投稿日 2023.01.06 更新日 2023.01.12

ISSUE

最先端の歩く旅「ロングトレイル」の世界|プロハイカー・斉藤正史さんに聞く

気の遠くなるような長い道、歩いた先に何があるのか──。国内のハイカーを魅了するようになったロングトレイルについて聞いたのは、海外と地元・山形で活動するプロハイカー、斉藤正史(さいとうまさふみ)さん。国内でも珍しい、アメリカの3大トレイルを踏破した「トリプルクラウナー」に、ピークを目指さない「歩く旅」での自然の楽しみ方を語ってもらった。

目次

「バリバリの会社員」が、アパラチアントレイルに向かうまで

アメリカの3大トレイル:アパラチアン・トレイル(通称AT、3,500km)、パシフィック・クレスト・トレイル(通称PCT、4,260km)、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(通称CDT、5,000km)

トリプルクラウナーからプロハイカーへ

斉藤さんは2005年、アメリカ3大トレイルの一つ、アパラチアン・トレイル(以下AT、3,500km)でロングトレイルのデビューをした。今でこそ日本人が毎年のように歩くようになったが、当時はアメリカ3大トレイルの日本語情報がほとんどなかった時代。

自然の奥に踏み入る感動、トレイルカルチャーへの驚き、日々の足の痛さ。それらが入り混じった達成感はすべて想像を上回り、斉藤さんの身体の一部となった。

日本に戻ってから正社員の職を得ていたものの、ロングトレイルの持つ魔力が、斉藤さんを再び、アメリカに向かわせる。

2012年に踏破したPCTの2,653マイル地点。カナディアンボーダーPCTのノースターミナス

2012年にパシフィック・クレスト・トレイル(PCT、4,260km)、2013年にコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT、5,000km)を続けて踏破。3大トレイルをすべて歩く「トリプルクラウン」を達成した。国内では2人目とされている。

その後も、米国の人気トレイル、ジョン・ミューア・トレイルや、ニュージーランドのテ・アラロアなど、世界の名だたる道を踏破。日本でも珍しい「プロハイカー」として、山形に軸足を置きながら、国内外で活動している。

ロングトレイルとは?

そもそも、ロングトレイルとは何か。斉藤さんによると、アメリカのトレイルに関する法律でロングトレイルの条件は「連続した100マイル(約160km)以上の自然な道」と定義されている。

しかし、距離を歩くだけがロングトレイルの魅力ではない。歩き続けることで見える景色、人との交流、トレイルにしかないカルチャー。どれもが欠かせないロングトレイルの要素だ。

斉藤さんとロングトレイルの出会い

AT最北端のカタダイン山にて

生まれが山形で、山や川など自然に触れる機会は日常的にあったものの、それまでは海外に行くことすら全く考えたことはなかった。

きっかけといえば、たまたまテレビでやっていた英国の公共放送BBCのドキュメンタリー番組。ATを歩くハイカーの特集を偶然見たことが、その後の運命を変える。

「うまく言えないですが、『なんとなく、ここに行くような気がする』と何かを感じてしまったんです」

社会人10年目の「2度とないタイミング」

2012年のPCTは4,260km。すべては2005年のアパラチアン・トレイルの踏破から始まっている

海外のロングトレイル。多くのハイカーにとって憧れであると同時に、「常人を超える健脚しか行けない」「すべてのしがらみを捨てなければ挑戦できない」というイメージがあるのも事実だ。

斉藤さんも、そんなふうに考えていた一人。AT出発前は、大手鉄道の関連会社で、広告宣伝やテナント契約などの多岐にわたる業務を担当。本人曰く、「バリバリのサラリーマン」。深夜の残業も当たり前の日々だったが、AT出発のタイミングは社会人10年目、32歳のとき、導かれるようにやってきた。

地元の山形で働いていたが、会社の合併もあって、仙台への異動内示が出る。異動はないという前提だった。頭の片隅に残っていた、BBCのATを歩くハイカーの映像が再び色彩を取り戻し始めた。

「仕事だけに没頭する人生でいいのか。今行かなければ、2度とタイミングはない」

会社を辞めるには、十分な理由だった。幸いなことに、家族や会社の人も挑戦に背中を押してくれ、退職の10日後にはATスタート地点のアトランタにいた。

4か月で3500kmを踏破

アパラチアン・トレイルでの学生たちとの出会い

ATは3大トレイルのなかでも特に人気があり、2018年には年間約4,000人がスルーハイクに挑戦するが、踏破した人は2割ほどにとどまる。

斉藤さんによると、特に雪が降っている時などはかなり脱落者が出る。テントで震えながら眠って、朝になるとカリカリに凍ったジャケットになんとか手を通して、凍えながら出発する日もあったそう。

しかし、撤退を全く考えていなかったのは、斉藤さんならではの理由があった。

「自分がストイックだからというより、帰るために必要な語学レベルがなかったから(笑)。アトランタは特になまりが強いので、トレイルのハードさより言葉への恐怖が勝るくらいでした」

アパラチアン・トレイルで体とともにボロボロになったシューズ

本人はこう謙遜するが、デビュー戦で3,500km踏破という偉業を成し遂げた背景には、自身を突き動かす強い動機がある。

ATを4月に歩き始め、4か月と8日で踏破。30代で半年間海外に行くのであれば、「何かしら結果を残さなければ」と考えてはいた。

「足のトラブルは結構あって、足首が左右交互に痛んで、歩くだけで必死なこともありました。でも始めたからには途中でやめたくはないし、段々と英語にも慣れて他のハイカーと仲良くなったことも、歩き続けられた理由でした」

アメリカのトレイル文化の魅力

2018年のアリゾナトレイル

山小屋でほかのハイカーと一緒に食事をし、トレイルエンジェル(※2)にも出会い始め、アメリカのトレイル文化の面白さを肌で感じ始めるようになる。

「トレイルマジック(※3)に初めて出会ったときなんて、本当に驚きました。『ハイカーへ』と書かれたクーラーボックスを開けたら、ジュースが入っているんです。うわ!まじか、と。予想外なところにあるとさらに大興奮でした」

※2トレイルエンジェル:ハイカーをサポートするボランティアのこと
※3トレイルマジック:トレイルエンジェルによる飲食等のサポートのこと。多くの場合無償で行われる

ロングトレイルのカルチャーは「出会い」

2012年に踏破したPCTでの出会いの一コマ

いまも強烈に印象に残っている光景がある。ルート脇のキャンプサイトにハイカーがたくさん集まっていた場所だ。みんなでハンバーガーを作ったりお酒を飲んだり。夜はギターを出して大合唱。

「聞いたら、過去のハイカー達の同窓会でトレイルマジックを数日間実施して、ハイカーに声をかけているとのことでした。トレイルを支えるボランティアの人、街の人との交流にも感動しました」

様々なバックグラウンドを持った人と出会いを積み重ねること。ロングトレイルの醍醐味はそこにある。

2013年、CDT4,260kmでの出会い

アメリカのロングトレイルは、できる限り街に降りず、補給もせずストイックに頂上を目指す縦走登山などとは違う。積極的に街に出たり、人と関わったりするカルチャーも楽しむ秘訣だ。

「アメリカのトレイルでは『残していいのは足跡だけだ』と言われます。“ナチュラルヒッピー”とでも言えばいいのかな。ロングトレイルは自然を守るための道で、そこにチャレンジする人を応援するというカルチャーです」

年齢に関係のないスルーハイカー

ハイカーに年齢は関係ない

斉藤さんによると、出会ったハイカーは、年を重ねた人、軍隊を引退した人、大学生、就職前に歩こうとする若いハイカー、年齢も職業も様々。共通するのは、自然志向という点だ。

「最初から最後まで歩くスルーハイカーが多かったですが、別に全部歩く必要はなくて、ロングトレイルは自由で良いんです。一部のルートを歩くセクションハイクでも、『俺たちのゴールはここだ』って言って、シンプルに喜ぶし、ピュアハイカー(※4)たちと一緒に祝いあうんですよね」

※4 ピュアハイカー:全ての道をスキップせず踏破したハイカー

自分との対話で分かった変化

ガスの立ち方などで雨が降ることを予測できるようになるなど、『何かが起きる』感覚が「動物的になって鋭くなった」という斉藤さん。

それ以上に、自然のなかを長距離歩き続けることで、自分という存在が理解できるようになったことに価値を感じられるようになった。

「『生きるためにはこれをやる』というシンプルな思考に変化していった感じです。けがをしたり、食料が枯渇したりしたときも他のハイカーに自然に助けを求められるようになって、楽になっていった感じがありました。もしかしてこれが本来の自分なのかな、とか、そんな風に思うことが多かったですね」

プロハイカーとしての原点

加藤さんが愛したジョン・ミューアトレイル

国内トレイルの第一人者、故・加藤則芳さんの想いを継ぐ

プロハイカーを宣言して歩き始めたのは2012年。きっかけは、国内にロングトレイルの文化を紹介した第一人者であり、のちに信越トレイルの実現に尽力する加藤則芳さんと過ごしたことだ。

実はATを歩いた時に、2回ほど加藤さんに会っていた。当時は日本人同士の珍しさもあり、メールでもやりとりをしていた仲だった。

「『町に着いたけど、MASAの調子はどう?』とか連絡をくれて。いつも英語で送ってくるので理解に苦しみながらですけど(笑)。帰国後も、報告会などで加藤さんの仲間と接点が生まれたんです。年に数回は加藤さんの仲間内での会合に参加するようになっていました」

帰国後も加藤さんとは親しくしていた斉藤さん。しかし、ATの後はトレイルに戻ることは考えていなかった。長距離の旅という人生の寄り道をした後は、再び就職先を見つけて働くのが自分にふさわしい道だとも考えていたからだ。

郵便局員として働いていたころ、加藤さんが病を患ったことを知る。「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」。体を動かす際に必要な筋肉が徐々にやせていく難病だ。病は斉藤さんの想像以上に、速く進行していった。

「加藤さんが元気なうちに、(主な活動のフィールドであったカリフォルニアの)ジョン・ミューア・トレイルで釣りをしたいよね、と仲間内でも話すようになって。それが2011年4月。東日本大震災の直後で、加藤さんも行くべきか迷っていましたが、病気は待ってくれないから」

想いを共有した仲間12人ほどが集まり、ジョン・ミューア・トレイルへ。8マイル(約10km)を3人交代で、加藤さんが行きたいと言っていた湖まで背負って歩いた。

加藤さんが亡くなった後、2015年のジョン・ミューア・トレイル

最後に背負った斉藤さんの背中で、ボソボソと話し始めた加藤さん。断片的にだが、「自分自身のトレイルが終わるのかと」というようなことが聞こえた。

ロングトレイルに人生を捧げ、これからというときの病魔。「加藤さんは病気が分かった当初、『これからトレイルカルチャーが発展する兆しがある中のに、なぜ自分が病気になって歩けなくなるんだ』と無念に思っていました」。

後に聞いた話では、加藤さんはジョン・ミューア・トレイルに来れたことを非常に喜んでおり、その時に撮影した動画を何度も見返していたという。

斉藤さんが背中ごしに感じたのは、悔しさと喜びが交じる、そんな複雑な感情だった。

プロハイカーを決意した瞬間

2016年にジョン・ミューア・トレイルを歩いたときの斉藤さん

プロハイカーを決意した瞬間は、有休休暇の都合で先に帰った飛行機内。先に帰るもう1人との話題は「誰が加藤さんの後を継ぐのか」。

独身だった斉藤さんの口から、自然に言葉がでてきた。「加藤さんが知らない誰かに任せるより、自分がその想いを継ぎたい」。

日本に到着する頃には、仕事をやめてプロとして歩き出すことを決心。「トレイルに戻るつもりはなかったのに、不思議ですよね」。国内でのロングトレイルの礎を築いた加藤さんの存在なしに、斉藤さんの今の活動はない。

ロングトレイルのプロの道へ

当時はATだけでも偉業と言えるが、さらに斉藤さんは、アメリカ3大トレイルを踏破する「トリプルクラウン」の達成を目指し、それを成し遂げた。

「いきなりアウトドア・フィールドの世界に入ってしまったので武器が必要だと感じたんです。トリプルクラウンであれば、日本の中では舟田靖章さんに次ぐ2人目なので箔が付くだろうし(笑)。この世界で食っていくには最低限必要だろうと考え、トリプルクラウンの達成にはこだわりました」

そして、海外トレイルを歩くだけでなく、地元山形でトレイルの整備にも貢献。国内でのトレイル文化の普及という加藤さんの遺志を継いでいる。

「歩く旅」は経験と想いのリレー

現代人にとって、「歩く旅」は、不便さやキツさがつきもの。しかし、その歩くという行為を通して、人は自然や文化の奥深さをリレーし、つなげていこうとする。その世界に飛び込んでみるのはどうだろう。

一般的な会社員だった斉藤さんの軽やかさは、「自分にも挑戦できるかもしれない」という少しの勇気と自信をくれる。入念な準備が必要なことはもちろんだが、想像するほどロングトレイルへのハードルは高いものではないのかもしれない。

YAMAPが運営する登山・アウトドア用品の
セレクトオンラインストア

すべての商品を見る

記事が見つかりませんでした。

すべての商品を見る