馬事公苑通り→ライフ桜新町→駒沢給水所→246駒沢→ユニクロ駒沢自由通り→野沢→学芸大→碑文谷公園→柿の木坂一丁目→やくも文化通り→深沢学園通り→サミット深沢坂上→バス通り→シズラー桜新町→馬事公苑通り。 今朝の最低気温は25℃。リカバリーだからというより、暑さにやられて全然走れんかった。暑さに負けてエアコンつけっぱなしで寝ているせいか、暑熱順化がうまくいってない模様。 オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。 「屏風はたたまれた」は素性を明かさぬ女との逢瀬に執着する弥十郎の話。「おまえは一年ちかくもその女のことにとらわれている、それがそんなに大事なことか」いや大事だろ。「おまえにはそのほかに大事なことはないのか」それはそれ、これはこれ。相手に対する執着もあるだろうが、純粋に知りたいという欲求を無理矢理封じ込めようとする「忘れてしまえ」という親父殿の決めゼリフには反発しか覚えないのだけど。 「橋の下」は若き日の恋にのぼせて友人を斬り、妻と一緒に城下を出奔して、やがて物乞いにまで身をやつした老人の述懐。 「どんなに重大だと思うことも、時が経ってみるとそれほどではなくなるものです」「家伝の刀ひとふりと、親たちの位牌だけ持って、人の家の裏に立って食を乞い、ほら穴や橋の下で寝起きをしながら、それでもなお、私は生きておりますし、これはこれでまた味わいもあります、そして、こういう境涯から振返ってみると、なに一つ重大なことはなかったと思うのです、恋の冷える時間はごく短いものでしたし、友の出世もさしたることではない、友達はその後さらに出世をしたことでしょう、ことによると城代家老になったかもしれませんが、いまの私には羨む気持もなし、特に祝う気持もない、ただひとつ、思いだすたびに心が痛むのは、あのはたし合で友を斬ったことです」 転ばぬ先の杖はたいてい老人の自己満足の繰り言にすぎないし、これから歩く道を平らかに、安全にして若い人が失敗する権利を奪うのは、人間は失敗からしか学べないことを考慮するなら、決してほめられたことではないけれど(だから、それをよかれと思って行う人を「老害」と呼ぶわけで)、これしかないと思い詰め、はやる気持ちをほぐすのに、一杯のお茶があればいいというのは、賢者の知恵だなと思った。 「あのとき友達のところへゆくまえに、茶を一杯啜るだけでも、考えが変ったかもしれない、堀端を歩くとか、絵を眺めるとか、ほんのちょっと気をしずめてからにすれば、事情はまったく変っていたかもしれません、そうでなくとも、あの少年時代の、うしろからついて来る足音、落葉を踏みながらついて来た足音や、友達の云ったあの言葉を思いだすだけでもよかったのです」 「ーーだって、友達だもの」 #街ラン #朝ラン #早朝ラン #ランニング

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。