マツ
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- 愛知, 静岡, 三重で活動
- 男性
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おっさん'z山話 田原市のシデコブシ花見ついでに辺りを探索 ⭕️⭕️も歩けば棒に当たった? 伊川津の神明社に天狗(猿田彦)あり、境内付近で貝がらを拾う。 最近の新聞記事によると貝殻の縄文犬アクセサリーが出た場所。 https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20231123-OYTNT50189/ 海蔵寺には陶製の役行者さまあり。 福江港は付近は歴史道として整備、案内もあり。 陸軍伊良湖射場の脂油庫が消失。 無線電信所所有の農家さんからお話を聴く、 6階建の気象観測所も隣の農家私有で田原市がこの戦争遺跡を購入しないそうだ。 雨乞山から縦走コースの泉福寺はシデコブシ群生地にも近く古代からの大寺院だが寂れてしまっていた。 裏山から降りてきたのでお庫裡さんに叱られたことを思い出した。
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豊橋市下五井からの冨士 北斎の富嶽三十六景に「東海道吉田富士見茶屋」がある。 今は建物が立て込んで富士見どころではないが、以前、一度だけ冬季にJR飯田線から見たことがある。 ここ(下五井小馬場)あたりは名鉄名古屋本線との共用区間なのだが名鉄、JR東海道線、新幹線からも一瞬見えるそうだ。 画像はカシミール3Dシュミレーター。 それもそのはずで約330年前の1690(元禄3)年刊の『東海道分間絵図』でも地元の人でもたいてい知らないと書いてあった。 古人の観察眼には驚かされる。 「京より下りに此所より 初てふじ山みゆる 山々の間にふじ山 の上のみゆる、所の もの、ふと、しらざるは 多し、よくよくの青 天ならでは見へず」
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おっさん’z山話 続き 連休明けにトリオ+1で海抜0mからの富士を見る。 さらにお蝶さんは清水港遊覧船に乗れば一番良い景色になると言う。 なんでも富士見縦走登山の帰りに乗船を組み込んだらしい。 なるほど幕末に黒船でやって来た外国人をうならせた海中富士だ。 結局、北斎の描いた富嶽三十六景中で「神奈川沖浪裏」が一番の作なのも納得できる。 三十六景がシリーズ化したのは富士講ブームを当てこんだらしく富士登山関連なことはいうまでもない。 外人だけでなく日本でも三保海岸や田子の浦、清見潟(こちらはクレーンしか見えず残念)からの 富士は古来からずっと重要な歌枕だった。 連休の余波で公立の博物館等は皆閉まっていたが、かえって梅陰寺、興津の水口屋、 井上馨の長者荘(米糠山全体5万坪を有する、山頂からは富士が見えるそう)に行くことが叶った。
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宮路山バリエーション続き 明治の新八十八カ所: 隣の長福寺を一番として浄泉寺山門で完結していた。 江戸時代道標: ① 「是より浅間道」:宮路天神社手前右側 赤坂の飯盛女8人の寄進名 ② 「宮路山道」:宮路天神社300m奥、登山道分岐左側(自然石2石の内右側) このゲートを潜る登山道は現在でも使われているが多少荒れているためか新分県ガイドにはなくなってしまった。 こちらが古くからの本道(鎌倉街道)なので道標も知るとより面白い。 大江定基の妻、力寿の墓は長福寺裏山に新八十八カ所とともにある。 関連して小野小町が文屋康秀と共に三河に下り住んだ伝説をもとに俳諧集『三河小町』が作られた。 編者の太田白雪は芭蕉を鳳来寺山に案内した町人で大江氏の末裔でもあるらしい。 本当に小町の血を引く「三河美人」はいるのだろうか?当の白雪も信じてはいなさそうだ。
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三上山 秋の紅葉にはまだ早いが混雑を避け湖南三山に行く。 常楽寺、長寿寺、善水寺いずれも檜皮葺き本堂が美しい。 (元)三重塔は高い位置にあり本堂、諸堂との伽藍配置が絶妙。 *長寿寺三重塔は信長により移築され安土城内にある。 いずれも天台系の寺院で修験道とのかかわりも深い。 三上山は大ムカデ伝説で有名、御上神社も檜皮葺き。 椀を伏せたような山容はどこからでも目立つ。 時間の関係で登山はパス、いつかは登ろう(裏登山口は閉鎖らしい)。 松茸関係で入山料500円が必要。 霊山という理由で登山禁止にならないことを祈る。 ラストの大笹原神社も可愛いサイズの檜皮葺き。 残念なのは南草津駅のねじりマンポには行けなかったこと(草津駅マンポは潜ったが情報不足)。 姥ケ餅もおいしかった。
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和歌色紙(架蔵) 「山姫の りすの衣を 干しぬる哉(や) 紅葉重(もみぢがさね)の 袖の色々」 詠み人知らず 解釈 「この山々の紅葉襲(がさね)の袖色はなんとすばらしいこと きっと山姫が栗鼠の衣を干してしまったからなんだわ」 解説のようなもの 山姫(山姥、山の女神)はリスごろもを着る怪しい女神。 普段はりす毛色(日本本来の照葉樹林+広葉樹の明るい栗色)の地味な衣を着ている。 今まさに山姫は秋山をりす色から紅葉の錦色に変えるようとしているのでしょう。 昨日棚山で出会ったニホンリスちゃんもこのように明るい色でした。 この歌は多分に百人一首の持統天皇歌を意識しているようです。 「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山(かぐやま)」
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富士山頂にオートバイで完全登頂したのは’63年(昭和38)8月の林寿郎(上野動物園園長、ホンダハンターカブ2台、モンキーZ100、2台の計4台)らということだが、どうもそうではないようだ。すでに戦前の1926年(大正15)7月にはアメリカ車のエクセルシャー・スーパーXが登頂を果たしている。 *今では考えられないが戦前~高度成長期まではマシンの性能向上と販売促進PRのためこのような催しが多数行われていた。戦後国産オートバイによる「富士登山レース」(山頂に登るわけではない)なども社会の関心を集めた。 以下訳文 「SUPER-X MORTORCUCLE RETURNS FROM FUJI-SAN 先月のオートバイ誌(以下O誌)で報告されたように、Super-Xモーターサイクルが山頂に登頂した。パーティーメンバーは O誌スタッフと東京のSuper-X販売店の山田輪盛館、まず木村ミノル氏によって5合目までマシンに乗車、それから残りの道をみんなでトップに押し上げた 。登山は7月に行われた。 8月上旬、スーパーXに乗った木村、山田輪盛館の山田、スーパーXのソロエージェントのアプカー、児島、清水メカニック、荒巻販売員、土井シネママン、吉田、鹿島、を含む17人のパーティーによってスーパーXが持ち帰られました。 パーティーは午後6時に吉田口に到着し、翌朝7時に登り始め、午後4時に頂上に到着した。 強風と霧で天候は悪かった。 あらゆる気象条件にさらされて25日間山頂に放置されていたSuper-Xは完璧な姿だった。 降路は午前8時に8合目への非常に急な道に沿って始まりました。 8合目から、溶岩と燃えがらを越えて、有名な「スナスベリ」軽石のスライドに向かいました。角度は約45度です。 スーパーXはこの急な坂を下って、何の事故もなく5合目に到着しましたが、いくつかのエキサイティングな体験がありました。5合目から、昼食後、午後1時30分に再びスタートし、午後2時30分に富士の登山口に到着しました。 そして吉田に残されていたサイドカーが取り付けられ、翌朝11時から山麓の美しい田舎を抜けて帰国の旅が始まりました。 富士、御殿場、長尾峠、宮ノ下、小津、横浜、東京。 」 「オートバイ ’26年(大正15)9月号」英文記事を翻訳 *7月に登頂したものの天候悪化?のためメンバーはXを山頂においたまま下山した。再度出直し、8月にXを回収しつつ乗車して下山したようだ。前号の8月号にはその記載があるはずだ。 **同号に載る A.Mアプカー商会のエクセルシャー・スーパーX広告 登山に使用したものは’25年リリースの750cc車と思われる。
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現在の岩古谷(いわごや)山標高は806.9m。 所在地の設楽町観光ナビでは以下の通り 「 岩古谷山のてっぺんは806.9m!! 令和2年5月、国土地理院の基準点から正確に山のてっぺんを測量にすると「806.9m」でした。ちなみに、過去のデータで国土地理院の国土基本図では799mとあります。 799mより約8m高かったですね。」 https://www.kankoshitara.jp/experience/detail/5/ これを受けて「✖いわこや→〇いわごや」の読みを訂正完了したばかりの登山ガイドブック『こんなに楽しい愛知の130山』に再訂正を要求中です。 しかし、なかなか重い腰を上げてくれません。次は回答 「・・岩古谷山の標高について、お知らせいただきありがとうございました。 三角点のない岩古谷山のどこを山頂とするのか、そのあたりも含めて調べたいと思います。 標高については、犬山の白山も間違っています。 ただ、国土地理院が発表する標高は、時に変更されることも多々あります。 余談ですが、あの剱岳でさえ標高は何度も訂正され、一時は3000mを越えたこともあったとか。」 現状では画像のように少なくとも2箇所の標柱に山頂標高訂正がなされています。 一体狭い山頂部のどこを調べようとしているのか、理不尽を感じています。 また「ヤマレコ」「ヤマップ」などの登山アプリサイト、『アルペン分県ガイド 山と渓谷社』、他のガイド本、地図、map、所在地ではない諸HP等も799mと以前のデータのままなので速やかな訂正が必要です。 特にウェブ上の登山アプリ山データは登山者への影響が大きいのでデータ改訂、訂正の窓口を設けるべきと思います。
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