山と食欲と私 そのいち えっと私のモーメントの使い方として思いついたのがエッセイ。「山と◯◯と私」というタイトルで徒然ダラダラと書こうと思います。あくまでも個人的意見です。 山メシ研究会したのでこのタイトル。 「食ではない、食事です」 それが私の考える山メシ 勿論、カップラーメンやおにぎりって日もあります。トレランだとバーやジェルってこともあります。 食は生命維持の為に行いますが食事は 人、モノ、場所 全てを楽しみます。 コトが大事なんですよね。誰とどこで何を食べるかを想像し準備して実際に楽しむのが食事です。 折角なので山の上で 「食事」 を楽しみたい。 ザックが大きく重くなっても、そのぶんワクワクを背負っていると思えば。それこそ山と食欲と私の日比野鮎美さんと同じ心境ですね。 食事とは食材の重さや調理器具の多さや手間を言っているのではないんですけどね。 勿論いろんな考え方があります。 衣食住をミニマムにすることで自然とより深く関われる。それもそうですね。 小屋には美味しい食事を作って待ってくれている、山小屋を支える為にも小屋の食事は頼むべきだ。勿論そうだと思います。 食うもんについてゴタゴタ言うな。ごもっともです。 安全に登って安全に下る時間を除けばその使い方はそれぞれの自由ですからねー。 カップラーメンもミニマムも小屋の夕ご飯も「食事」です。 少し前の話ですがトレランレースに出ていました。トレランレースだと基本の食事はジェル等です。エイドという食事を提供してくれるポイントがあります。レースのコースや結果、走っている景色より覚えているのが 私の場合、顔が見えるそれこそ食事(ステキエイド)でした。 四万十川の支流のそばで地元のおばちゃん方が漬けてくれた 「キューリの一本漬け」 あまりにも旨くてここでレースやめて食べ続けようかと思ったくらいです。 古道の休憩所で供される柿の葉の巻いてある昔懐かしいぬか臭い匂いのする 「おにぎり」 5分10分遅れてもそれこそ貪るように食べました。あまりに俺が食いすぎたせいか翌年から個数制限ができたような・・ 今でもしっかと脳裏に刻まれています。 作った山メシの中では霧氷を見に行った笹ヶ峰でのホルモン鍋がさっと記憶の引き出しから出てきました。 風のない場所を探し、積もった雪をかき分け、岩の上でバーナーで温めても全然半解凍であったまらず、ガス缶は冷えて延々トロ火だし・・いつまでたっても熱くならない。しゃーなしでぬるいホルモン鍋と〆のうどんをジャッキーと掻きこみました。でも旨かったよ、霧氷に包まれて食べるぬるいホルモン鍋。 夏の氷ノ山の山頂で濃霧と風に煽られながら溶けず凍ったままの冷凍そばに「つゆ」と「とろろ」をのっけて齧ったっけ、体の中も外も冷え切りました。ガタガタ震えながらはよスタートしよって思った。それもいい思い出です。やたら寒いネタ多いですが。 食というのは記憶に結び付けられやすい。それは「事」が伴う。 家で食べるのも、お店で食べるのも、山の上で食べるのも同じ「事」ですね。 ここまで書いて詰まっていたところで、たまたま読んでいた吉本ばななさんのエッセイにステキな文章がありましたので勝手に引用させていただき、今回の〆とさせていただきます。 「食卓は、今日が一回しかないことを教えてくれる絵が描かれたキャンバスのようなものだ。 描かれた絵は、その日のうちに消えてなくなってしまうが、テーブルを共にした人びとの中には、 かけがえのない思い出が刻まれる。それはお金では買えないし、消えてしまうからこそ残るものでもある。 なくなってしまうのにていねいに作っていくなんて、まるでチベットの砂曼荼羅のようだ。 (中略) そうやって数限りない食事の時間を共にして、人は流れていくのだと思う。いつかもう食べられなくなってこの世を去っていく時まで思い出は増え続けて、そして、いろいろな人がいろいろな場所で、今日しか描けない絵をその人にしか出せない色で、書き続けるのだろうと思う。」

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