平等石の上から見渡してもやっぱりわからず。千手滝は岩の上を滑るように流れる滝だというのですが…。 戻る 次へ

山田〜下狭川〜笠置山〜千手滝捜索〜大神田双体磨崖仏〜笠置城横堀〜阿蘇城堀切の写真

2022.04.01(金) 13:03

平等石の上から見渡してもやっぱりわからず。千手滝は岩の上を滑るように流れる滝だというのですが…。

この写真を含む活動日記

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33.1 km

1814 m

山田〜下狭川〜笠置山〜千手滝捜索〜大神田双体磨崖仏〜笠置城横堀〜阿蘇城堀切

奈良市(東エリア) (奈良, 京都, 三重)

2022.04.01(金) 日帰り

今回の探検の目的は、山田と下狭川を結ぶ道の途中にある分岐がどこへ行くのか確かめることと、笠置山の東山にある千手滝を探すこと、そして、阿蘇城跡を見てくることでした。結局、千手滝は見つかりませんでしたので、また次回以降の課題です😅。 笠置寺では、受付におられた前のご住職からいろいろなお話を伺うことができました。たいへん興味深いお話でしたので、備忘録としてこちらにも書き残しておこうと思います。私の聞き間違いや記憶違いなどにより、不正確な部分もあると思いますので、その辺りご注意ください。 <千手滝> 千手滝には清水寺の千手観音が姿を現したという伝承がある。それで笠置寺の東の谷を観音谷という。子どもの頃千手滝で滝登りをして遊んだことがある。それくらい当時も水量はなかった。落ち口が50センチぐらいだが、それが岩の上を滑り落ちるように流れて、最後は幅が2、3メートルになった。 昔は木が今ほど茂っていなかったから、虚空蔵菩薩のあたりからよく見えた。冬は滝が白く凍っているのが見えた。今は、木を切りたくても、国からいろいろ規制がかかっていて切ることができない。かつては一帯が笠置寺の寺領だったが今は個人所有になっているから、勝手に道を作るわけにもいかない。 昔は舎利殿のあたりから谷底へ降りる道があった。その道は木津川まで続いていた。しかし国鉄が線路に柵をして塞いでしまった。線路沿いに東海自然歩道もあることだから、歩く人もいると思うのだが、万が一にも事故があると困るということだった。他にも通れなくなったり忘れられた道はたくさんある。 <殿様街道> 柳生から笠置の飛鳥路まで、昔、柳生の殿様が江戸に出るのに通った殿様街道と呼ばれる道がある。かつてはこの辺りの小学生は、殿様街道を通って柳生に行くのが、遠足の定番だった。殿様街道をハイキングコースとして整備した時は山の持ち主も賛成していた。 ところが途中に水場まで作ったところ、そこで火を使う奴が出てきた。ひどい時には年に数回も山火事があった。それで山の持ち主もあまり人を通したくないということになった。今はゴルフ場ができたし、下の方が崩れて通れないと聞いた。(注:ゴルフ場迂回路はあるものの荒れてます。 https://yamap.com/activities/15914579 ) 殿様街道の飛鳥路へ下る坂道は「泣き坂」という。柳生のお姫様が、江戸へ向かう時、いよいよここを下ると故郷を離れるということで泣いたから「泣き坂」。そうして名前がある道でも消えていく。山中にはいろいろな史跡や文化財があるのに、行けなくなっている。 <石あて地蔵> 「全国あちこちに水かけ不動や砂かけ地蔵はある。しかし笠置にだけ石あて地蔵がある。」と、ある大学教授が言っていた。自分も子どもの頃は、大神田にメダカを取りに行く時など、石を当てるものだと思っていたから、石あて地蔵に必ず石を当てていた。 それが道路拡幅でザーッと石をのけてみたら、石の下には台座しかなかった。その後は現地に看板も何もないから、石あて地蔵のことを知っている者もほとんどいなくなった。石あて地蔵の言われ(http://town.kasagi.lg.jp/contents_detail.php?frmId=494)を書いた看板を立ててくれても良さそうに思う。 <上人井戸:貞慶が掘ったと伝わる井戸> 上人井戸は舎利殿から墓地道を少し降ったところにある。確か後醍醐天皇630年忌事業として、当時は水道が山の上まで来ていなかったので、上人井戸を防火水槽にした。井戸から湧いた水をコンクリートのタンクに貯めるもの。今でもポンプ室が残っている。 今は山の上にも水道が来ているので、上人井戸の水は使っていない。元々上人井戸の水は、谷の方にある田んぼに引いていた。(感想:上人井戸は水が自噴するような井戸だったらしい。上人井戸近くの平坦地は田畑にされていた時代もある??) <墓地道> 墓地道は危ないので行けない。通りたいという人には7月の第四日曜に、地域で墓地道の清掃と道づくりをするから、その時に来ると良いと伝えている。その時は綺麗な道になるが、その後は猪が道を掘り返している。猪のために道を作っているようなものだ。 <上人墓> 貞慶上人は般若台に住んでいたわけではない。今の上人墓の近くにあった観音堂に住んでいた。そこから日々谷越しに弥勒像を眺めていた。死後も同じように弥勒像を眺められるよう、あの場所に上人墓がある。それが今では樹木で何も見えない。樹木の高さを低くするのも許可してもらえない。 →前のご住職は、もうじき90歳になるから、自分が覚えていることや伝え聞いたことを書き残さないといけない、昔は口伝だったが書き残すことが大事だとおっしゃって、生きているうちに残すべきものを残さなければと熱い思いを抱いておられるようでした。とは言え声に張りがありまだまだお元気です☺️