金山

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このランドマークを通る活動日記

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写真17
もらったドーモ78
03:31
4.9 km
365 m

金山

金山(兵庫)

2025.03.18 (火)日帰り

シーマ
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行き方少し残っています。
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山頂で早めの昼食
山頂で早めの昼食
山頂より
山頂より
金山城物語
天正六年(1578年)二月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光委に征討を命じ、同年三月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。
秀治はその居城八上城にあって、米上郡(現丹波市)にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、
天正三年(一五七五)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げ帰った苦い思い出があだたからです。
光秀は、秀治と赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち多紀郡(篠山市)と水上都(現丹波市)の郡境にあって両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正七年(一五七九)六月ついに落城し戦国時代に勇名をはたせ波多野氏は歴史の舞台からえ去ることになります。
平成三十一年二月一般財団法人大山振興会
金山城物語 天正六年(1578年)二月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光委に征討を命じ、同年三月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。 秀治はその居城八上城にあって、米上郡(現丹波市)にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、 天正三年(一五七五)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げ帰った苦い思い出があだたからです。 光秀は、秀治と赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち多紀郡(篠山市)と水上都(現丹波市)の郡境にあって両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正七年(一五七九)六月ついに落城し戦国時代に勇名をはたせ波多野氏は歴史の舞台からえ去ることになります。 平成三十一年二月一般財団法人大山振興会
金山
506m
金山 506m