投稿日 2022.07.05 更新日 2023.05.23

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相模湾を望む低山で、在りし日の佐殿に思いを馳せる|鎌倉殿の13座 #01

日本各地の低山に歴史物語を訪ね歩く低山トラベラー/山旅文筆家の大内征さんが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を思い起こしながら綴る低山の回想録。ドラマに登場した場所をはじめ、登場人物と所縁のある山、これを機にぜひ訪れたい名所などなど、ご自身のエピソードや山のトリビアとともに選出した13座の山旅を、5回に分けてお届けします。

大内 征(低山トラベラー/山旅文筆家)

鎌倉殿の13座|大河ゆかりの低山めぐり #01連載一覧はこちら

目次

7月になり、毎週楽しみにしているNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が半分を折り返してしまった。放送が開始されるやいなや大泉頼朝の演技にぐいぐい引き込まれ、うっかりすると「佐殿(すけどの)」が主役かと錯覚してしまうほどに、その演技は印象的で。しかしここからの後半は、いよいよ小栗義時を含む13人と鎌倉殿の時代になっていく。どのように描かれていくのか楽しみで仕方がない!という人は、ぼくだけではないだろう。

それはそうと、この「鎌倉殿の13人」が放送されるということで、昨年末より伊豆半島、三浦半島、そしてときに房総半島の低山や海岸線の再訪に勤しんでいる。というのも、相模湾と相模灘を見晴らす広大な風景の中に、佐殿こと源頼朝ゆかりの山や浜があるためだ。地図を俯瞰してみると、かつての相模国の東西――とくに伊勢原の大山から箱根・伊豆のあたりにかけて――にそれらの山は点在している。

ドラマに登場する場所や人物のエピソード、ひいては鎌倉のころの歴史に触れながら歩く山旅として、いま神奈川県はとても面白い。個人的には“予習復習”を兼ねた低山ハイクをするよいきっかけを、このドラマから授かったと思っている。感謝。

そうした山々の話を思い出しながら、第1回は佐殿となにかしらのエピソードが伝わる山をテーマにする。勝手気ままな超個人的視点だけれど、あくまで山歩きをセレクトの前提にした。ドラマとともに、あらためて低山ハイクを楽しむきっかけになれば嬉しい。

第1回に登場する3座はこちら

第1座「幕山」|佐殿のその後を変えた、開運の敗走路

漁港にある定食屋が好き過ぎて、海の近い低山に行くときは大好物のアジフライや新鮮な刺身を求めて寄り道することが多い。真鶴半島の初上陸は、それが当初のお目当てだったと記憶している。この小さな半島は「お林」と呼ばれる魚つき保安林で知られており、そこに良質な魚が育つのだ。

食後の運動にと漁港を散歩していたときに見つけたのが「鵐窟(しとどのいわや)」だった。石橋山の戦いで大庭景親に敗れた頼朝が数名の供と身を隠したという岩窟である。敵方の梶原景時が身を潜める一行を発見したもののこれを見逃して助け、のちに頼朝につきブレーンのひとりとして活躍することになる、そんなエピソードにつながる場所だ。

この海のそばの「しとどのいわや」で難を逃れた頼朝が房総半島に向けて出帆した地こそ、真鶴半島の付け根にある岩海岸。ちなみに、房総半島の上陸地は、千葉県鋸南町の竜ヶ崎である(諸説あり)。

で、その「しとどのいわや」が、実はほかにもあるのだ。しかも山の奥に。

真鶴半島からほど近い湯河原駅から土肥城址(といじょうし)のある城山を経て、梅林とロッククライミングで有名な幕山(まくやま)を結ぶ道すがらに、もうひとつの「しとどの窟」はある。この「しとど」というのは鳥のこと。ガサガサッと捜索する大庭方の武士たちに驚いて岩窟から一斉に飛び立ったことから、その名が付いたという。

さあ、想像してみてほしい。ときは夜だ。石仏群が醸し出す幽玄な雰囲気の岩窟が、色も音もなくただただ漆黒の口を開けている。この奥に頼朝が隠れてはおるまいかと恐る恐る中を覗き込んだ、まさにそのとき! バタバタバタッと鳥が飛び立ったら、まあだれでも腰を抜かすことだろう。そして一刻も早くそこから離れたい心理が働き、この奥に頼朝は隠れていないと思いこむに違いない。腹のすわった者だけが冷静にその場の状況を把握し、事態を打開する運を味方につける。それこそが頼朝一行、そして梶原景時だった。

それにしても、逃亡した山の中と、出帆した海のそば。どちらの「しとどのいわや」が真実かはわからないけれど、それぞれに物語が想像できるところが歴史散策の面白いところだと思う。

しとどの窟と幕山を結ぶ山道は、頼朝の敗走路「鎌倉幕府開運街道」として整備されている。敗れたのに開運街道とはいかなるものか。その答えは、ひっそりと水を湛えた小さな池に伝わる頼朝のエピソードにあった。この池がなかったら、あるいは歴史そのものがまったく違うものになっていたかもしれない。

ここで水面に映る疲れ果てた自分の顔を見て絶望した頼朝は、すんでのところで自害を思いとどまり、身を正して再起を誓う。そこから「自鑑水(じかんすい)」と名が付いた。果たして復活を遂げ、宿願の源氏の世をもたらしたわけだから、ここを開運の池、ここに至る道を開運の道というわけだ。

そんな頼朝のサクセスストーリーを思いながら幕山の山頂へと至ると、そこには広大な相模湾の風景が待っている。コツコツと一歩一歩を積み重ねたあかつきに、一気に展望が開けるこの流れ。かつて頼朝が体験した“絶望から希望へ“という物語を自分の登山と重ね合わせて、ひとり悦に入る歴史好きなハイカー。そういうの、嫌いじゃない。

第2座「伊豆山」|頼朝と政子の縁をかたく結んだ梛(なぎ)のお守り

頼朝と政子が逢瀬を重ねたと伝わる伊豆山権現は、古くから箱根権現とともに信仰されてきた“二所”のひとつである。その神威の源に、参道の出発点にある伊豆浜の「走り湯」で触れることができる。日本三大古泉であり、なかなか珍しい横穴式源泉。なんだかすごそうだなーと穴の奥に入っていくと、モウモウと充満するいで湯の熱気に圧倒されてしまった。

いささかめまいを感じ、あまり長居はしない方がいいかもしれないと、ひととおり湯気を浴びてすぐ表に戻ると、外の空気でシャキっと整う。それほどに蒸し暑い。これ、まるでサウナだな。なるほど、ここでしっかり神のパワーを全身に浴びて、身心を整え、いざ伊豆山神社の本殿まで登拝するんだな。そこに坐すは天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)なる知恵と勝利の神さま。よーし、待ってて神さま、いま行くよ!と、意気込みながら、参道の出発点に立ちはだかるのは837段もの階段。またちょっとめまいがする。

伊豆山は意外と大きな山域であり神域である。明確なピークというものはない。837段を乗り越えた海抜170m地点に伊豆山神社本殿が、その裏手から山奥へと登った380m地点には本宮社が、それ以外にもいくつもの神の社があちこちに点在しているのだ。主だった社をぐるりと登拝してまわるだけでも軽く2時間以上を要するため、水や行動食はもちろん登山靴や雨具などの日ごろの装備を活かしたい。

本殿境内は広く、相模湾の眺めがとてもよい。頼朝と政子が腰掛けた石があり、ここに座って愛を育んだふたりにあやかってか、恋人たちの参拝が目立つ。
ご神木の梛の木は、同じところからふたつの葉が“対”となって出てくることや、それが丈夫で裂けにくいことから、縁を結ぶお守りとして古より尊ばれている。女性は鏡の裏にいれておく風習があったそうで、政子も頼朝を思ってそのようにしたという。さらには梛は“凪”にも通じることから、航海(人生を含む)の平穏無事を祈るお守りでもあったそうだ。

そういえば、初めて参拝に訪れたときに「なるほど!」と思ったのが、赤白二龍のことだった。赤の龍が火を、白の龍が水を司り、それらが一対となって生み出されるのが温泉なのだという。異なる対極の力をもつ龍神がひとつに交わって神の湯を成し、そのパワーが世に“出ずる”ことから、この地を伊豆と呼んだというひとつの説。ふむふむ。

温泉、梛、勝利の神。ほかにもこの周辺に神仏の地はあっただろうに、ここに頼った頼朝と政子のセンス、すごいと思う。

第3座「大山」|頼朝がはじめた縁起担ぎ「納太刀」で大山詣り

ほとんどの人が日帰りで登る大山(おおやま)。伊勢原駅からバスとケーブルを乗り継いで、山の中腹に鎮座する大山阿夫利神社まで公共交通機関で行けることが人気を後押ししている。ここまでなら登山をしない参拝客、観光客でも来ることができるのだ。

ハイカーは、少なくともここから登ることになる。わりと急登が続く山道だけれど、しっかり整備されているため、不注意がなければ転ぶことも道迷いすることもない。初心者のステップアップにちょうどいい山だ。丹沢山地の東に位置していて、周辺の峠や山と結ぶ登山道がたくさんある。ゆえに、自分なりにコースを立案することができるので、歩き足りない経験者からも人気を集めている。

大山の姿は秀麗で、標高は1,252m。ここからは相模国一帯を見晴らす絶景があり、三浦半島や江ノ島はもとより、伊豆半島、そして富士山も欲しいままに眺めていられる。つまり、鎌倉が丸裸なのだ。この眺めを頼朝が見逃すはずはない。たびたび祈願に訪れたというから、鎌倉方面に目を向けては国づくりに思いを馳せていたのではないだろうか。

ところで、相模湾に流れこむ暖かい黒潮が蒸発すると、大山の山上で雲となって雨を降らす。むかしは山頂に大きな磐座があり、ここで雨乞いをすれば雨が降ると評判になった。大山が雨降り(あふり)の山として関東一円にその名を知られた理由である。山頂の石を尊ぶその信仰は石尊信仰という。雨水は天水でもあるのだ。

支持者は、五穀豊穣を願う農家や豊漁を願う漁師ばかりではない。関東各地から大山に詣でる道が整備され、江戸時代になると庶民による大山詣でが一大ブームとなった。その際、木太刀を奉納するのが大山ならではのスタイル。派手好きな江戸っ子はどんどんエスカレートしていき、ついには数名で担がなければ持てない大きな木太刀を競うようにして納めたという。

なにを隠そう、その起源となったのが頼朝その人。武運長久を祈って納めた太刀が、こうした風習となって庶民に受け継がれたわけだ。いまでは小さな木太刀に願いをこめて奉じるイベントが行われたりしているようだから、よく知らずに参加した人もいるかもしれない。

そんなわけで、相模国の低山に伝わる佐殿の物語をつらつらと書いていたら、なんだかお腹が空いてきた。この記事を書くために掘り返した過去の写真の中に、こんなものがあったので、ついでながらシェアしたい。

大山といえば伊勢原、伊勢原といえば「とんかつ麻釉」というほど地元では有名なお店だ。大山詣りの帰り道、登山で消費したカロリーもチャラになりそうな大盛り。いや、大盛りの域を超えた「デカ盛り」である。てこずりながら完食はしたけれど、なめてかかると後悔するのは食も登山も同じだろう。
第2回へ続く

文・写真
大内征(おおうち・せい) 低山トラベラー/山旅文筆家

 

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