YAMAP / ヤマップ
画像

アナザー関ヶ原サイクリングの写真

立派な神社と石割桜のある山頂でした。

この写真を投稿したユーザー

あど
ID: 492082

東北が大好きな仙台人です。 コメント、質問、登山のお誘いなどお気軽にどうぞ!コメントいただけると小躍りして喜びます。 プロフィール ・けものフレンズのED曲に感動して日本を三周し、少女終末旅行に感銘を受け登山にハマった不思議な人。 ・少女終末旅行は登山漫画の最高峰だと思っている。 ・元山岳部ではあるが、学生時代は山にいっさい興味無し。(当時の記憶が部室でけいおんで誰が一番かわいいかを話してたことだけ。むぎちゃんなのは自明の理)。 ・東北雑草軍団(ワイルドプランツ)という(自称プロ)野球チームの選手権監督。メンバー募集中。 ・18きっぱーだが、乗り鉄ではない。 ・冬の只見線で濁り酒のワンカップ呑むのが大好きですから、強いて言うと呑み鉄。 ・なんだかんだで東北地方以外もよく出掛けます。 ・マンホールも好きです。 ・ダムはちょっとだけ噛ってます(好きなダムは湯田ダムと胆沢ダム)。なんだかんだで重力式も好きです。 ・別に料理人ではございません、ただの酒好きです。 ・酒飲みだけどビールを飲むと悪酔いするのでビールは全く飲めません。 ・生粋の仙台人だけど、オリックス比嘉投手の大ファン。比嘉のカード出ないかなぁ。 ・UTAU楽曲、特に耳ロボP、からっP、とくになしの大ファンでちょくちょくネタを挟んでいますが、誰にも気づかれなくて悲しい今日この頃…。 ・『日本百名山』を読むのは好きです、登るのも好きです。でも百名山ハンターではないと思われます。

この写真を含む活動日記

写真37
もらったドーモ1162
06:34
41.1 km
708 m

アナザー関ヶ原サイクリング

山形市(山形)

2022.05.23 (月)日帰り

あど
あど

今回のキーワードは慶長出羽合戦です。 関ヶ原の戦いを知らない方はいないでしょう。豊臣政権から徳川幕府への移行、後の日本の形を大きく変えた天下分け目の戦いですから。 ところで、この関ヶ原の戦いのきっかけに東北が大きく関わっていたこと、そして東北で「もう一つの関ヶ原の戦い」が起きていたことはご存知でしょうか?  まず関ヶ原の戦いが起きたきっかけについて。 天下人・秀吉の没後、豊臣政権を受け継いだのは幼少の豊臣秀頼でした。 でも秀頼はまだ小学生くらいの歳ですから政治をとれるわけがない。ということで、秀頼を補佐するため家康や前田利家、上杉景勝などの大名を五大老に任命しました。 家康は表面上豊臣政権に協力していますが、裏ではしたたかに動きます。 利家が睨みを効かせていた時は自由にできなかったのですが、利家は秀吉の没後すぐ亡くなってしまいます。 そうなると家康にとって気がかりなのは上杉景勝だけ、家康は上杉景勝の行動の重箱の隅をつつくような形で全国の大名を集めて「会津攻め」と呼ばれる挙兵をします。 (上杉氏というと越後の龍・上杉謙信のイメージが強いですが、豊臣政権下で越後から会津120万石に転封されています。) (ややこしいのですが、この場合の会津というのは山を挟んで向かい側にある米沢の領地も含まれているんです。この米沢は伊達が勢力下に置いていたものを秀吉が取り上げて上杉に与えた土地なんです。) 家康は大阪城から何ヵ月もかけてノロノロと会津に進軍します。その間にチャンスとみた石田三成ら西軍の武将たちが挙兵するのですが、実はそれこそが家康の狙い。 急に西へとんぼ返りして関ヶ原で激突し、豊臣勢力を撃破(つまり徳川軍と上杉軍は直接的に戦わなかったってことになりますね)、江戸幕府を開いたのはご存知の通りです。 こう考えてみると関ヶ原の戦い(岐阜)のきっかけは会津(福島)にあったと言えるわけですね。 さて、家康は途中で帰たのですが、伊達政宗(東軍)が上杉(西軍)の領地になっていた白石城に攻め込むなど、南東北の軍事的緊張は依然として高まったままでした。 そんななかで米沢にいる上杉の家老・直江兼続が現状を打破するため、山形の最上氏へ攻め込みます。 攻め込んだ軍勢は数万といいますから上杉の必死さが伺えますね。 最上側は長谷堂城を前線基地にして徹底抗戦にでます。そして伊達氏に援軍を要請しました。 ここに上杉VS最上・伊達連合という、数万規模の勢力同士が激突する「もう一つの関ヶ原」こと「慶長出羽合戦」が勃発したのです。 しかも本家の関ヶ原の戦いが一日で終わったのに対し、慶長出羽合戦は半月も一進一退を繰り返していました。 結局、上杉軍は関ヶ原での西軍の敗戦を知り退却するのですが、またその退却戦も壮絶なものだったようです。 今回はそんなもう一つの関ヶ原の戦いの跡をたどるサイクリングです。