和歌山城をさんぽ-2024-01-30 1703年の今日は赤穂浪士が討入りした日 旧暦の元禄15年12月14日深夜、大石良雄ら旧赤穂藩士47人が吉良義央邸に討入りし、赤穂藩主浅野内匠頭長矩の無念を晴らした 討入りによる双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であった。一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人であった 吉良上野介を討った浪士達は、元禄15年12月15日早朝、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった 赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士を、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家に御預けとし、浪士の処分を議論した 旧暦の元禄16年2月4日(1703年3月20日)、「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたことを理由に、浪士らを切腹とする事に決めた。通常、このような罪には斬首が言い渡されるが、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている 幕府の命が下された当日(旧暦の元禄16年2月4日)、赤穂浪士達は各々のお預かりの大名屋敷にて切腹した 赤穂浪士の切腹と同日、上野介の跡を継いだ吉良左兵衛義周は諏訪忠虎にお預けとされた 幕府が左兵衛の処分を命じた理由は、義父・上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りの時も「未練」の振るまいが有ったとし、「親の恥辱は子として遁れ難く」有るからだとしている。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時の振るまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件時にはお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである 左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり、ここに三河吉良家は断絶する事になった TOP写真は2017年 小松お旅まつり曳山子供歌舞伎(義士外伝-土屋主税より) 花の写真は本日(1月30日)の和歌山城公園

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