投稿日 2022.09.22 更新日 2022.09.26

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独立研究者、森田真生さんインタビュー|転換期を切り拓く「遊び」の発想

「独立研究者」として京都に居を構えながら、世界を股にかけ数学にまつわる講演活動をしてきた森田真生(もりたまさお)さん。最年少で小林秀雄賞を受賞した『数学する身体』(新潮社)をはじめ、『計算する生命』(新潮社)や『偶然の散歩』(ミシマ社)などの著作を世に送り出しています。2021年にはパンデミック下での生活や加速する気候変動への思索を綴った『僕たちはどう生きるか』(集英社)を上梓。変わりゆく世界での生き方について「エコロジカルな転回」を提案し、話題を集めました。

数学の追求から、いま目の前にある自然へ—。その発想の転換には何があったのでしょうか。今回YAMAP MAGAZINEでは、森田真生さんにインタビューを実施。わたしたちを取り巻く地球環境や足元にある自然との関わり方について、ヒントをお伺いしました。

目次

まったく違うものの見方を生み出していく「数学」

―森田さんは数学を軸とした活動を幅広く展開されていますが、元々は文系だったそうですね。なぜ、数学の道に進まれたのですか?

大学は文系の学部に進学したものの、20歳のときに行ったシリコンバレーでご縁ができた起業家のみなさんに刺激を受け、数学に興味を持ちました。特に大きかったのが数学者・岡潔のエッセイ集『日本のこころ』を読んだことです。岡潔は明治生まれの数学者ですが、道元(鎌倉時代の禅僧。日本における曹洞宗の開祖)や芭蕉の思想にも造詣が深く、数学を通して人間について総合的に考えた人だった。「この人の見ている先にこそ、自分の見たい風景がある」と思い、数学科に転入しました。

数学は、知の柔軟性や可動域を大きく広げてくれる学問だと思います。

例えば、セミが生きている間に本来の習性と異なる生き方を思いついたり、クラゲが突然新しいライフスタイルを試みることがないように、多くの生命体は地球上で生きていくなかで、生き方や行動のパターンが惰性化している。僕は地球上にいる生き物として、そうした惰性を突破することに関心がある。そのためには、新しい概念やまったく違うものの見方や考え方が必要で、それを一番ラディカルにやっている学問は数学だと思うのです。

これまで執筆してきた『数学する身体』『計算する生命』では、人間の身体や生命に根ざした行為として数学の歴史を描写することを試みてきましたが、あらためて数学は「生き物としての習慣を逸脱する行為」だと感じています。数学の力を借りてこそ、もっと遠くへ行ける、そういう感覚があります。

―文字通り「遠くへ行く」ために、国内外で講演会をしてきたのですか?

人前に立ち、ライブで自分の思考を披露することは、僕にとっては「遠くへ行く」というよりも、思考を深めるための大切な時間です。ただ、子どもが生まれたことや、最近では新型コロナウイルス感染症の流行など、さまざまなことが重なり、国内外を忙しなく移動するこれまでの生き方を見直しはじめました……というよりも、大きく変えざるを得なくなりました。

誕生の翌日に手術をした息子に教えたかった「たったひとつのこと」

―長男である「J君」がうまれたのは6年ほど前でしょうか。

Jは2016年に生まれました。妻がJを妊娠しているときは、息子が誕生しても自分の生活スタイルが大きく変わるとは思っていなくて、Jが生まれた翌日も、僕は出張先でいつも通り講演をしていました。

楽屋に戻ると、病院から何件も電話が来ていた。長男は手術が必要で、一刻を争う状態だというのです。その日は雨だったのですが、すぐに新幹線に飛び乗り、雨のなかを駆けて病院に向かいました。

それからJはNICUに入院することになり、妻と一緒に毎日朝から病院に通い続ける生活が始まりました。次第に、息子に「この世界は、病院の天井だけでなく、空というものがある」と教えてやりたいと願うようになりました。

幸い1か月ほどでJは退院することになり、初めて外に連れて行き「ほら、空だよ」と一緒に空を見上げたときのことは忘れられません。息子はそのまま眠ってしまったのですが、ただ一緒に空を眺められるということが、いかに嬉しくてありがたいことかと身に沁みました。

それまでは、遠い場所に行かないと、本当に素晴らしいものには出会えないとどこかで思っていたんですけれど、真に驚くべきものはすごく近くにある。当たり前のものや、誰の前にもあることのなかにこそ素晴らしい発見や出会いがある。このことにようやく気づきはじめました。

“脱線”で気が付く「いかに自分が何も見ていなかったのか」ということ

―『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社、2021)では、J君と、次男R君たちとのコロナ禍での生活が綴られていたので、これまでの森田さんのイメージを一新するような印象を受けました。この変化は子どもたちとの時間の結果もたらされたものなのでしょうか?

はい。まず、コロナの流行で 2020 年の3月あたりから、これまで生きがいとしてきたトークライブの予定が次々とキャンセルになっていきました。当初は「夏頃には収束するかも」という見解もありましたが、農業史研究者の藤原辰史さんによる『パンデミックを生きる指針』という論考を読み、今回もスペイン風邪のときと同様、収束まで何年もかかると覚悟した方がよさそうだとわかりました。さすがに一瞬目の前が真っ暗になりましたが、こうなったらもう腹をくくるしかないな、と。

先行きの見えない状況に抵抗するより、身を委ねて、子どもたちと「遊ぶ」ことに決めました。その一環として庭の開墾を始めたんです。

―森田家と同じように、ステイホーム期間中に家庭菜園を始めた人も多そうです。

最初はそれこそ、家庭菜園としてベビーリーフやトマトを育てるところから出発したのですが、気づいたらどんどん脱線していました。

―脱線?

例えば、何もない場所を掘り起こしていると、巨大なミミズが出てきて、息子が大興奮しているんです。ミミズについていろいろ聞いてくるので、僕は夜な夜な勉強をはじめました。チャールズ・ダーウィンの『ミミズと土』を読み、図鑑を広げ……「ミミズが土を少しずつ作ってくれてるんだって」「ミミズは水のなかでも数か月生きられるらしい……」とか言いながら、ミミズを集めて実験や観察が始まりました。だんだん畑での当初の目的はすっかり忘れて、野菜を育てるより、虫や草花の観察に夢中になっていました。

その日々で気づかされたのは「僕はずっと見逃してきた」という事実です。10年近くこの場所に住み、毎日ここにいるのに、ハコネウツギの花が紅白の小さな花を咲かせていることにも気づかなかった。カラスノエンドウの蜜をアリが吸っている様子も見たことがなければ、庭にいる植物たちの名前も知らず、ここでどんなことが起きているのか、まったく見ていませんでした。

たとえば野草の図鑑に釘づけになっていると、実は妻が10年以上前に同じ図鑑を買って、付箋まで貼っていたことが判明したりもして(笑)。いかに自分が何も見ていなかったのかを痛感しましたね。

いつの間にか目的が「野菜を作って食べよう」ではなく、「たくさんの生き物が暮らせる環境を作る」ことになりました。多様な虫や植物があることで、ハチやチョウやカエルが庭に来て、鳥が舞い降りてくるようになる。

樹木の本を読み、苔について学び、カブトムシやクワガタを育て……。今まで読む本といえば、数学と哲学の本ばかりだったのに、気がつけば本棚に生物や自然、生態系についての書籍が溢れるようになってきました。

カブトムシの幼虫も育てている

―その中で特に影響を受けた書籍はありますか?

大きかったのが、リチャード・パワーズの2018年の小説『The Overstory』(邦題は『オーバーストーリー』(新潮社))です。これは地球温暖化に伴う森林の危機を背景として、危機に翻弄されながらたがいに交わる8組の人生を描いたユニークな物語なのですが、そのなかにいくつもの心に残る言葉がありました。たとえば、「ものはただじっとしているだけで、どこへでも行くことができる」「人間の知恵の価値など風にそよぐブナの木にも及ばないと知ることにこそ、本当の喜びはある」など、心のなかで何度も復唱しました。

―なぜでしょう?

今回のパンデミックは世界中で僕たちの生活を大きく変えましたが、地球規模の気候変動や生物多様性の喪失など、「危機」はあらゆるスケールで顕在化しはじめています。様々な場面でこれまでの日常の機能不全が明らかになっていくなかで、立ち止まることが単なる「停止」ではなく、自分ではないものの声に耳を傾け、他者と調子を合わせていく契機にもなるのだということを、この小説はとても大きなスケールで描き出しています。このタイミングでこの小説に出会えたことは、僕にとって大きな出来事でした。

1万2000年ぶりに変わる地球環境の中で

―これまでの森田さんが、真理を悟るために遠くへ行くことを求めていたことを踏まえると、発想が180度変わったように聞こえます。

国内外を飛び回りながら、数学について考え、語ることに夢中だったこれまでの生活と、庭の草木に耳を傾け、土に触れる行為はまったく別物のように聞こえますよね。

でも、不思議なことに今まで自分がやりたかったこととかけ離れていない。むしろ今までやりたかったことの「先」に進めているような感じもしています。

―どうしてですか?

僕は数学という学問も、未知の対象に「じっと耳を傾ける行為」だと思っているので、この点ではいままでの仕事といまの生活は地続きです。これまではその対象が目に見えないものばかりだったのですが、いまは庭にいる、見える、聞こえるものと遊ぶ面白さに目覚め始めています。

―子どもたちとの出会いとコロナ禍での生活の変化、そして生まれた子どもたちとの時間が、ご自身を変えられたと。

はい。子どもが僕を導いてくれています。

あと……これまで12年間、『数学する身体』と『計算する生命』という2冊の本の執筆に没頭してきました。いま感じていることのひとつは、数学的な思考もまた、ヨーロッパの、さらに言うならば、白人男性中心の文化のなかで作られてきたものだということです。数学はもちろん非常に普遍性の高い学問ですが、同時に、特殊な歴史と文化に根ざした学問でもある。

―ある種の「限界」がある?

少し話が逸れますが、古気候学の近年の研究によると、過去10万年のあいだ、地球の気温は激しく上下していたそうです。ところが、直近およそ1万2000年は例外的に、温暖で安定した気候が続いてきた。地質時代の区分でこの時期は「完新世」と呼ばれています。

人類が農耕を始めたのも、都市を建設したのも、そして、数学という文化が芽生えてきたのも、すべてこの「完新世」に入ってからです。完新世の安定した気候が、人類の文明の成立と発展を支えてきたのです。数学もその例外ではありません。

ところが地球の気候はいま、この一時的な安定から大きく外れようとしています。数学は身体に根ざした行為ですが、その身体は環境に支えられています。地球環境の急激な変化は、僕たちの思考の前提をかなり根本的に揺さぶるでしょう。僕は今まで、数学が人間の思考の基盤を揺さぶる過程に魅了されてきましたが、これからは地球環境の変化そのものが、人間の思想や発明より遥かに強大な力で、僕たちの常識をかき乱していくかもしれません。

―今ある考え方のすべてが、地球環境の変化で崩れる可能性があると。

もちろんすべてではないと思いますが、これまで変わるはずのなかったレベルから常識が変化していくでしょう。だからこそ、この状況を単に一時的な「危機」と見るのとは別の視点が必要だと思っているのです。

地球環境問題については、僕も学べば学ぶほど、正義感が強くなって、環境を壊す人間の活動のすべてが許せなくなる、というようなことを高校生の頃から何度かくり返してきました。そうなると、次第に自分の行動も責めるようになり、そんな自分も偽善的だと思い悩みはじめる。環境が崩れていくことに正面から向き合っていこうとすると、自分の心も崩れていくんですね。環境と心は地続きなので、これは当然のことなのですが。

リチャード・パワーズの新作小説『Bewilderment』は、まさにこの問題、つまり、環境の危機が招く人間の内面の崩壊がひとつの大きな主題になっています。まもなく日本語訳が刊行されるようですが、原書の版元のウェブサイトに掲載されていた紹介文に、「明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか」という問いがかかげられていました。これを読んだとき、これはまさに自分自身の問いだ、と感じました。

「自己破壊に夢中」な世界を前に、どう生きたらいいのかわからない。こういう時代に、心を壊さずに生きるにはどうすればいいのだろうか。

「矛盾」を孕んでしまった自分の書籍

―それが『僕たちはどう生きるか』の主題として表れたんですね。

そうですね。もうひとりここ数年で大きく影響を受けたのが、環境哲学者のティモシー・モートンです。

彼の『Hyperobjects』などの著書を読んでいると、気候変動を単なる「危機」ととらえるのとは別の視点が開かれてきます。地球温暖化という不気味な現実を直視しながら、どうすれば、それでもなお、喜びを感じて生きていけるか。ただ「生きのびる(survive)」だけでなく、どうすれば人はもっと「いきいき(alive)」と生きることができるか。現実に打ちのめされるだけでなく、不気味な現実と付き合いながら、これまでの固着した思考のパターンを解きほぐしていこうとする前向きさが、モートンの思考には通底しています。

―数学に求めていた「まったく違うものの見方や考え方を追求したい」という気持ちがここに繋がるんですね。

そうですね。一方で、モートンの思考に触れたり、子どもたちと遊んだりしているなかで、それまでの自分の思考の重ね方や本の書き方に、限界を感じ始めてもいました。

―自分にも限界を?

ひとことで言えば、これまで自分はあまりにもまっすぐ、リニア(一直線状)に歴史を描こうとしすぎていたかもしれない、ということです。

—なぜそう思われたんですか?

例えば、この庭ひとつとってもまっすぐに進んでいることなんてほとんどないんですよ。ひとつの庭のなかでも、相互に関係ないものがいろいろあって、だからこそ、そこに意図しないつながりが生まれてくる。本当は数学の歴史だって同じはずで、たとえばデカルトだけが偉大だったわけではなく、歴史に名が刻まれていないたくさんの人間や人間以外のものたちがいて、その賑やかな相互作用の生態系のなかに新たな発想や概念が生まれ出てくる。

この「生態系の賑わい」をどうしたら描き出せるだろうか。『計算する生命』の執筆途中にこの問いに直面して、かなり苦しみました。結果、この本では終盤に文体が変化していると思います。イモムシの状態で書き始めた本の途中で、サナギになっちゃったんですね。サナギから成虫になってしまうと、もう以前の自分とは違います。本というのは、著者がある程度一貫していることを前提としていますから、これには非常に戸惑いました。

—とはいえ『計算する生命』は優れた文芸作品に与えられる河合隼雄賞を受賞しました。評価もされています。

もし僕が一貫した著者として最後までこの本を書き上げることができたら、この本はもっと矛盾や葛藤の少ないものになっていたかもしれません。だけど、そうすることはできませんでした。このことに、僕はしばらく戸惑っていました。

しかし授賞の知らせを受け、僕は驚きとともにハッとしたんです。矛盾や葛藤を性急に解決してしまうのではなく、矛盾を矛盾のまま許すことで開ける世界を描き続けてこられたのが河合先生でした。矛盾や葛藤を回避していくよりむしろ、それを抱えて進んでみたらいい。そのように背中を押してもらったような気がして、とても励まされたのです。

『計算する生命』後に執筆した『僕たちはどう生きるか』では、「生態系の賑わいを描く」ということを正面から素直に追求しています。結果として断章的なテキストをバラバラ並べていくという、これまでとは違う文章のスタイルになりました。

現代の「センス・オブ・ワンダー」

—現在はレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』の翻訳を手掛けられているそうですね。数学から自然の著作というと飛躍があるように感じますが、今までのお話を伺っていると、おのずと繋がったような気もします。

企画をいただいたときは驚きました。すでに広く読み継がれてきた翻訳がありますから、僕があらためてこのテキストを翻訳することで、新しく加えられることなんてないのでは、とも思いました。

ただ、この作品の大きな魅力のひとつは、未完ということなんですよね。未完の作品だからこそ、座して読むだけでなく、それぞれにこのテキストを翻訳し、「続き」を紡いでいくことができる。

僕はカーソンとはとても違う人間なので、だからこそ、このテキストを翻訳し、続きを紡いでいこうとすることに面白さがあるかもしれない、と思うようになりました。

—どこが「違う」と思う点ですか?

ひとつは僕の場合、自分が子どもたちを導くというよりも、圧倒的に子どもたちに導かれているという点です。

そもそも、子どもたちの姿を見ていると、僕たち自身もまた自然の一部なのだということをあらためて痛感します。子どもは自然と同じく制御不能な存在です。だから、僕にとっては海や山や虫や植物と出会うのと同じくらい、子どもたちと過ごす時間がそのまま、自然の驚異を見つけ直していく過程そのものなのです。

長男がサワガニを捕まえて来たときに、水槽にいれたカニを見つめて「このカニすごいでっかいね。むかしむかしあるところから、ながされてきたのかな」って言うんです。「人間が誕生してないころ、海が海ぜんたいだったころ、台風が起きて、このカニさんが、うひゃー、助けてー!って流されたのかも」と。そして目を丸くしながら「カニさんすごーい」と水槽のなかを見つめ続けていました(笑)。

—すごい発想力。

完全に妄想ですけどね(笑)。驚くべきものや不思議なものを見たときに、子どもの心に物語が芽生える。なんでだろう、と思ったら、すぐに物語を作っちゃうんですね。彼らは大切な問題に直面したとき、決して「先送り」にはしないのです。

子どもと一緒に遊んでいていつも目を開かされるのは、彼らの遊び心です。既存のルールを少し揺さぶってみたり、逸脱してみたりするのが遊び心です。

西村清和の『遊びの現象学』(勁草書房)によると、漢語の「游」や「遊」において、「汓」は、風によって生じる水面のさざなみの様子を、「斿」は、旗や吹き流しが風にはためくさまを意味するそうです。

子どもたちの「軽やかに揺れ動き、あてどなくゆきつ戻りつする」遊び心には、大人の固着した視野を広げてくれる力があります。「自己破壊に夢中なこの世界」を、いきいきと生きる大きなヒントが、彼らの遊び心にあると思うのです。

子どもを導いていくのではなく、子どもたちに導かれていく。その先に開ける風景を、僕は心から楽しみにしています。

撮影:米田 真也

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