熊野街道(東岸和田駅~山中渓駅)

2024.01.03(水) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
2 時間 43
休憩時間
12
距離
23.0 km
のぼり / くだり
203 / 148 m

活動詳細

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本年もどうぞ宜しくお願いいたします🙇‍♂️ 31日は家でのんびり、元日は夜明けの和歌山城をジョギングしてから呑んだくれ、2日は初詣のはしご(と見せかけて屋台めぐり) という年末年始を過ごしました。 身体を通常モードに戻すべく、かと言って日中ひとりで出かけてしまうのは気が引けるので、早朝にロードを走ることに。 東岸和田駅を出て、熊野街道を山中渓駅まで進みました。 ルートは大阪府のウォーキングマップ(https://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/kakusyusesaku/rekishikaidou.html#kumano)とヤマレコのみんなの足跡機能を見ながら行ったのですが、たぶん外している箇所もあると思います😅

紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 東岸和田駅を出発し、この地点から熊野街道をなぞっていくことにした。

地図を見ていたらオール明けのおねーさんに
「ねーねー‼️なにやってんのぉー⁉️ポケモンGOぉぉぉー⁉️」
と話しかけられる。

さすが大阪の人は社交的やなあ(
ちょっと元気が出た(
東岸和田駅を出発し、この地点から熊野街道をなぞっていくことにした。 地図を見ていたらオール明けのおねーさんに 「ねーねー‼️なにやってんのぉー⁉️ポケモンGOぉぉぉー⁉️」 と話しかけられる。 さすが大阪の人は社交的やなあ( ちょっと元気が出た(
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 半田一里塚
熊野街道は古代には南海道と呼ばれ、別名「小栗街道」とも呼ばれる古代からの主要街道です。平安時代には、熊野詣の参詣道として賑わいました。半田一里塚は、熊野街道沿いに設けられた一里塚としては現存する唯一のものです。
(貝塚市ウェブサイトより)
半田一里塚 熊野街道は古代には南海道と呼ばれ、別名「小栗街道」とも呼ばれる古代からの主要街道です。平安時代には、熊野詣の参詣道として賑わいました。半田一里塚は、熊野街道沿いに設けられた一里塚としては現存する唯一のものです。 (貝塚市ウェブサイトより)
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 和泉橋本のあたり。
道標は皆無だけど白壁の屋敷があったり石仏があったりと、旧街道の面影があると思えばあるような。
和泉橋本のあたり。 道標は皆無だけど白壁の屋敷があったり石仏があったりと、旧街道の面影があると思えばあるような。
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 夜明け
夜明け
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 この池沿いに進むのが正しいルート。
国道26号線を横断後、勢いで車道を走り続けてしまい、途中で気づいて戻ってきた🏃‍♂️💦
この池沿いに進むのが正しいルート。 国道26号線を横断後、勢いで車道を走り続けてしまい、途中で気づいて戻ってきた🏃‍♂️💦
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 「←ふどうみち」「すぐ和歌山道」「右 さのみち」と書かれた石柱は明治38年に建てられたもの。
「すぐ」はまっすぐという意味みたい。
「←ふどうみち」「すぐ和歌山道」「右 さのみち」と書かれた石柱は明治38年に建てられたもの。 「すぐ」はまっすぐという意味みたい。
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 このあたり古いまちなみが残っていていい感じ。
「熊野街道散策マップ」という看板も立てられていた。
このあたり古いまちなみが残っていていい感じ。 「熊野街道散策マップ」という看板も立てられていた。
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 樫井古戦場跡
徳川方と豊臣方の最後の決戦、大坂夏の陣(1615年)の最初の合戦があったところなのだそう
樫井古戦場跡 徳川方と豊臣方の最後の決戦、大坂夏の陣(1615年)の最初の合戦があったところなのだそう
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 信達宿本陣跡
信達宿本陣跡
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 信達宿の常夜灯
信達宿の常夜灯
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 信達宿は熊野街道の案内看板も多く、地域をあげて宿場町の雰囲気を残そうとしているのを感じた
信達宿は熊野街道の案内看板も多く、地域をあげて宿場町の雰囲気を残そうとしているのを感じた
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 一之瀬王子跡
一之瀬王子跡
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 波太神社伏拝の鳥居
熊野詣など、街道を経て他国へ参拝する人々が多くなった時代、遠方から波太神社を伏拝する風習が生まれました。波太神社伏拝の鳥居は、当時の波太神社の権威を示すものとして、今もJR和泉鳥取駅裏にその形をとどめています。
(阪南市ウェブサイトより)
波太神社伏拝の鳥居 熊野詣など、街道を経て他国へ参拝する人々が多くなった時代、遠方から波太神社を伏拝する風習が生まれました。波太神社伏拝の鳥居は、当時の波太神社の権威を示すものとして、今もJR和泉鳥取駅裏にその形をとどめています。 (阪南市ウェブサイトより)
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 和泉鳥取を過ぎ、目的地の山中渓を目指す。高速道路と線路が並行している。
思ったより坂は緩やか。
和泉鳥取を過ぎ、目的地の山中渓を目指す。高速道路と線路が並行している。 思ったより坂は緩やか。
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 馬目王子跡
地域では「足神さん」と呼ばれているそう🦵
馬目王子跡 地域では「足神さん」と呼ばれているそう🦵
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 山中宿
ここまで「熊野街道」と呼んできたけど、石柱には「紀州街道」と書かれている。

紀州街道(熊野街道)
大阪市内から南下し、本市山中渓、雄ノ山峠を越え、和歌山へ抜ける道は、近世期以降に紀州藩の参勤交代のため整備され、「紀州街道」と呼ばれていました。この道は、古代に難波、奈良の都と紀伊国などを結ぶ「南海道」として成立し、平安時代以降熊野詣が盛んになると、 天皇や公家たちの参拝所兼休憩所の王子が、山中渓にも2ヶ所設けられ、「熊野街道」 と呼ばれていた時期もありました。このように時代や用途に応じてその名を様々に変えている道といえます。
(阪南市ウェブサイトより)

熊野詣の参詣道…熊野街道
参勤交代の道…紀州街道
だとすると、このあたりは両方の目的で使われていたから呼び名が2つあるってことなのか😕💡
山中宿 ここまで「熊野街道」と呼んできたけど、石柱には「紀州街道」と書かれている。 紀州街道(熊野街道) 大阪市内から南下し、本市山中渓、雄ノ山峠を越え、和歌山へ抜ける道は、近世期以降に紀州藩の参勤交代のため整備され、「紀州街道」と呼ばれていました。この道は、古代に難波、奈良の都と紀伊国などを結ぶ「南海道」として成立し、平安時代以降熊野詣が盛んになると、 天皇や公家たちの参拝所兼休憩所の王子が、山中渓にも2ヶ所設けられ、「熊野街道」 と呼ばれていた時期もありました。このように時代や用途に応じてその名を様々に変えている道といえます。 (阪南市ウェブサイトより) 熊野詣の参詣道…熊野街道 参勤交代の道…紀州街道 だとすると、このあたりは両方の目的で使われていたから呼び名が2つあるってことなのか😕💡
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 田中家住宅
築後150年以上といわれる江戸時代の建物です。現在は一部改修されていますが、広大な敷地には勇壮な構えの屋敷や土蔵、広い庭園等があり、泉州路屈指の屋敷です。
(阪南市ウェブサイトより)
田中家住宅 築後150年以上といわれる江戸時代の建物です。現在は一部改修されていますが、広大な敷地には勇壮な構えの屋敷や土蔵、広い庭園等があり、泉州路屈指の屋敷です。 (阪南市ウェブサイトより)
紀泉アルプス・飯盛山・ボンデン山 山中関所跡
南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったことがわかります。当時の関所は、通行する人馬や荷物から通行税を徴収していました。山中の地は熊野街道の要所で、関所を設けるのにふさわしい場所であったようです。熊野への参詣者が増加していたこのころは、かなりの税収入が得られていたと思われます。
(阪南市ウェブサイトより)
山中関所跡 南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったことがわかります。当時の関所は、通行する人馬や荷物から通行税を徴収していました。山中の地は熊野街道の要所で、関所を設けるのにふさわしい場所であったようです。熊野への参詣者が増加していたこのころは、かなりの税収入が得られていたと思われます。 (阪南市ウェブサイトより)

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