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遭難しないために知っておきたい登山と携帯電話の関係
登山装備のひとつとして欠かせない存在となっている携帯電話。YAMAPなどの登山地図GPSアプリによる現在地確認、家族・友人など帰りを「待つ人」とのコミュニケーションや、位置情報共有など、さまざまな活用法があります。今回は急増している「山岳遭難」に注目して、携帯電話の重要性や、今年、本格展開が始まった「山小屋Wi-Fi」の可能性を紹介します。
目次
登山道で「繋がる」ことの大切さ
「不感地帯」がはらむリスク
携帯電話がより繋がりやすくなるために、各キャリアとも通話可能エリアを拡充しているのは周知の通り。とはいえ、山間部を中心に通話圏外エリアがまだまだ多いのも実情です。山小屋スタッフや山岳救助隊などの山のプロは、このエリアを「不感地帯」と呼んでいます。
この「不感地帯」で行動不能になってしまうと、まず110番通報などの救助要請ができません。また、実は登山GPSアプリでの位置情報共有(YAMAPの場合はみまもり機能)も機能せず、通話可能エリアに入って初めて、「不感地帯」も含めたそこまでの位置情報が共有されるのです。
バッテリー節約のため携帯電話を機内モードにしている場合も同様で、登山GPSアプリでの位置情報は共有されていません。
それでは、万が一の山岳遭難事故発生時に通信可能エリアにいるか否かが、その後の生死にどう関わってくるのでしょうか? ふたりの山のプロに伺ってみました。
山岳遭難救助の現場から〜常駐隊隊長 加島博文さん
長野県から委託され山岳エリアでの遭難防止パトロールを行っているのが「山岳遭難防止常駐隊」。北アルプス南部地区でこの活動を行って29年目、隊長になって3年目を迎えるのが加島博文さんです。
雨の日にレインウェアを装備していない登山者や、歩き方がおぼつかない登山者などへの声かけやアドバイスを行い、山岳遭難を防止するのが主な役目です。
もちろん山岳遭難発生時には、迅速に現場へ駆けつけるという重要な役目も担っています。
また隊員は夏山シーズンの常駐期間外にも、傷んで歩きにくい登山道の整備を行うなど、山岳遭難防止にあらゆる面から取り組む「山の防人(さきもり)」なのです。
2024年夏山シーズンの山岳遭難の傾向
昨今は槍・穂高連峰などの本格的な山も、登山者にとっての「憧れの目標」ではなく、観光客にとっての「観光地」的な存在になりつつあるという加島さん。まずは2024年夏山シーズンの山岳遭難の傾向を伺いました。
加島博文さん
ーー2024年夏山シーズンに私たちが常駐した48日間だけでも、34件の山岳遭難が発生しました。そして警察や山小屋関係者などで救助活動が完結した事例を除く、半数の17件に常駐隊が出動しています。
山岳遭難の発生件数と入山者数は、必ずしも比例しません。入山者が少ない日に多発することもあり、多い日では1日に4件もの山岳遭難が発生しました。しかも、悪天候の日に多発したわけでもないのです。
そこで遭難者の年齢に注目してみると、8割以上が70歳代以上を占めていました。自身の体力・実力に合っていない登山計画で、おのれの力量以上のエリアへ入山したことで、体力の限界を迎えてしまったのでしょう。
岩稜などの難所ではない何でもない場所でも行動不能に陥ることはあり、こんなはずじゃなかった…という声が大半。登山計画を立てる際、「信州 山のグレーディング」などを調べて、どのレベルの山が自分に合っているかを把握してもらいたいですね。
また、死亡・重傷などの重篤な負傷程度になることが多い転落・滑落などの山岳遭難も、加齢による筋力不足・平衡感覚の低下や疲労による注意力低下が、根幹の原因になっていると思われます。
携帯電話によって迅速化した救助活動
山岳遭難防止常駐隊として30年近く活動する加島さん。携帯電話の普及によって、まずは救助要請の件数が圧倒的に増加したとのこと。もちろん、疲労困憊などの安易な救助要請など問題もありますが、やはり大きなメリットが生まれたそうです。
加島博文さん
ーー携帯電話が普及する以前は、遭難者の仲間や通りかかった人が発生現場から山小屋に駆け込んで救助要請する「伝令」が大半でした。この場合、救助要請自体が遭難事故発生から2時間後、常駐隊が準備を整えて現場に到着するのが3〜4時間後というようにタイムロスが生じてしまいました。
現在は通話可能エリアでは遭難現場から110番通報し、早ければ15分後には常駐隊に情報共有され、1時間以内に現場へ到着することも可能になりました。
天候が変わりやすいのも山の特徴、悪天時の人力での搬送は遭難者にも常駐隊にも大きな負担がかかります。できれば天候が悪化しないうちに、遭難者への負担の少ないヘリレスキューで救助してあげたいのが本音です。
ですので、携帯電話の普及によって救助の迅速化や救命率の向上が実現されたのは素晴らしいことです。
携帯電話から取得可能な位置情報の大切さ
ーー携帯電話は救助要請だけでなく、位置情報(緯度・経度による座標)が容易に把握できる点も、最近の事例では大きく役立っています。
道に迷い「自分が今どこにいるのか分からない」という場合でも110番通報すれば、警察は位置情報を把握することができます。これによって、常識では考えられない場所にいる遭難者の位置を知ることもできるようになりました。
最近の事例では、夏山シーズンにも関わらず積雪期の槍ヶ岳へのバリエーションルート(登山道として整備されていない熟達者向けルート)である横尾尾根のヤブの中に迷い込んでいた登山者を、奇跡的に発見して救助することができたことが挙げられます。
ーー遭難者に意識がなく自力で救助要請できない場合にも、位置情報は重要です。今夏の前穂高岳北尾根では、滑落した遭難者の位置情報が、登山地図GPSアプリから家族経由で常駐隊へ提供され、発見につながりました。
こうした事例もあるので、「待つ人」には登山計画書だけでなく、ぜひ位置情報も共有して欲しいですね。
今後の理想としては、やはり「不感地帯」がゼロになることですね。基地局経由でなく、『※Starlink(スターリンク)』(※後述)のような衛星経由での通話実現には大いに期待しています。
最後に、加島隊長から登山者の皆さんへのお願いです。
<加島隊長から登山者のみなさんへ4つのお願い>
①110番通報したら他へは連絡しないーー家族などへも連絡したいでしょうが、絶対に控えてください。警察や救助隊からの折り返し通話に応答できないだけでなく、バッテリーの消耗によって唯一の通信手段である携帯電話が使用できなくなってしまうリスクが発生します。
②電波が通じなくても簡単にあきらめないーーこまめに自分の携帯電話が繋がる位置を把握するようにしてください。遭難時には、わずか5m動くだけでも繋がる場合もあります。すぐにあきらめずに自力での救助要請の可能性を探って、繋がる位置を保ってください。
③最低限の処置は現場で行うーー止血などの応急処置や保温、水分・栄養補給の実施など、遭難者の容態が悪化しない最低限の処置は現場で施してください。これによっても救命率は大きく左右されます。
④一晩は生き延びられる装備の携行をーー私たちはもちろん、なるべくすぐに救助に行きたい気持ちです。しかし悪天候や他の救助案件に出動していて、救助まで時間がかかる場合もあり得ます。ツェルト・エマージェンシーシート・非常食・予備の水など、最低でも一晩は山中で生き延びることができる装備を携行してください。
安全登山を推進する立場から〜遭対協隊長 山田直さん
槍ヶ岳の槍沢ルート・穂高連峰の涸沢ルートの分岐点に位置する山小屋・横尾山荘の代表取締役であり、北アルプス山小屋友交会の会長として各山小屋の取りまとめ役も担うのが山田直さんです。
2017年には北アルプス南部地区山岳遭難防止対策協会の救助隊長にも就任。山岳遭難防止を第一の目的に安全登山の啓発を行い、万が一の際には救助体制を整える活動を行っています。
そんな山田さんに、山岳遭難と携帯電話についてお話を伺いました。
人気の山域・北アルプス南部における山岳遭難の動向
山田直さん
ーー槍ヶ岳・穂高連峰は日本を代表する本格的な一級山岳です。このような山も入山者にとって特別な場所ではなく、気軽に登山する対象になりつつあると感じています。
登山者のレベルと目標とする山の難易度のミスマッチが、山岳遭難件数の高止まり状態の原因です。それを物語るのが、約4割を占める「無事救助」という数字。
結果としては良いことなのですが、ケガでも病気でもなく疲労によって行動不能になったり、道迷いを起こした結果です。まさに入山者のレベルが槍ヶ岳・穂高連峰にマッチしていないあらわれではないでしょうか。
携帯電話による救助要請が抱える課題とは
ーーこれは大きな問題で、街でも救急車の適正利用が啓発されていますが山でも同様です。救助にあたるヘリコプターも、出動が続くと点検が必要になります。救助件数が増加すると、本当に必要な救助が不可能になってしまうのです。
もちろん、救助要請した当事者は緊急性を感じているでしょうが…。しっかり準備を整えて無理のない行動をすれば、そのような事態に陥らなかったかも知れない。あるいはグループで助け合って救援活動を行えば、自力で下山できたかも知れない。
そうした「以前からの山の常識」が薄れていることが、救助要請の件数増加の背景にあるのではないでしょうか。
未だ解消されない不感地帯の問題
ーーとはいえ携帯電話が生活必需品となった現在、安易な要請などの功罪を議論する段階ではないと考えています。先に述べたような予防策を講じた上でも必要であれば、救助要請は適正な行動でしょう。
むしろ現在の課題は、利用者の多い涸沢・槍沢・奥上高地の谷間が未だに「不感地帯」であることだと考えています。このエリアは多くの行政機関が管理に関わっていることもあり、これまで国立公園計画の見直しが容易にできませんでした。このため基地局の整備やアンテナなどの構造物を建てることができず、「不感地帯」が解消されていません。
救助活動には主に無線を使用していますが、携帯電話も併用しています。山岳遭難防止のためにも、より確実な救助活動のためにも、「不感地帯」は無くしていきたいですね。
不感地帯ゼロをめざして…KDDIの取り組み
新しい衛星通信サービス『Starlink(スターリンク)』
加島さん、山田さんなど山の安全を担う人が異口同音に問題視しているのが「不感地帯」です。この問題を大がかりな工事を伴う基地局の建設やケーブルの敷設なしに解消する可能性を秘めているのが、アメリカのスペースX社の通信衛星サービス『Starlink(スターリンク)』。
7,000機を超える低軌道周回衛星を打ち上げ、 従来の衛星通信サービスに比べて高速かつ低遅延のデータ通信を可能にしたこのサービス。アジアで初めてスペースX社と提携したのが、KDDI株式会社です。
同社は『Starlink(スターリンク)』を利用した山岳地帯での通信環境改善に特化したサービスである「山小屋Wi-Fi」を2023年から開始しています。
「山小屋Wi-Fi」はどんなサービス?
「山小屋Wi-Fi」は高度約500km上空の宇宙空間を周回している『Starlink(スターリンク)』の通信衛星と、山小屋に設置されたアンテナを繋ぐことで利用可能な、公衆Wi-Fiサービスです。
設置されている山小屋は2023年の11箇所から、2024年には全国100箇所にまで急拡大。今回は「山小屋Wi-Fi」を担当する西原隆浩さんに、サービス開始の理由や今後の展望を伺いました。
「山小屋Wi-Fi」を推進するKDDI株式会社西原 隆浩 さん
西原隆浩さん
ーー私たちが「山小屋Wi-Fi」を推進したのは、登山者にとって重要なインフラが山小屋であると考えていることが理由です。山小屋の事業が持続的に成長していくことが、登山文化を発展させると考え、まずは山小屋を対象としたサービスを開始しました。
auというブランドで携帯電話事業を展開しておりますが、Wi-Fiであれば海外からの登山者を含めキャリアに関係なく、全登山者のメリットになることも考慮したサービスです。
Wi-Fi通信から通話へ…今後の展望
ーー現段階のWi-Fiというサービスでは、データ通信は可能でも110番通報といった通話はできません。これまでも悪天候などでは繋がりにくい衛星電話しか備えがなく、救えなかった生命があるという生の声を「山小屋Wi-Fi」を推進する中で聴いてきました。
スペースX社も次の展開として、スマートフォンとStarlink衛星が直接つながる最新鋭の衛星の打ち上げを増やしています。
まずは、2024年中にショートメッセージ送受信からサービスの提供を開始予定で、その後、音声通話・データ通信も順次対応予定となっています。将来的には山のプロの皆さんが切望する「不感地帯」をゼロにし、安心・安全な登山の実現を目指して行きたいですね。
登山前に「繋がる」登山道をチェック!
今回紹介したように、計画した登山ルートで携帯電話が繋がるか否かは、現代では安全登山に欠かせない情報です。auでは「携帯電話がご利用いただける登山道」を、全国の山域毎に地図上で公開しています。
他のキャリアでも、同様の情報が公開されています。登山前には計画ルートのどの区間が「通話可能」で、どの区間が「不感地帯」なのかを事前にチェックしておくことが重要といえるでしょう。
山で遭難しないために、あるいは万が一の際に助かるために、本記事で紹介した事例や知識を、ぜひ活用してください。
山岳域以外でも繋がりやすいエリアを広げるために、auでは様々な取り組みを行っています。
執筆:鷲尾 太輔(登山ガイド・山岳ライター)
撮影:宇佐美 博之
協力:加島博文さん、山田直さん、KDDI株式会社
山岳ライター・登山ガイド
鷲尾 太輔
登山の総合プロダクション・Allein Adler代表。山岳ライターとして、様々なメディアでルートガイドやギアレビューから山登り初心者向けのノウハウ記事まで様々なトピックを発信中。登山ガイドとしては、読図・応急手当・ロープワークなどの「安全登山」から、写真撮影・山岳信仰・アウトドアクッキングなど「登山+αの楽しみ」まで、幅広いテーマの講習会を開催しています。とはいえ登山以外では根っからのインドア派…普段は音楽・アニメ・映画鑑賞や、読書・料理・ギター演奏などに没頭しています。
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