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世界遺産・法隆寺の謎に迫る☆法隆寺が語る人々の歴史の写真

五重塔の隅肘木と隅垂木です。肘木は雲肘木と呼ばれる独特の意匠です。軒の組み物がよく観察できますね。

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koe-sun
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急がずゆっくり登ります。昼食は大休憩が基本(^-^)ケガなく下山が唯一の目標!

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世界遺産・法隆寺の謎に迫る☆法隆寺が語る人々の歴史

矢田丘陵・法隆寺(奈良,大阪,京都)

2016.12.07 (水)日帰り

koe-sun
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山レポではありませんし、かなりの長文になると思いますので、興味のない方は遠慮せずにスルーしてください(^_^;) また私見が多く含まれていますので、その辺りご了承いただきますようお願いいたしますm(__)m 世界最古の木造建築として、世界遺産にも登録されている法隆寺ですが、その知名度に比べて世間の理解度はなかなかに浅いような気がします。おそらくその理由は、法隆寺が謎だらけだからではないでしょうか? 現在の法隆寺は飛鳥時代の建物ではありませんし、聖徳太子が建てたものでもありません。その独特の伽藍配置もそうですし、仏像も謎だらけです。 しかし法隆寺の謎は、それこそがその時代を理解するための鍵ではないかと思うんです。 それでは法隆寺の謎を少しずつ解いていくことにしましょう☆ 「創建と再建の謎」 信仰対象としての聖徳太子と、聖徳太子のモデルとなった(後に信仰対象として聖徳太子と呼ばれるようになった)実在の人物、厩戸皇子を混同すると話がややこしくなります。 飛鳥時代に用明王が勅願し、推古女帝と厩戸皇子によって建てられた創建法隆寺、いわゆる斑鳩寺は、現在の法隆寺西院伽藍のすぐ南で発見された若草伽藍と呼ばれる遺構がそれです。 しかし天智9年(670年)、創建法隆寺は火災により焼失してしまいます。日本書紀には「夜中に火災があり、一屋も余すことなく焼け落ちた。大雨が降り雷がなった。」とあるので、おそらく落雷による火災かと思われます。 現在の法隆寺は白鳳期に聖徳太子を信仰対象として、官のサポートを受け再建された太子ゆかりの寺という方がより正確でしょう。決して太子が建てた寺ではありません。 私はおそらく法隆寺の再建には藤原氏、具体的には藤原不比等の政治的策略があったものと考えています。不比等は中臣鎌足の息子です。 聖徳太子信仰を後押しすることが、すなわち乙巳の変による蘇我入鹿誅殺を正当化することにつながる。それが天武朝において没落した藤原氏の復権を保証することになると考えたのでしょう。 日本書紀には法隆寺の焼失記事はありますが、再建記事がありません。それがまた話をややこしくさせるわけですが…太子信仰の盛り上がりと藤原氏の復権、官から法隆寺への施入記事等を総合的に判断しますと、おそらく法隆寺の再建は天武の死後、持統4年(690年)頃に始まり、和銅4年(711年)頃にはほぼ伽藍は完成したと考えられます。 ちょうど藤原氏が持統朝において復権を果たし、平城遷都への足固めをしていた時期と重なりますね。 「伽藍配置の謎」 それはともかく法隆寺が世界最古の木造建築であることには変わりません。1300年以上もの昔から立ち続けるその建築技術には、目を見張るものがあります。そしてその伽藍配置は法隆寺様式と呼ばれる、非常に珍しいものです。 法隆寺様式とは中門を入ると向かって左に五重塔、右に金堂という伽藍配置です。 法隆寺より古い寺院で言えば四天王寺様式という伽藍配置がありますが、これは中門・五重塔・金堂・講堂を一直線に並べるものです。 寺院というのは仏教、つまり釈迦の教えを実践し、それを広め、修行をする拠点なわけですから、最も重要なのは釈迦になります。 五重塔は舎利を納める仏塔。舎利は釈迦の骨ですから、塔は釈迦そのものなのです。 それに対し金堂は拝む対象である仏像、寺の本尊を安置する堂ですから、当然釈迦そのものである塔が重要視されます。 なので四天王寺様式では中門を入るとまず釈迦そのものである塔、その次に拝む対象のある金堂、そして一番奥に人間が修行する講堂という順番で伽藍を配置しているわけです。 ところが法隆寺では五重塔と金堂が同格で並び立っています。五重塔は釈迦です。では金堂が意味する拝む対象とは一体何なのでしょうか? 金堂に安置されている本尊は釈迦三尊像ですが、この像は「尺寸王身」であるといいます。つまりこの釈迦像は聖徳太子そのものなのです。拝む対象は信仰対象としての聖徳太子であることがわかります。 法隆寺様式とは釈迦の世界と太子の世界の並立と融合という、新しい仏教の在り方を示しています。 法隆寺再建の目的が藤原による太子信仰の興隆であることを理解すれば、このような斬新で特殊な伽藍配置もうなずけますね。 「中門の謎」 何の下調べもせずにフラっと法隆寺に立ち寄ったので全然知りませんでした。。。中門が保存修理中だったなんて!…ショックです。 法隆寺の一番の謎は中門です。中門の謎さえ解ければ、法隆寺の謎は全て解けると言っても過言ではありません。あー、それなのに、それなのに。。。 中門の謎とは門の真ん中に通せんぼをするように、柱が立っているというものです。 通常、門の柱間は三間か五間など奇数間になっているものです。そうすると真ん中に出入り口としての空間ができ、門としての機能を果たすことができる。ところが法隆寺中門は四間で真ん中に柱がある。通れない門になっているわけです。 梅原猛氏は著書「隠された十字架」において、「法隆寺中門の柱は聖徳太子の霊を封じ込めるための怨霊封じの柱だ」と論じられました。この論は非常にセンセーショナルな話題となりましたし、私も興味深く拝読しましたが、残念ながら私はこの柱を怨霊封じだとは考えてはおりません。 中門の真ん中に柱があるのには3つの理由があると考えます。 まず一つめの理由は…先ほどの「伽藍配置の謎」で述べたように、法隆寺が釈迦の世界と太子の世界が並立する特殊な空間であるということです。 他の寺院では門を入るとそこは紛れもない釈迦の世界です。門は一つでいい。ところが法隆寺は釈迦の世界と太子の世界、二つの世界が並立しているのです。世界が二つあるわけですから、当然門も二つ必要になった。一つの門の真ん中に柱を立て、門を二つに分けたのではないでしょうか? 真ん中の柱に対し、左は釈迦の世界への門。右は太子の世界の門。こう考えると不思議ではないような気がしませんか? 二つめの理由は…インド仏教の回る礼拝方式、「プラダクシー・パタ」の影響です。 プラダクシー・パタとはインド仏教において、塔の周りを右回りに回りながら礼拝をする礼拝方式をいいます。 回廊の内側は聖域であり、通常人が入ることは許されません。入れない以上、回廊を回りながらでしか礼拝できないわけです。なので回廊は回る廊下なんですね。 プラダクシー・パタを行う仏塔では、左に向かって入り口があり、別に右から回ってきた出口があります。 法隆寺の門も真ん中に柱を立てることによって、左を回る礼拝への入り口、右を出口に分けたのかもしれません。 門の左から回廊に入り、右回りに釈迦の世界〜太子の世界〜釈迦の世界〜太子の世界と回りながら礼拝を繰り返し、右の出口から出る。そういった礼拝が行われていたのかもしれません。 三つめの理由は…特殊な伽藍配置に対する意匠です。 法隆寺では縦に高く正方形の五重塔と、横に広い長方形の金堂が横並びになります。 四天王寺様式では伽藍の中軸線は建物を真っ直ぐに貫くことになるので安定感が出るのですが、法隆寺では伽藍の中軸線上に建物がありません。中軸線は中空を貫くことになり、伽藍は非常に不安定な配置になります。 門を入るときには真ん中に柱があるので、門の中央に立つことができません。常に伽藍を斜めに見ることになるので、中軸線の問題は特に気にならないでしょう。 ところが回廊を右回りに回って、北面回廊の中央に来たときに問題は発生します。 北面回廊の中央から南に向いたとき、もし中門の真ん中に柱がなかったら…塔と金堂の間に、ポッカリと口を開けた門が見える。これでは中軸線がはっきりせず、伽藍全体が不安定になり締まりが無い。 特に法隆寺の伽藍中軸線とは、釈迦の世界と太子の世界を分ける、とても重要なラインです。これがはっきりしなければ、拝む人たちはいつの間にかぼんやりと釈迦の世界から太子の世界に足を踏み入れることになる。これではいけないのです。 そこで中門の真ん中の柱が必要になってきます。これがあることによって、建物のない中空にでも、はっきりと中軸線を意識させることができる。つまり釈迦の世界と太子の世界の境を、はっきり意識付けすることが可能になるわけです。 さらに中軸線を意識付けすることによって、伽藍全体を引き締め、安定感を出す効果もあります。 こうした理由によって、中門の真ん中に柱が立てられたのだと思います。特に一つめと三つめのの理由が重要なのではないでしょうか? 法隆寺に行ったらぜひ中門で立ち止まってください。そして北面回廊から門を見つめてください。門の真ん中に柱を立てた人たちの気持ちを感じてほしいと思います。それを感じられたら、もう法隆寺は難しくはありません(^^) 「五重塔の謎」 中門の謎が解けたらもう謎はないと言いながら、五重塔の謎です。いや、そんなに謎はないかな? 日本最古の五重塔で、基壇からの高さは32.5mあります。しかしその高さの割には、とても穏やかで安定感がある。 なぜでしょう?そのわけは逓減率と組み物にあると思います。 逓減率とは上層に行けば行くほど、どれだけ建物のが小さくなっていくのか、その割合を数値で示したものですが、法隆寺五重塔の逓減率は50%です。つまり五層めは初層の半分の大きさになるわけです。上層が小さくなればなるほど、塔の安定感は増すことになります。 組み物は法隆寺特有の雲斗雲肘木です。雲の意匠を凝らした巨大な肘木一手で尾垂木を支えます。斗にも雲の意匠がありますね。 特に隅肘木は非常に大きな部材になります。再建当時はまだこれだけの部材が取れる大きな木があったんですね。それでも宮大工が見ると、建築の順番が先だった金堂の方が良い材を使っていて、五重塔の材は悪くなっているらしいです。 奈良時代に入ると、平城京の建設ラッシュで大きな木が不足します。大きな部材がとれなくなった結果、三手先など比較的小さな部材の組み合わせで、持ち送りで軒を支える組み物ができあがるのです。組み物がシンプルだと、建物の表情は穏やかになります。 この逓減率と組み物が、この塔の穏やかで優しい表情を作り上げているのですね。 卍崩し高欄や人字束も法隆寺独特の意匠なので注目してください。 屋根は非常に軒が深いです。海外ではこのような深い軒の建物はみられません。雨の多い日本の風土に合わせて、このような深い軒ができたのですね。 軒を支える肘木は、屋根に乗る瓦の重みと、上層の建物の重みを天秤のようにバランスよく支えながら軒を保持しています。五層めの軒は、肘木を支える上層の建物がありません。相輪の重さで軒を支えます。なので長い年月の間に軒を支えきれなくなって、軒が垂れてきます。とうとう支えきれなくなったので、五層めの軒だけは柱で支えられています。後世に追加されたものですね。 屋根は六層になっていますが、一番下の板葺きの屋根は裳階といって、本建ちを風雨から守るために取り付けられたものです。 五重塔で見落としてはならないのは、初層の塑造群ですね。 建物の四面を使って、釈迦に関わる象徴的な場面を塑造で表現しています。特に北面の釈迦入滅の場面は、臥した釈迦を取り囲み泣き崩れる弟子たちの姿が、リアルに表現されています。まるで生きている人を見ているような、悲しさ、切なさ、悔しさを抱えたその表情に、思わず目を奪われてしまいます。 謎と言えば、五重塔の相輪には鎌が付いているのをご存知でしょうか? 相輪とは五重塔最上層の屋根の上に取り付けられた塔のことです。露盤、伏鉢、九輪に水煙や宝珠からなる塔ですが、実は仏塔とはこの相輪の部分を指します。その塔を遠くからでも祀れるように高く高く持ち上げた結果が五重塔なんです。 その相輪に鎌が付いています。ところがこの鎌が何のために付けられたのか、なぜ鎌なのか理由はわからないそうです。おそらく落雷除け、雷神封じのような厄除け意味があるのかもしれませんね。 「金堂の謎」 だからもう謎はないんですけどね(^_^;) 金堂の謎は仏像の謎に尽きるので、そのあたりはまた後ほど。 金堂は入母屋造りの二層の建物で、五重塔と同じように裳階が取り付いています。こちらの組み物も雲斗雲肘木、卍崩し高欄や人字束も五重塔と同じ意匠です。 金堂の軒も深いですね。反りはあまり大きくはないですが、直線的でシャープな反りは凛とした美しさを見るものに与えます。 しかしこちらの軒ももう支えきれなくなっているんですね。初層も二層めも柱で支えられています。柱に巻きつく竜の意匠は、個人的にはあまり法隆寺らしくないと思うのですがいかがでしょうか? 「回廊の謎」 内側は解放され、外側は連子格子の回廊です。シンプルな虹梁に叉首と呼ばれる山型の束で屋根を支えています。 柱がよく観察できるので、まずは柱に注目してみましょう。 柱は礎石立ちという工法で立てられています。古い建物や一時的な建物は掘立柱という工法が主流なのですが、法隆寺の柱は全て礎石立ちです。 掘立柱というのは、地面に穴を掘り底石を敷きます。その穴(柱穴)に柱を落とし込み、地面を突き固めて柱を固定するので、比較的簡単な技術で柱を立てることができます。しかし土中の柱はやがて腐ってくるので、恒久的な建物には向いていません。そこで礎石立ちなのです。礎石立ちは自然石の礎石の上に直接柱を立てます。礎石は表面処理などを行いませんし、柱は金具で固定するわけでもありません。ただ石の上に柱を乗せているだけです。 自然石の表面には複雑な凹凸があります。その凹凸を特殊な器具で移し取り、柱の底面をその凹凸に合わせて削るわけです。その削った柱を礎石の上に乗せると、柱や建物の重みで凹凸が噛み合い、柱はビクとも動かなくなります。とんでもなくシビアで高い技術によって立てられているのです。 ぜひ柱の根元に注目してください。柱によっては、礎石の上に乗っているだけなのがよくわかりますよ。 それから法隆寺の柱はエンタシスであると書かれた資料を目にしますが、そうではありません。エンタシスとは形状が異なります。 法隆寺の柱は下から3分の1くらいの所が一番太くなって、上に行くほど細くなります。胴張りといって、真っ直ぐの柱だと並べて見たときに柱の真ん中辺りが痩せて見えるのを防ぐために太らせているのです。これによって優しく穏やかな柱列を作り上げています。 連子格子に注目してみましょう。 格子の材は鉋もかけずに割っただけのものが多く見られます。台鉋は中世以降に入ってきた道具なので、古代は槍鉋と呼ばれる削り鉋しかありません。割っただけの材は形状が一定ではないので、それぞれの材に合わせてほぞ穴を開けるのは大変な苦労だったと思います。 虹梁をよく見ましょう。 回廊はほとんどが後世に補修を受けたものですが、実は東面回廊の南半分に再建当時の回廊が残っています。後世の虹梁は微妙に曲線にズレがあったり、直線的なものがあるのですが、再建当時の虹梁は寸分の狂いもなくピタっと揃っています。よく見るとその技術の高さがわかると思います。 中門から東西に延びる回廊ですが、実は東側は柱間が一間長く作られています。 東側には横長の金堂があるので、東西の回廊が同じ柱間だと、西側にくらべ東側の空間が狭くなり、シンメトリーにも関わらずアンバランスに感じてしまうのです。たった一間ですが、その一間によって伽藍全体のバランスを保つ。そんな繊細な空間構成を古代の宮大工は計算していたのですね。 付け加えると、現在の回廊は北面回廊において直角に折れ曲がり講堂に接続されていますが、再建当時の回廊は北面回廊は一直線に繋がっていました。講堂は回廊北の外側に位置していたのです。講堂は人の世界、回廊の内側は聖域という区別が、はっきりとなされていたということでしょう。 「仏像の謎」 ・釈迦三尊像…法隆寺の本尊は金堂に安置されている釈迦三尊像です。この本尊も法隆寺の大きな謎の一つです。 細面の輪郭に、大きなアーモンド型の目。三角の大きな鼻に、静かに微笑みをたたえる口元(アルカイックスマイル)。印相は施無畏印に与願印。シンメトリーな構図を基本に台座から頭部までを二等辺三角形に描き、正面性を意識したデザインは、北魏様式の流れをくむ飛鳥時代の作品であると伝えられています。 この釈迦像を作った仏師は鞍作止利です。止利は渡来系の人物で、司馬達人の子孫にあたります。鞍作氏を名乗っているので、元々は馬具などを作る職掌集団なのかもしれません。飛鳥寺の飛鳥大仏を作った仏師ですね。 釈迦如来の脇侍と言えば文殊菩薩と普賢菩薩ですが、この釈迦像の脇侍は薬王菩薩と薬上菩薩です。しかしこの薬王・薬上という菩薩像は法隆寺以外には見られません。造立の縁起から後世に当てられた菩薩名なのでしょうか? 釈迦三尊像の謎といえば光背銘でしょう。光背の裏に銘文が記されているのですが、これがこの釈迦三尊像の謎を深めています。 この光背銘にはおおよそ次のようなことが記されています。 「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、王后・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」 この銘文が後世の追刻かどうかはさておき、この仏像の様式や製作技術から飛鳥時代の作品だとすると、縁起を示すこの銘文も大方間違いがないと言われています。そして通説では銘文があるからこそ、この釈迦三尊像が創建法隆寺の本尊であったというのです。 先述の通り、創建法隆寺は760年に火災で焼失しています。落雷によって五重塔に火災が発生した。若草伽藍の塔と金堂は9mしか離れていません。降り注ぐ火の粉によって、あっという間に金堂に延焼したことは想像に難くありません。 そんな中、像と光背を足して400kgを越えるこの釈迦三尊像を、迅速に救い出し搬出することが可能だったでしょうか?私には不可能としか思えません。 ではこの釈迦三尊像は一体どこからやってきたのでしょうか? ヒントは銘文の中に隠されています。 この釈迦三尊像を発願したのは王后王子です。王后は膳夫人を指すので、この釈迦三尊像は膳臣の在所である三井に太子の菩提寺として建てられた法輪寺の本尊だったのではないでしょうか? 私はこの釈迦三尊像は再建法隆寺の金堂落慶に合わせて、法輪寺から移設されたものではないかと考えています。 ・薬師如来坐像…金堂の中間には本尊の釈迦三尊像がありますが、東間には薬師如来像があり根本像(元々の本尊)だと言われています。 この薬師如来像にも光背銘がありますが、こちらもこの光背銘が謎を呼ぶのです。 要約すると「用明天皇が病気の時(用明天皇元年(586年))、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされずに崩じた。のち推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に建立した。」となります。この銘文をもってして、法隆寺は607年建立とされているわけです。 しかしこの銘文にはいくつかの疑問が指摘されています。 まず文中の「天皇」、「東宮」という呼称が推古期にはまだ無かったのではないかと指摘されています。私も天皇号は天武朝において制度化されたものだと考えているのでこの指摘には同意します。文体や書体についても飛鳥時代よりは時代が下るものと判定されていますので、この光背銘が後世の追刻であることは明らかです。 この薬師如来像は一目見ると非常に本尊の釈迦如来像に似ています。私にはほぼ見分けがつきません。そう言われれば、ややお顔がふっくらしてるかなあ、という程度です。 そしてこの薬師如来像は像容の特徴や鍍金の技術から判断すると、白鳳期の作品ではないかと推測されています。 先ほど述べたようにこの薬師如来像は本尊の釈迦如来像にそっくりです。印相も同じです。また推古期に薬師信仰の流入が疑問視されていることを考えると、この薬師如来像は実は釈迦如来像なのではないでしょうか? おそらくこの薬師如来像は法隆寺が再建された際、寺の縁起、用明王勅願の寺を示す目的で新しく製作され銘文を追刻し、根本像として安置されたのではないかと思うのです。 ・百済観音像…大宝蔵院百済観音堂に安置されている。実はあらゆる仏像の中で、一番好きかもしれません。 像高およそ2m10cm。著しく痩身で8〜9頭身はありそうな特徴的な像容。しなやかにカーブした体躯。細い左手にはつまむように優しく水瓶を持つ。 この観音像ですが、その由来も縁起も全くわかりません。謎を解くなどと言いながら、この像に関しては全くの謎としか言いようがありません。いつ作られ、いつから法隆寺にあるのか?全てが謎です。 ただ飛鳥時代の作品だと考えられているので、1300年以上もの間、密かに祀られていたということでしょう。 優しくも切なく慈愛に満ちた表情は何を物語っているのか?その瞳でいくつの時代を、どれだけの歴史を見つめてきたのでしょう?そう考えながらお顔を見つめていると、思わず手を合わさずにはいられなくなるのです。 ・玉虫厨子…厨子とは屋内で仏像を安置するための工芸品で、法隆寺の玉虫厨子は推古女帝の愛用品で、厨子の装飾に玉虫の羽根を敷き詰めたことからそう呼ばれています。 注目していただきたいのは厨子の須弥座部(胴体部分)に施された絵画ですね。 四面に仏教説話に基づく絵画が描かれているのですが、右面に描かれた「捨身飼虎図」は特に印象的です。 釈迦の前世である王子が、飢えた虎の親子のために自らの身を投げうつ場面を描いたものですが、崖から飛び降りる王子の切なく悲しげで、それでいて恍惚に満ちたその表情が、この説話の意味を物語っているように感じます。 法隆寺金堂はこの玉虫厨子のデザインを踏襲して設計されたという説がありますが、これは違うと思います。 玉虫厨子も雲肘木ですが、デザインはもちろん、組み物の配置が違います。さらに金堂の屋根は入母屋です。玉虫厨子の屋根も入母屋ですが、切妻の屋根に四面庇を付けた錣葺きと呼ばれるもので、金堂の屋根とは明らかに別のものです。その点から見ても玉虫厨子と金堂は全く関連性のないものだと考えます。 ・救世観音像…天平11年(739年)に斑鳩宮跡に建立された東院伽藍、夢殿の本尊であるこの救世観音像は法隆寺の謎の極みと言えるでしょう。 聖徳太子の等身像として飛鳥時代に製作されたと推測されるこの観音像は、いつの頃からか秘仏とされ、木綿の白布にぐるぐる巻きにされ封印されたのです。 数百年の間封印され法隆寺の僧侶でさえ拝むことが叶わなかったこの仏像は、一度封印を解けば大地震に見舞われ伽藍を失うと伝えられてきました。 この封印を解いたのは、明治政府のお雇い美術史家、アメリカ人のアーネスト・フェノロサという人です。 明治17年(1884年)、政府による宝物調査として、この秘仏の封印は解かれました。 太子等身像と伝えられるこの像の像高は178cm強。アルカイックスマイル?生々しく一見不気味にさえ映るこの微笑みが、太子の真の姿を表しているのでしょうか? 一体いつ誰が何を恐れてこの観音像を封印したのでしょう? 古代の人々にとって、あらゆる災いは祟りとして考えられていました。そしてその祟りは不遇、無念の死を遂げた者の怨霊によると考えられていたのです。そしてその災いから逃れるために、祟る者を神格化し、手厚く祀ることで災いから逃れようとしました。 御霊信仰というものがあるように、古来人々は祟る者をひたすら祀りあげました。菅原道真も早良親王も、みな祟る鬼として祀られているのです。 聖徳太子の祟りを恐れた者、それはまさしく藤原氏ではないでしょうか?法隆寺の再建も、藤原氏による太子鎮魂の意味合いが大きな要因となっています。東院伽藍の建立には聖武天皇の皇后、藤原氏の娘、光明皇后が関わっています。 後に太子の祟りを恐れて、この観音像は厳重に封印されたのでしょうね。聖徳太子は大いなる祟り神としての側面を持ち合わせていたのだと思います。 「その他の寺院」 ・法輪寺…法隆寺の北方に位置する法輪寺は、622年、太子の病気平癒を祈って、息子である山背大兄皇子が建立したという説と、創建法隆寺焼失後に建立されたという二つの説があります。考古学の発掘成果から、その建立時期は7世紀中頃まで遡ることがわかったので、おそらく太子の死後、菩提寺として建立されたのでしょう。 規模は法隆寺の3分の2、伽藍配置は法隆寺様式です。 三重塔は昭和19年に火災で焼失し、昭和50年に再建されたものです。意匠は法隆寺五重塔とほぼ同じで、五重塔の初層、三層、五層を重ねた構造を持っています。 再建にあたったのは宮大工の西岡常一氏。西岡氏は「千年もつ木を使ったら、千年もつ建物を建てなければダメだ」という生粋の職人で、飛鳥時代と同じ道具で、創建当時の三重塔を再現したといいます。 法隆寺五重塔に比べると、華やかで躍動感のある形状の三重塔。法隆寺五重塔も創建当時はこのような華やかさを持ち合わせた仕上がりだったんでしょうね。 実はこの三重塔の心柱は礎石に乗らず空中に浮いています。 そもそも心柱は建物の構造材ではなく、ただ相輪を高く持ち上げるためだけの、仏の依り代としての柱です。この心柱と相輪こそが仏塔であり、建物は塔を守るための「側」に過ぎません。そしてこの法輪寺三重塔の心柱は相輪の下にぶら下がっているだけなので、手で強く押すとゆうらゆうらと揺れるそうです。 いやはや日本の古建築はスゴイです。 ・法起寺…聖徳太子の命により、山背大兄皇子が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられています。法輪寺の東方向ですね。 706年には伽藍が完成したということなので、藤原京の時代ですね。白鳳期です。 伽藍配置は法隆寺様式の逆。門を入って向かって左に金堂、右に三重塔だったといいます。 この三重塔は火災などを免れたため、国内最古の三重塔として国宝に指定されています。 法隆寺五重塔の初層、三層、五層を重ねた構造は法輪寺三重塔と同じ。雲斗雲肘木、卍崩し高欄などは法隆寺、法輪寺と共通ですが、法輪寺三重塔と見比べると受ける印象はかなり違います。 華やかで躍動感のある法輪寺三重塔に比べ、法起寺の三重塔は穏やかでたおやかな印象です。材の太さや時代による意匠の変化、白壁や格子の違いによって受ける印象も変わってくるものなんですね。 特に三層めの屋根の形状が違います。傾斜が違うんですね。 法輪寺三重塔は創建当時のイメージで再建されたので、屋根の傾斜が水平方向に跳ね上がるように作られ、それが躍動感につながっているのだと感じます。それに対し法起寺三重塔は長い年月を経て、屋根が重みで垂れています。その穏やかな傾斜がこの塔の優しい印象を醸し出しているのだと思います。 法隆寺、法輪寺、法起寺は縁起の相違はあるとは言え、同じ地域に同じイデオロギーに基づいて建立された寺院です。しかし少しずつ受ける印象は異なります。それぞれの寺院を見比べながら、ゆっくりと斑鳩の里を散策するのも楽しいものです。 法隆寺を考えることは、歴史を考えることです。これ程までに難しく神聖で、それでいて穏やかで優しい寺は他にはありません。 7世紀以降の歴史は藤原と蘇我対立の歴史です。そして聖徳太子は紛れもなく蘇我なのです。 対立していた藤原氏がなぜ太子を祀る寺の再建に尽力したのか? 蘇我入鹿は太子一族を滅ぼしました。そして中臣鎌足はその入鹿を誅殺しました。蘇我を貶め太子を持ち上げることで、入鹿誅殺の正当性をアピールし、藤原こそが太子の意志を引き継ぐものとして自家の正統性を喧伝した。そのための法隆寺再建だったのではないでしょうか? 実は太子鎮魂は表向きの大義で、本当は蘇我鎮魂の寺なのかもしれません。藤原氏にとって蘇我は恐ろしい祟り神なのですから。 法隆寺で最も重要な太子を祀る法要として聖霊会があります。その中で蘇莫者という雅楽の舞が封じられるのですが、太子は舞人が踊るための笛吹き人なのです。あくまで太子は脇役。舞を踊る主人公、この人物こそが蘇我を象徴するものなのではないかと思うのです。 法隆寺の謎はまだまだたくさんありますし、その謎を解くのは容易なことではありません。しかし謎だらけだからこそ法隆寺は素晴らしいと感じるのです。 法隆寺の歴史は、そこに生き抜いた人々の歴史でもあります。人々の生きた歴史に思いを馳せながら、穏やかな気持ちで手を合わす。 法隆寺はいつの時代も優しく私たちを見守ってくれているのです。