てられたお寺
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