
三毛
ID: 2043416山歩きの記録を残すのにヤマップを始めました。
ホトトギス 葉の模様が特徴的
山歩きの記録を残すのにヤマップを始めました。
一乗城山(福井)
2024.04.20 (土)日帰り
一回の山行で、その山に対して負のイメージを持ってしまうことがある。 一乗城山(いちじょうしろやま)もその一つである。 20代前半に登ったことがあるが、ただ暑かったという記憶だけで、何も覚えていない。もう一回登りたい山では決してなかった。 今回の山行を決めるにあたっても、ヤマップに記録を残すために、仕方なく登ってみようかぐらいの気持ちだった。 活動開始が12時30分と遅い時間である。 土曜日とあって朝倉遺跡にはあちこちに観光客の姿が見かけられる。 朝倉遺跡は、当時の町並を復元した「復原町並」と朝倉館跡に立つ「唐門」はあるのだが、基本的には見るものは建物の礎石ばかりである。 恐ろしいくらいに何も無いと言ったほうが良いだろう。遺跡なので何も無いのが当たり前なのだが…。 一乗城山はその朝倉遺跡の東側にある400mほどの山であり、その山頂部には山城遺構がある(その山城は戦闘では一度も使われてないとのこと)。 以前、どのルートから登ったかも全然記憶にない。 今回は復原町並の南にある駐車場に車をとめて、諏方館跡、英林塚を経由する英林塚コースで登ることにした。 英林塚コースの登り口には電気柵か張ってあるため、外して中に入る。 右手の下に渓流を見ながら谷筋を登っていく。林床の日陰の道で、所々に大きな岩が転がっている。 日の当たるところにはイチリンソウの群落があり、その大きく白い花は目を楽しませてくれる。 登り口から20分ほど進むと、小さな岩のゴロゴロした渡渉点(雨が降ったあとは靴が濡れるかも…)、そこからさらに25分で分岐点に出る。 左手が「馬出コース」から登ってくる道である。頂上へは道なりに真っ直ぐに登って行く。 分岐点から10分弱で「不動清水」に着く。ここが、山城で唯一の水場とのこと。 不動明王の石像が置かれており、その下から水が湧き出している。天気が続いているせいか、水量は多くない。 そこから少し登ったところが「千畳敷跡」。案内板には約1,500㎡の広さとある。因みにこの広さが本当に畳千枚に値するのかと計算してみたら、ほぼ合っていた。ハッタリじゃなかったんだ…。 この千畳敷跡から上が山城跡である。 千畳敷跡から道なりに真っ直ぐに登っていくと、一の丸跡、二の丸跡、三の丸跡と曲輪(くるわ:平たくなったところ)が続く。これら曲輪はいずれも道の左手にあり、曲輪間は堀切が掘られている。 各曲輪の前に地形図付きの案内板を設けてくれている。 ただ、その地図が小さくて字が読みにくい。また、常に北を上にした地図をのせているのだが、私としては、その地図を向こう側に倒したときに、実際の地形と合うような向きにしてほしい。(立体空間把握が苦手なので…) 山城跡の道の脇には至るところにチゴユリが生えており、たくさんの花を咲かせている。 チゴユリは俯いて咲くため写真におさめにくい。「そんなに項垂れていないで、元気を出して上を向いて」と言いたくなる。 山城跡は高い木々が樹冠で薄緑色の新葉を展開させている。その下の広い空間ではハウチワカエデが青々とした大きな葉を広げ、地面は落ち葉が降り積もり一面褐色を呈している。 見渡すと所々でミツバツツジの赤味を帯びたピンク色の花が目に入ってくる。 静寂の中、いろいろな鳥の鳴き声も聞こえてくるが、何の鳥か分からないので残念である。 こんな素敵な雰囲気のところなのに、なぜ何も印象に残っていないのだろうか…。 一つには登った時期が悪かったのだと思う。暑かったという不快な記憶だけが残っているので、たぶん季節は夏だったのだろう。 夏になれば、草木も繁り見通しも悪くなり、山城の地形がよくわからなかったのが一因かもしれない。それより何より暑さと山城自体にそれほど興味がなかったのが原因だろう。 やはり、登る時期は考えるべきだと改めて思った。 下山は宿直跡(一乗城山で一番眺めが良い)を経て、馬出コースへ。 馬出コースは主にスギやヒノキの植林地である。道は落ち葉が降り積もり歩きやすいが、草花は英林塚コースに比べ乏しい感じである。 途中、磨崖仏、堰堤、小見放城跡を通り八幡神社の参道下へと出た。 そこからは、一乗谷川に沿って駐車場へと戻った。 【追記】 時間があったので、明智光秀を祀る明智神社に。 一乗谷から南に峠を越したところに東大味集落がある。ここに当時、朝倉家に仕えていた明智光秀が住んでいたそうである。 光秀の逝去後、地元の方が彼の遺徳を偲んで坐像をこしらえてお祀りしてきたとのこと。光秀の三女たま(後の細川ガラシャ)もこの地で生まれたのではないかと言われている。