七転八倒 四大本空 〜一乗城山〜
一乗城山
(福井)
2024.03.25(月)
日帰り
七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空
かねて身のかかるべしとも思はずば 今の命の惜しくもあるらむ
越前の戦国大名、朝倉義景(1533〜1573)の辞世の句である
「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
(混乱の甚だしい四十年の人生であったが、他人や自分の別もなく、この世のすべて(四大=地・水・火・風)はそもそも空虚なのだ)
「かねて身のかかるべしとも思はずば 今の命の惜しくもあるらむ」
(かねてから我が身に降りかかるとは思いもよらず、この期に及び今となっては命が惜しく思われる)
2つの句の意味するところは全く違うように感じる
前者は死を受け入れて落ち着いた心境を(現実逃避と受取れなくもないが)、後者は死に直面してに取り乱すさまを表しているようだ
当時の辞世としては宗教色が薄く彼自身の心境を素直に詠んだものとして人間臭さすらも感じさせる
義景は越前の名家・朝倉氏を滅亡に導いた人物であり、絶好の好機を再三に渡って逃す決断力の弱さや約束を違えるなど一貫性のなさも目立ち、武将としての評価はあまり高くない
将軍・足利義昭が義景を頼って越前に身を寄せ上洛要請もこれを拒否、義昭は越前を去り信長を頼ることとなる
金ヶ崎の戦では盟友・浅井長政が織田軍の背後を衝き敗走せしめるも、追撃を躊躇した挙げ句に信長を取り逃がし再起を許す
一乗谷の戦では武田信玄との信長挟撃作戦にあたり積雪による兵の消耗で撤退、信玄から批判を受ける
天正元年(1573年)信長の近江侵攻に対して出陣も、重臣の朝倉景鏡・魚住景固らは疲労を理由に出陣を拒むなど、義景は数々の失態から家臣の信頼を失い離反者を出す
浅井軍と分断され劣勢となった朝倉軍は撤退の動きを読まれて猛追を受け、一乗谷城へ辿り着いた時には手勢10騎ほど、一乗谷城の留守を預かる将兵も大半が逃走した
従兄弟・朝倉景鏡の勧めにより義景は賢松寺に逃れたがその景鏡が織田信長と通じ賢松寺を襲撃(六坊賢松寺の戦)
ついに朝倉義景は享年41にして自刃を遂げ、朝倉氏は滅亡した
という訳で、
朝倉義景の居城、越前福井の一乗谷城を山頂に戴く一乗城山を歩いてみた
僕も信長の好んだ幸若舞「敦盛」の一節にある「人間五十年」を越えている
(モデルとなった平敦盛は源平合戦・一ノ谷の戦にて16歳で討死)
最近体調を崩したこともあり思うところもなくはないが、現代を生きる我々にとって辞世の句などというものはあまり身近なものではない
それでも一乗谷城を歩きながら彼の句を思い浮かべると、人生の最後を迎えた心境の揺れのようなものはなんとなく理解できる気もする
義景は戦国武将としては一般に凡庸とされるが、一乗谷に京都から多数の文化人を招いて一大文化圏を築くなど、異なる特徴を併せ持っている
それ故足利義昭も彼を頼ったのであろうし、平和の世なら名君と評されたかもしれない
福井へ新幹線が乗り入れたタイミングでもあり一乗谷周辺は当時の町並みを復元するなど整備が進む
一方で山頂の城址はあまり手が入っておらず、国破れて山河あり、となっている
時代は移りゆくが変わるもの、変わらないものがある
最近は変わらないものに対する興味が以前より少し湧いてきた気がする
日々の出来事に一喜一憂し「七転八倒」に陥った心持ちになることもなくもないが、無他無自 四大本空の心境を思い出したい
とりとめないままではあるが、いろいろなことを感じ取れる山歩きであった