活動データ
タイム
06:45
距離
7.4km
のぼり
60m
くだり
58m
活動詳細
すべて見る孫市まつりは2005年に始まり、今春開催で20回目になります 今年は、二十周年を記念して例年と逆のルートを辿り、和歌山城西の丸広場を主会場として開催された 戦国の鉄砲大将「雑賀孫市」と伝説の戦国最強の鉄砲集団「雑賀衆」をもっと知ってほしいと始まったそうです 野外劇「蘇れ孫市!信長を撃て!!」、今年は、孫市役を小西博之さん・信長役を薮下将人さんが演じてました 雑賀衆と雑賀孫市 織田信長や豊臣秀吉が、最も恐れた戦国最強の鉄砲集団、雑賀衆。その頭目で鉄砲の名手、雑賀孫市の活躍を今に伝える孫市まつりが、3月17日本願寺鷺森別院と和歌山城西の丸で開催されたので出かけた 雑賀孫市率いる雑賀衆は、初めから自主独立して、独自の道を歩んでいたわけではない。また、本願寺の一向一揆衆と同じに見られることもあるが、必ずしも一向一揆の味方であり続けたわけではない 孫市が率いる「雑賀衆」には「雑賀一向衆」と呼ばれる集団が含まれていたが、「雑賀衆」と「雑賀一向衆」は、互いに区別して考えるべきである まず「雑賀衆」は、宗教に関係なく紀伊の雑賀地方で連合する武装集団で、世俗の地理的関係がベースとなっている そして「雑賀一向衆」は、その「雑賀城」から6キロメートルほど北に離れる「鷺森御坊」を拠点とする雑賀の門徒衆で、雑賀衆に加わって活動することがあった 紀伊では特に南北朝時代から浄土真宗が広がったが、まず仏光寺系の「性応寺方」と「真光寺方」の二派が広がり、ついで本願寺系の「浄光寺方」と本願寺直属の「末寺方」の二派が広がって、これにその他「方はつれ」を含む合計五派が「雑賀一向衆」を構成していた 元亀元(1570)年9月に織田信長が大坂本願寺および三好三人衆と戦った時、紀伊の雑賀衆および雑賀一向衆は、そのほとんどが将軍と信長に味方した。紀伊の門徒たちすれば、本願寺に味方すべきだと考えたかもしれないが、将軍・義昭の要請で、紀伊守護・畠山秋高が信長側に味方した以上、それに従うしかなかった 一方の根来衆も雑賀衆同様、傭兵的存在として信長を支援することが多かった しかし、将軍・義昭と信長が対立して、紀伊守護の畠山秋高と家臣の遊佐信教の間でどちらにつくかで見解が割れたのである。信教はまだ26歳の若さで、思い詰めると突っ走ってしまうところがあり、主君の秋高も29歳と若く、信教の反発を鎮めるだけの力量がなかった。天正元(1573)年、遊佐信教は畠山秋高を殺害して、将軍に味方する姿勢を鮮明に示した 本願寺の方に視線を転ずると、過去に将軍と敵対していた大坂の本願寺は、義昭と和解して、反織田派の立場を崩していない 紀伊は、すでに守護が不在で、孫市も独自路線を進むほかになく、ここに雑賀衆は本願寺側の陣営を選び、信長と対当する道を選んだ
もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。