投稿日 2023.03.07 更新日 2023.07.27

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大内征の超個人的「どうする家康」の歩き方 #02|長篠・設楽ヶ原と鳳来寺山

低山トラベラー/山旅文筆家にして熱烈な大河マニアの大内征氏が、家康に訪れる人生の岐路に思いを馳せながら、妄想豊かにゆかりの低山をさまよう放浪妄想型新感覚歴史山旅エッセイ。待望の第2回では、家康躍進のきっかけともなった合戦の舞台、長篠・設楽ヶ原と鳳来寺山を歩きます。虚実が交錯する妄想大河の世界をぜひ、ご堪能ください。

大内征の超個人的「どうする家康」の歩き方 /連載一覧

目次

合戦地を歩いて大河ドラマを予習する

戦国時代を舞台にした歴史小説を読んでいたときに、あることに気がついた。山(峠)を越える描写が多いことや、その地域の自然(国土)とか文化(風土)について描かれていること、そして山中や山麓にある神社や寺院、城郭などが登場することだ。

当たり前といえばその通りだけれど、その“歴史小説の当たり前”を元手に現地を訪ねれば、観光情報では語られていない物語や往時の情景を想像しながら合戦地を歩ける。ついでにその合戦地から近い低山も巡れば、かなりオリジナリティのある山旅計画ができるのだ。百名山をメインに山登りをしていたかつてのぼくにとって、これは目から鱗だった。以来、そんな具合に山を歩く旅を楽しんで十数年になる。

合戦がおこなわれる舞台は、山に囲まれた盆地や峠の向こうに広がる平原であることが多い。起伏のある地形をうまく利用して築城したり、川を挟んで布陣するケースもある。もちろん山城を攻めるような場合は、山地そのものが戦場となる。かつては隣国に攻め入るために、山を登ったり谷を下ったりしなければならなかった。つまり、戦においては山に長けた方が有利だったということになるだろう。

ところが、山に長けていたであろう甲斐の武田軍が大いに敗れたのが、長篠・設楽ヶ原の戦いだった。歴史の授業でだれもが習うその有名な合戦で活躍したのは、三河国主・徳川家康その人。ということで大河ドラマの予習を兼ねて、いざ合戦の地へ。

長篠の戦いの端緒となった長篠城と医王寺山

長篠山医王寺と、その裏手の医王寺山。ここに武田軍が布陣した。山上の櫓からの眺めは抜群

長篠の戦いと聞いて、中学生のころに勉強した歴史の授業を思い出した人も多いのではないだろうか。しかし「長篠の戦い(1575年)」というのは、厳密にいえば合戦の前半にあたる。甲斐から出陣してきた武田勝頼が、織田信長・徳川家康連合軍との決戦の前に攻防戦を繰り広げたのが長篠城だったのだ。

現在の愛知県新城市にある長篠の地は、甲斐・信濃から向かう場合、南アルプスに並行する秋葉街道を諏訪から南下して、水窪(浜松市北部)の先で南西に進路をとることになる。道中しばらくは山が深く、高い山岳が続くものの、ようやく長篠あたりで山々は低くなり、そのまま西へと抜ければ、三河湾奥に位置する豊川に至る。三河を治めていた家康からすれば、ここを武田軍に突破されてはたまらない。

かくして、長篠城を命からがら脱して岡崎城の家康へ援軍要請にきた鳥居強右衛門に呼応し、領国へ侵攻してきた武田軍を迎え撃つために織田・徳川連合軍が着陣したのが、長篠のすぐ西側に位置する設楽ヶ原だったわけだ。ここが合戦の後半にあたるとともに、決戦の地となった。それゆえ「長篠・設楽ヶ原の戦い」とも表記する場合がある。

長篠城を起点に医王寺山に登り、反時計回りで長篠城に戻るコースがおすすめだ(地図クリックで拡大表示)

長篠城は、南側にふたつの川の合流地点となる断崖絶壁を天然の守りとした要害である。そのため、たびたび領国争いの舞台となってきた歴史があり、今川・武田・徳川の間で揺れ動いた要衝地だった。

地図で確認すると、ちょうど城の北に医王寺山がある。武田勝頼がここに陣を敷いた理由は、城の北側が台地となっていて守りが弱いところにあるだろう。長篠城を手に入れれば、険しい堀の役割を果たすふたつの川は、そのまま徳川軍からの攻撃をかわすための堀にもなる。ここは是が非でも武田の支配地にしておきたい。

長篠城址を牛渕橋から北に眺める。断崖絶壁の要害であることがよくわかる

実際に歩いてみると、ところどころに小さな山が点在する狭隘の土地なので、こんなところに大軍が押し寄せるとなれば、たちまち敵兵で溢れてしまう。籠城して戦う側にとっては北に敵の大軍、南は断崖に退路を断たれる形になるため、落城は時間の問題だろう……。と、そんな想像を楽しむことができるのが、合戦地ハイクのよいところ。

おすすめは、長篠城址をスタートして医王寺山に登り、武田の重臣・馬場美濃守信房の墓や中央構造線長篠露頭を見学して、鳥居強右衛門の墓碑と磔死之碑をお参りし、ふたたび長篠城址に戻るコース。ざっと8km、4時間ほどの歴史散策を楽しむことができる。

ちなみに、馬場美濃守信房といえば、ぼくは東京の御岳山を思い浮かべる。その流れを汲む家柄として知られるのが、じつは御岳山にある東馬場こと「馬場家御師住宅」。茅葺き屋根の立派な家屋は東京都の有形文化財に指定されており、いまはそこで宿坊を営まれているそうだ。御岳山を訪れる際は、ぜひここにも立ち寄ってみてほしい。

決戦の地・設楽ヶ原と山県昌景のお墓

織田・徳川軍の馬防柵が再現されている。ここで火をふいた火縄銃が武田軍を壊滅させたと伝わる

新東名高速道の新城インターチェンジをはさんで、東に長篠城址、西に設楽ヶ原がある。ここがいわゆる長篠の戦いの決戦地だ。武田軍としては、長篠城を攻めたときに布陣した医王寺山の方が、明らかに攻められにくい地形。それにもかかわらず、ここに陣を移して織田・徳川連合軍と対峙したことになる。

新城ICのすぐ西にある設楽ヶ原。新城市設楽原歴史資料館の駐車場を起点に1~2時間で巡れる(地図クリックで拡大表示)

設楽ヶ原は、低い丘陵地の間にのびる谷戸のような地形で、南北に連吾川が流れる。川の右岸(西側)には織田・徳川連合軍がつくったといわれる馬防柵が再現されており、川の東西に対峙するそれぞれの大軍の距離感はとても近く感じられる。うっかり谷戸の中に飛び出しては敵の標的になることは、想像に難くない。ここで武田軍が矢なり銃なりを浴びせられたかと思うと、ちょっと、というかとても切なくなってしまった。なぜそうなったの、武田軍……。

木々の奥に眠る山県昌景。向かい側には、徳川家康本陣跡の八剣山陣所がよく見える

それはそうと、ここに来たら訪れたい場所が、ぼくにはあった。それは、甲斐武田家を支えてきた重臣のひとりで、武田四天王にも数えられる山県昌景のお墓参りをすること。歴史物語の中で語られる山県昌景は武勇の誉れ高く、エピソードの多い武将だ。

たとえば、飛騨を攻めた際に疲弊していた昌景が猿に導かれ、山間の秘湯で回復したという伝説がある。その秘湯こそ、平湯温泉。乗鞍岳登山や新穂高へ向かう登山者なら、きっと一度は浸かったことがあるだろう。もちろんぼくも、そのひとり。そういうこともあって、山県昌景の墓前で山遊びの感謝を伝えたかったのだ。

ついでながら、長篠には「長篠城址史跡保存館」が、設楽ヶ原には「新城市設楽原歴史資料館」がある。どちらの展示も非常に面白い。合戦地ハイクの予習復習として、ぜひ見学していこう。

長篠に来たら鳳来寺山を忘れてはならない

愛知県新城市にある鳳来寺山。長篠から目と鼻の先だ

さて、合戦地ハイクを楽しんだら、やはり家康に所縁のある低山も訪れておきたい。長篠・設楽ヶ原の北東に位置する鳳来寺山は愛知県を代表する人気の低山で、標高は695mである。およそ1500万年前の火山活動の名残の山であり、1300年もむかしに開かれた古刹・鳳来寺の存在で知られている。歴史あり、地質あり、絶景ありと、低山ハイクを存分に楽しめる山だ。

日光と久能山とともに三大東照宮とする説もある(諸説あり)

じつは、ここを訪れる大きな理由に、家康生誕のエピソードと深くかかわる東照宮の存在がある。鳳来寺には、家康の父・広忠とともに母・於大が参篭して世継ぎを得ることを願って家康を授かったという逸話があり、そのことが鳳来寺東照宮の創建につながった。亡くなった家康を祀るのが東照宮であるものの、ここには生誕の秘話もあるわけだ。家康の始まりと終わりを司る、唯一の東照宮だといえるのではないか。そんなわけで、登山を楽しみながら、なにやらとてつもなく縁起のよいものに触れられた気分になれる山なのだ。

茶臼山の織田信長本陣跡。山頂にはお稲荷さまが

そうそう、ついでにもうひとつ寄り道スポットを書き加えておきたい。新東名高速道路・下りの長篠設楽原パーキングエリアから、長篠・設楽ヶ原の戦いの際に着陣した織田信長の本陣跡に行くことができることをご存じだろうか。もちろん、車を停めたまま行けるから、これは行かない手はない。

さてさて、大河ドラマではもう少し先に描かれる(はず)の長篠・設楽ヶ原の戦いについて、今回は取り上げてみた。家康だけではなく、敗戦した武田側のエピソードや人物にも触れることで、まったく異なる地域の山とのつながりまで感じることができ、まさに“超個人的”に楽しむことができた歴史ハイクとなった。この調子で、次回も家康ゆかりの山を歩こうと考えている。

文・写真
大内征(おおうち・せい) 低山トラベラー/山旅文筆家

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