投稿日 2020.11.04 更新日 2023.05.23

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大橋未歩の海外登山 ジョン・ミューア・トレイル(JMT)体験記 #04|ロングトレイルのトイレ事情

登山好きとしても知られるフリーアナウンサーの大橋未歩さんが、アメリカのロングトレイル 、John Muir Trail(ジョン・ミューア・トレイル)を歩いたときの”旅の記憶”を綴るフォトエッセイ。連載第4回目は前回の難所を越えてたどり着いた湖、 Alger Lake(アルガーレイク)で遭遇した”穴”の正体と”トイレ事情”について触れていただきました。

大橋未歩のジョン・ミューア・トレイルの山旅エッセイ #04連載一覧はこちら

目次

アルガーレイク

「滑落」の二文字をなんとか振り払いながら到達したKoip peak pass(コイップピークパス)3,670m。富士山に迫ろうかというアメリカの山に登る日がやって来るとは思いもしなかった。私を山肌にへばりつかせていた恐怖から解放され、腰が抜けたようにぺたんと座り込む。傾斜のない地面が頬ずりしたいくらいに愛おしかった。

進行方向を確認するため地図を開く。このまま南東へ峠を下れば、今夜の野営地 Alger Lake(アルガーレイク)に辿り着くはずだ。よしと顔を上げて驚いた。見下ろしたその先に、地図で見たのと全く同じ形をしたピーナッツ型の湖があった。切り立った黒い斜面と、なだらかな斜面を覆う瑞々しい草原が、すり鉢状にぐるりと湖を囲んでいるのが遠くからでもよく見える。まるで天然のコロッセオだ。

「あそこならテントを張ってゆっくり眠れる!」
緊張続きですっかり疲弊していた心に光がさす。でも陽は傾き始めている。ここからは沈みゆく太陽との競争だ。

登りと違って下りの九十九折は傾斜が優しく足取りは軽い。何より、西陽に照らされている湖が道標となり私たちを安心させた。ただ不思議なことに、歩いても歩いてもアルガーレイクは一向に近づいてこなかった。子供のころ、夜道で月を追いかけた時のことを思い出す。つかめそうなくらい近くに見えるのに、いくら歩いても月の大きさは変わらなかった。

下り始めて3時間。目が回るほど折り返した下り道がついに途絶えた頃には18時を回っていた。私は無我夢中で広大な湖目掛けて走り出した。足裏に柔らかな草の感触を味わいたくて、疲れているのに無駄に走った。

テント場に良さそうな平らな場所に目星をつけてバックパックを投げ出す。越えてきた峠が西陽を受けて黄金色のグラデーションをその山肌にたたえている。まるで城壁のような荘厳な佇まいに畏れさえ感じて立ちすくんでいた。

水汲み

「水、汲んできて」
夫の冷静な声でまたもや現実に引き戻された。早くもテントの設営にとりかかっている。毎回夫婦のリアクションの温度差に我ながらびっくりする。

アルガーレイクの全長はなんと1km。ネッシーがいると言われたら私は信じる。底知れない迫力があるのだ。恐る恐る近づくと、思いのほか水深は浅く、水は澄みきって、風が湖面を撫でる度に夕陽が乱反射した。

もう我慢ができなかった。
靴紐を乱暴にほどき、ザレ場で真っ白に汚れたトレッキングシューズを足から引っこ抜いた。靴下を剥ぐといつの間にか入り込んでいた砂がサラサラと落ちた。締め付けから解放された毛細血管に血が行き渡る。

まず親指を水に浸す。冷たい! 指がちぎれるような雪解け水の冷たさに心臓がギュッと縮こまった。意を決して一息に足裏を水底につける。キュッとふくらはぎが締まると同時に、冷たさは快感に変わった。丸2日酷使してパンパンになった足が生き返っていくのを感じる。

湖の中から改めて周囲の景色に目をやる。こちら側の緑の豊かさとは対照的に、対岸はまるで採掘場のように殺伐としているのが不思議だ。斜面には、雪が溶けた後水分が1滴残らず抽出されてしまったかのような乾いた黒色の岩石が露出し、草が1本たりとも生えていない。生命の気配がないのだ。なんというか、こちらが地球であちらが火星みたい。

と、ここで夫から託された任務を思い出した。水汲みだ。水ならいくらでもありますとばかりに足元の水をバケツにたっぷりと汲んだ。

だがここでふと不安がよぎった。ん? 待てよ? この水は夕飯で使う水だ。でも、すでに汚れ切った私の足が浸かっているーー。しまった! 足を浸ける前に水を汲んでおくんだった!…と思ったところでもう遅い。まぁ沸騰させるし大丈夫だろう。夫には「嫁エキス入りですよ~♪」などとは言わずに無言でバケツを手渡した。

沸騰させた湯に、無印良品のトマト酸辣湯スープと友達からお中元でもらった素麺を入れ、ドライトマトを浮かべる。30秒程で茹で上がる極細麺がガスを出来るだけ消費したくないこの旅にぴったりだ。素麺の喉越しとトマトの酸味は、身体が欲していた最上のご馳走。一膳の箸を奪い合うように交互に口に運び、夢中で麺をすすっている間に日はとっぷり暮れていた。

JMTトイレ事情

満たされた後には必ずやってくる儀式がある。取り込んだら出さねばならぬという宿命、生命の営みーー。そう、おトイレタイムである。

当たり前だがこの雄大な自然の中にはトイレがない。登山道で人に会うことは滅多にないが、だからと言って所構わず用を足して良いというわけではなく、厳格なルールが定められている。

まず水場を汚染しないように川や湖から30m以上離れること。大きい方をする場合は12cm以上(動物に掘り起こされない深さ)の穴を掘って後で土をかぶせること。そして使った紙は持って帰ること。

誰が見ているわけでもないし、守らなかったとしても罰せられるわけでもないだろうが、このルールを守らない者に自然を楽しむ資格などないというのがアメリカの自然保護の考え方だ。もちろん私も遵守した。ただし、思わぬ形で。

✳︎✳︎✳︎

まず場所を探す。水場から離れていて、かつ晩御飯の後片付けをしている夫の死角になっている茂み。ここなら大丈夫だろう。次は土を掘らねばならない。私はヘッドライトの薄明かりを頼りにチタン製スコップを取り出し、地面に突き当てた。

ガリ!!!!

サクっとスコップが土に吸い込まれる感触を期待していた私は、手首に跳ね返ってきた衝撃に目を丸くする。地面が硬くてスコップがまるで入らないのだ。手当たり次第スコップを鋭角に突き立ててみたが、地表の土だけがポロポロと剥がれただけ。張り巡らされたブッシュの根が地中の石と絡み合いスコップが入る隙間がない。

暗闇で一人、地面と格闘している間にも、お腹のタイムリミットは容赦なく迫ってくる。嫌な汗がじっとりと背中を蒸らす。視界はヘッドライトの灯りがかろうじて届く約2m四方のみ。なんとか掘れる場所はないかと頭を上下左右に振ってそこら中を照らしてみた。

すると、なんと掘ってもいないのに地面に1つ穴が開いているではないか。目を凝らして見てみると大きさはこぶし大。深さも十分にあるようだ。これぞ神の恵み!! 有難く使わせていただこう!!

正直なことを言うと、外で下着を下ろすことにはとても抵抗があった。でも、祖先のDNAが目醒めたのか、羞恥心はほどなく消えて、この無防備な姿でお尻を蚊に刺されないかだけが心配だった。

“穴”の正体

一安心して目が慣れてくると、妙な光景が飛び込んできた。神の恵みだと思っていた奇跡の穴はどうやら1つじゃないようなのだ。周りを見ると、四方八方に10個はある。

これは・・・なんだ? 道中の記憶を引っ張り出す。

森林帯を歩いていた時、倒木の上を軽快に走る小さなシルエットに何度か遭遇した。そのシルエットが消えた先は・・そうだ地面の穴だ・・その穴からひょこんと顔を出して、真っ黒で円らな瞳が疲れた私たちを癒してくれたあれは・・・・・リスだ!!!

そうだ、この穴はリス穴なんだ!!!!

カリフォルニアには倒木にできた洞穴や地中に掘った穴に暮らすジリス(地栗鼠)という種類のリスが多く生息している。鋭く長い前足の爪で、硬い木や土に穴を掘る。チタン製スコップでも歯が立たなかったことを思えば、動物の持つ力とはなんと偉大なのだろう。

いや、感慨にふけっている場合ではない。リス穴と分かった途端、罪悪感が雪崩のように押し寄せてきた。モフモフした尻尾にこちらの様子をじっとうかがう無垢な瞳。あんなに可愛いリスの巣穴になんてことをしてしまったのだろう!

打ちひしがれつつも、トイレの手順はまだ残っている。用を足した穴には土をかぶせなければならない。

「ごめんなさい!ごめんなさい!!」

念仏を唱えるように懺悔の言葉を呟きながら、ブッシュの根元から掬い取るように集めた土を穴に流し込んだ。もはや成仏を願う土葬のようだ。

しかし、まだ試練は残っていた。

使った紙をトイレ用に持ってきたジップロックにうやうやしく収める。密封袋だから臭いが外に漏れないのが素晴らしい。しかしまたもや不安がよぎる。この袋を夫も使うのだ。夫が自分の紙を入れる時に必ず開ける。その時に私の紙が臭ったら恥ずかしい。何故かここでいらぬ乙女心が芽を出してくる。さっきはリス穴を拝借したくせに。

何か解決策はないものか。あたりをうろうろするとマツの葉を見つけた。針葉の1本1本が日本の松よりも一回り大きい。手にとると、松脂の青臭くてツンとくる香りが鼻を刺した。よし、いける。ジップロックに突っ込んで、どうか芳香剤さながら、マツが臭いを消してくれますようにと願いながら袋を閉じた。

それでいいんだ。

翌朝から毎朝鼻血が出るようになった。シエラネバダの乾燥に高温多湿で育ったこの身体がまだ追いつけないらしい。鼻の粘膜がひび割れているようだ。ティッシュを鼻に詰めつつ美しい朝陽を愛で、一切風呂に入っていない身体を服ごと日光で消毒した。

そんなワイルドな鼻血人間が、人様に出会うことになった。テントを撤収し、延々続く湖畔を歩いていると、恰幅のいい男性が釣りをする後ろ姿が見えたのだ。そのさらに遠くに目をやると他にも数人の男性が談笑しながら釣糸を垂らしている。入山してから3日目、鹿とリス以外で初めて見た哺乳類だった。嬉しくてつい話しかける。

「何釣るのー?」
「トラウト(鱒)だよ!」

張りのある声が返ってきた。私たちが通り過ぎるとまもなく、後方で「Got it!!(やったー!!)」という歓喜に満ちた声がこだました。

大人の男性もあんなに大声で無邪気に喜ぶんだな――そんなことを思った。しかもかがんで魚を掬い上げるときにはズボンがずり落ちてお尻が半分以上見えている。無邪気にも程がある。

釣りをしたい時に山に入り、釣れたら喜ぶ。これも人生・・・。ふと、去年までの自分を思い出していた。

会社員として勤務した15年間、スケジュール帳に余白があることがなぜだか不安だった。脳梗塞で倒れてからも、休んでいるとどこかに後ろめたさがあった。退社した後、私は社会人になって初めて3週間という長期休みをとってここにいる。みんなそれぞれの人生を自分なりに楽しんで生きているんだ。それでいいんだ。

さて、ここまではJMTの迂回路だった。この後いよいよ憧れの、ホンモノのJMTに入る。
急登でも渡渉でも、なんでもかかってこい!

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