馬事公苑通り→弦巻通り→砧公園通り→砧公園→岡本三丁目の富士見坂→大蔵氷川神社→多摩堤通り→喜多見東記念公園右脇の通り→喜多見氷川神社→岩戸川緑道→喜多見公園→喜多見まえこうち緑道→宇奈根龍王公園→宇奈根下河原緑道→駒大玉川キャンパス裏→ゆうぽうと世田谷レクセンター→野川水道橋→鎌田前耕地緑道→岡本公園→岡本八幡宮→岡本の丘緑地→大蔵通り→砧公園→用賀七条通り→馬事公苑通り。 今朝の最低気温は24℃。暑さにはめっぽう弱いたちなので、途中でけっこう歩いてしまった。毎年夏はダメダメなんだよね。いまは4:15起きなんだけど、30分くらい早めようかな。 オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。 「ほたる放生」は思ったとおりの後味の悪い終わり方。秋ちゃんも藤さんも悪い人じゃないけれど、人を見る目がなさすぎなのが切ない。 「末っ子」は旗本の三男坊・平五が婿養子に行くことを拒み自らの才覚で生計を立てる話。稼ぐといっても武芸や学問に秀でるわけでも、ものづくりの才があるわけでもないから、品物を右から左に流してサヤを稼ぐせどり家業に精を出して、御家人株を買う資金をせっせと貯めていた。旧世代の平五の父親や細江の母親が信じてやまない「武士の誇り」や「侍だましい」が、実は、現実を無視した時代遅れの戯れ言で、彼らが働いて稼ぐことを下に見て、はしたないと忌み嫌えば嫌うほど、それによって人生を棒に振る次男坊や三男坊、生活苦なのに手持ちのものを切り売りすることでしか銭を得られない浪人やその家族が、いったいどれだけの人数にのぼったのかと思うと、怒りを禁じえない。 武士は仕官しなければ無一文、仕官しても幕府や藩から給料をもらう「公務員」でしかないのだけど、役人がエリート意識を振りかざして民間を見下ろすとろくなことにならないのは、いつの世も変わらない。自力では稼げないから、自力で稼いだ人たちから吸い上げた「税金」によって暮らしを立てている役人が、自力で稼ぐ人を下に見るのは本末転倒。役人は特権階級でもなんでもなくて公僕である、という原理原則を見落とすと、そうした誤解がまかり通る。 「侍だましいもくそもあるもんか、自分の力でそのみちの一流になれば、永代扶持で徒食しているよりよっぽど人間らしいや、へ、いまに証拠をみせてやるから吃嘆(びっくり)するな」。何があっても自分の才覚で食べていくと腹を決めた平五は、いっそすがすがしい。 #街ラン #朝ラン #早朝ラン #ランニング

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。