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金剛山と「動く人々」の系譜|フカボリ山の文化論 第7回
山の歴史や文化を知ってから登ると、登山中ふと目にする何気ない風景にも深い意味があると気づくことができます。そんな「文化系の山登り」を推奨するアウトドアライター・武藤さんが今回、考察・妄想するのは、大阪府と奈良県の境に位置する金剛山。春は桜、秋は紅葉と、四季を通じて楽しめる人気の山ですが、南北朝の楠木正成(くすのきまさしげ)にまつわる史跡に代表されるように、歴史・文化的な見どころが豊富な土地でもあります。金剛山一帯に息づく歴史的な営みや偉人たちの魂に迫ります。
フカボリ山の文化論|登山が100倍楽しくなる、山の歴史と文化の話 #07/連載一覧はこちら
目次
憧れの名峰、金剛山
関東生まれ、関東在住の私にとって、金剛山(こんごうさん)は長らく憧れの山でした。大阪出身の友人にそう言ったら、そんな大げさな…と驚かれたのですが、まったく大げさではありません。ちなみに金剛山は、大阪府と奈良県の県境に横たわる金剛山地の主峰で、標高1,125m。関西の皆さんにとっては、子どもの頃に遠足やキャンプに行ったりする、身近で親しみ深い山のようですね。
前回紹介した大江山もそうですが、関西の皆さんにはお馴染みの日帰り可能な山でも、関東から行くとなると日帰りは難しいですし、フカボリ気質な私としては、できれば近くに宿をとって1日は山頂、もう1日は山麓を歩きたいのです。
金剛山は、私にとってそんなふうに歩いてみたい山の代表でした。その願いが叶ったのは2年前のこと。金剛山には、山頂近くに香楠荘という山荘がありました(残念ながら現在は閉館)。そちらに一泊し、憧れの山頂と山麓を目いっぱい味わい、私は極上の時間を過ごしました。
日本文化・思想のゆりかごのような場所
私にとって、なぜ金剛山がそこまで憧れの地であったかというと、ちゃんと理由があるんです。それは、金剛山を主峰とする金剛山地は、「日本文化・思想のゆりかごのような場所」だと思っているからなのです。
まず、本連載でもおなじみの「修験道」。日本独自の山の宗教である修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、大和葛城山山麓の出身で、金剛山で修行を始めたとされています。つまり、修験道が始まった場所なわけです。そして同時に日本仏教の始まりに関わる重要な場所でもありました。
日本仏教の始まりの場所としては、仏教公伝の地である大和(奈良県)の飛鳥を連想する人は多いと思います。もちろん、そのポイントも大切なのですが、しかしここで忘れてはいけないのが担い手の存在。日本仏教の基礎を築いた偉人が、金剛山地と深い関係があるのです。その偉人とは、行基(ぎょうき)、そして空海(くうかい)です。
日本ではもともと、山を神霊のすまう聖地とする信仰がありましたが、6世紀ごろになると大陸から伝来した道教や仏教の影響で、山岳の中に入って修行する人たちが現れました。役小角はそんな修行者の代表者と言っていいと思います。この流れが修験道となり後代に続いていきます。
そして、行基。河内国出身(現大阪府)の行基は、役小角とほぼ同じ時代を生きた人です。行基は僧として公な教育を受けながらも、民衆救済のために野に下り迫害されましたが、のちに聖武(しょうむ)天皇に請われて、東大寺の大仏造立に貢献しました。何歳の時かは定かではありませんが、金剛山で修行したと伝わっています。
そして弘法大師(こうぼうだいし)こと、空海。行基の時代よりも下った時代、8~9世紀の人です。空海は大乗仏教の集大成ともいうべき「密教」の正統な継承者であり、世界史レベルで論じるべき偉人です。実は空海には、京都の大学寮に入るも退学し、所在不明だった期間があるんですが、その間に金剛山地に出入りしていたという説があります。実際、唐から帰国後の動きを見ても、若い頃にこのあたりに馴染みがあると考えるのは自然だと私も思います。
日本史上最大の軍事的天才、楠木正成
奇しくも…というのもなんですが、この偉人3名には何かこう、似たような雰囲気があるように思うんですね。
3人とも政府に睨まれて罪人扱いされた経験がありますから、体制側ではありません。インディペンデントなスタンスで、今風な言い方をすればフリーランス。そして、最先端の情報や技術をつかむのに長け、デザイン的思考のできる天才的クリエイターで、カリスマであり、時には清濁併せ飲める現実主義者…。
そして、とにかくあちこち動き回ったという点も共通していますね。彼らの人生を見ると、定住を前提にしていない生き方な気がします。こじつけかもしれませんが、金剛山地にはこういうタイプの人を育む土壌があるんじゃないか、そんな気がするんです。
そんなふうに考えていると、もう一人、似たような雰囲気の人が思い浮かびます。楠木正成(くすのきまさしげ)です。楠木正成は14世紀を生きた武将で、皆さんも『太平記』などでよくご存じかと思います。後醍醐天皇に従い鎌倉幕府を倒し、新しい時代を到来させた立役者の一人であり、以来一貫して“日本史上最大の軍事的天才”と称された人物。その楠木正成の本拠地があったのが、この金剛山西側の地域でした。
金剛山には、現在も楠木正成ゆかりの場所が随所にあります。山頂には、役小角が創建したと伝わる転法輪寺(てんぽうりんじ)があり、その門前に国見城址(くにみじょうし)広場があります。この国見城とは、正成が金剛山に築いた要塞の一つで、弟の楠木正季(まさすえ)の根拠地だった場所のこと。ただ、転法輪寺のご住職のお話では、現在「国見城址」として一般的には知られているこの場所は、元々は転法輪寺の塔頭があったところとのことで、楠木正成も参籠(さんろう)していた場所なんだそうです。
天才・正成はいかにして誕生したか
楠木正成は、武人というイメージが強いですが、一方で仏教的な背景を持つひとでもありました。金剛山山麓には、転法輪寺と同じく役小角が創建し、のちに空海が発展させた名刹・観心寺がありますが、その観心寺の塔頭、中院の院主・龍覚が正成の師だったと言います。8歳から15歳の間、龍覚に学んだそうで、僧侶になるための勉強ではなかったでしょうけども、その間に密教の素養を身に着けたであろうことは想像に難くありません。転法輪寺に参籠していたということも、納得と思います。
観心寺は、空海が修行の根本道場として開いた高野山と、布教の拠点とした京都の東寺(教王護国寺)を結ぶ道中の中間地点にあり、往還の中宿と定められた重要な寺院です。
当時のお寺は、仏教を学ぶ場所であると同時に、大陸の最新情報や知識を得る場所でもありました。現代でいえば大学や研究所のような感じですね。そして、日本各国の情報が集積される場所でもありました。寺社はアジール(世俗的権力が介入できない聖域)で、「動く人」たちが集まる場所でもあります。ここで言う「動く人」とは、山岳修行者、山師、猟(漁)師、運送業者、職人や商業者、芸能者といった人たちのこと。そのような人たちによってもたらされる情報は、特に動乱の世においてたいへん貴重なものでした。
楠木正成が生きた時代は、まさに動乱の世。情報はすなわちパワーだったはずです。正成の兵力については、金剛山で採掘された辰砂(水銀)が源だったとよく言われるのですが、もう一つ、動く人たちがもたらす情報というのも、大きな資源だったのではないかと思います。そして、そのような人たちの協力が得られたのも、正成が単なる武士(御家人)ではなく、動く人たちの一人であり、身内(仲間)だと思われていたからじゃないか、と想像するのです。
浮かび上がる「動く人々」の系譜
役小角は、そんな動く人々にとって、一種の理想像であったと思います。役小角にまつわる伝承は、まさに超人伝説です。鬼神を自在に操り、超能力で空も飛んでしまう。政府に伊豆に流罪にされても、なんのその。夜は自分の時間とばかりに海の上を歩いて富士山に到達し、修行にいそしむ。権力者の思惑など軽々と飛び越えてしまいます。
役小角の超人伝説は作られたものかもしれません。しかしその中の幾分かに、真実が籠められていると思います。役小角のスタンス――反旗を翻して戦いを挑むのではなく、受け流すように戦うスタイル。しかし、理不尽な権力に容易に屈しないというしたたかさを感じます。そこには、人間の自由な心と誇りが垣間見えるのです。楠木正成にも、役小角と同じにおいがします。そして、行基と空海にも。
金剛山には、自由でインディペンデントな「動く人々」の系譜が、脈々と受け継がれてきたのではないかと思います。私はそんな人たちが盛んに行きかう様子を想像をしながら、金剛山を歩きました。
脈々と受け継がれる「金剛山魂」
なかでも強烈な感銘を受けたのは、転法輪寺のご本尊「法起大菩薩(ほうきだいぼさつ)」です。「法起大菩薩」とは、役小角が感得(かんとく)したとされるほとけで、金剛山周辺にのみ祀られてきたほとけです。しかも絵姿はいくつか伝わっていますが、立体の全身像となると転法輪寺にしかありません。
明治の廃仏毀釈の際に、金剛山の修験道はたいへんなことになりました。転法輪寺は廃寺とされ、ご本尊も破壊されてしまったのです。戦後になってから、転法輪寺のご住職が中心となってお寺を復興し、金剛山の修験道を再興されたそうなんです。そのため、現在のご本尊は平成23年(2011年)に開眼供養されたという、新しいお像です。
本堂に入った瞬間、私は息を呑みました。菩薩というと観音さんのように女性的で優しい姿であることが多いのですが、このお像は違います。5つの眼と6本の腕。髪は怒髪(逆立った髪型)で、口元には2本の牙がのぞき、恐ろしい姿で人を導くとされる明王のような姿です。しかしその異形の姿に驚いてしまったということではないんですね。そこに在るその気配と言いますか、存在感の強さに圧倒されてしまったのです。
新しい仏像というのはどうしても若い感じがしてしまうのですが、そんなことを思い出す間もないほど、強烈な存在感です。私は、脳内で勝手に想像していた役小角や行基、空海、正成、そして無数の動く人々の姿がこのほとけの中にあるような気がして、一気に呑まれてしまいました。
このお像を復元し、明治以降途絶えてしまった金剛山の修験道を再興してこられた方々も、まさしく、そんな人々の伝統を受け継ぐ人だということだと思います。政府による弾圧、失われてしまった歴史を再び繫いでいく…その困難さを思い、言葉を失いました。そして同時に、さすが金剛山だと思いました。そう簡単には折れません、負けません。それこそまさに“金剛山魂”。
金剛山の凄い人たちとは比べようもありませんが、私もフリーランスの端くれです。金剛山を歩いて、その一端に触れ、発奮するものがありました。
金剛山には、そんな智慧や思いの集積が今もそこここに残っています。それをどのように受け止めるかは、人それぞれですよね。金剛山の自然そのものを味わうのでも、もちろん素晴らしい。でもこんな人々の物語を想いながら歩いてみるのも、また新しい発見があるんじゃないかと思うのです。
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文化系アウトドアライター
武藤 郁子
フリーライター兼編集者。出版社を経て独立。文化系アウトドアサイト「ありをりある.com」(http://www.ariworiaru.com)を開設、ありをる企画制作所を設立する。現在は『本所おけら長屋』シリーズ(PHP文芸文庫)など、時代小説や歴史小説などの編集者として、またライターとして活動しつつ、歴史や神仏、自然を通して、本質的な美、古い記憶に少しでも触れたいと旅を続けている。著書に、『縄文神社 首都圏篇』(飛鳥新社)、共著で『今を生きるための密教』(天夢人刊)がある。
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