ちび山さんぽ 待乳山→摺鉢山→大仏山 摺鉢山は「長屋の花見」など、待乳山は「文七元結」など、吉原は多数の落語や歌舞伎に出てくる ※「鬼滅の刃」遊郭編がアニメ放送決定だけど、今も風俗店街なので新吉原には親子連れのお散歩はお勧めできません アプリ「大江戸今昔めぐり」で古地図と見比べながら江戸時代の山散歩
あしたのジョー像 「あしたのジョー」の舞台となった「山谷のドヤ街」はこの一帯だそう
吉原大門バス停の前には、「さくら鍋 中江」と「土手の伊勢屋」が並ぶ 桜鍋(馬肉)は精を付ける食材として下町で人気が高まったそう
土手の伊勢屋 見返り柳の斜め向かいにあり 店舗建物が古く登録有形文化財 吉原が遊郭として賑やかだった頃は、朝帰り客から夜中は遊郭に出前もしたりと24時間体制でお店を運営してたそう 店の前に「土手」があったことで「土手の伊勢屋」と呼ばれるように
伊勢屋の天丼となめこ椀 全てが美味だった 天丼ハ:穴子、小海老とホタテのかき揚げ、海老一本、旬の魚(カスゴ)、野菜三種(しし唐、そら豆、茗荷)
見返り柳とスカイツリー 土手通りから見返り柳を右に衣紋坂を進むとS字カーブの五十間通りを経て大門へ 将軍が鷹狩に御成の時、日本堤(見返り柳のある土手通り)から大門が見えては畏れ多いとの配慮でカーブさせたそう 衣紋坂(えもんざか)は遊客の衣紋を直す所 日本堤から吉原大門までが五十間(100m)あった 「江戸八景 吉原の夜雨」絵・一勇斎国芳(歌川国芳)」 http://www.photo-make.jp/hm_2/eisen_yoshiwara.html スカイツリー側から見た見返り柳 衣紋坂→カーブの五十間通り→黒い大門と黒板塀が囲んだ吉原がある 日本堤には番傘に書かれた「山本」は宣伝(吉原の茶屋の屋号)
見返り柳を見上げる 根元には案内板と「新吉原衣紋坂・見返り柳」の碑 1657年の明暦の大火での移転前を元吉原、移転後を新吉原
吉原大門跡と仲之町通り 当時の唯一の出入り口 落語「明烏」で、「3人で来たのに1人で帰ると怪しまれて大門の番所で止めとくてぇのが吉原の規則だ、2年でも3年でも」の脅しで有名
吉原大門の右手前には交番 当時は大門入って左手には面番所(お尋ね者の出入りを見張る場所で、奉公所の同心と岡っ引が交代で常駐)、右手には四郎兵衛(しろべえ)会所(女性客は木戸札(チケット)を入手しておき、出るときに番人に遊女の逃亡防止として提示必要)があった
吉原神社 吉原今昔図(2,500円で)を左の社務所で販売 仲之町通りのこの辺までが新吉原らしい
お歯黒どぶの石垣跡 四方には忍返が植えられた黒板塀がめぐらされ、その外を取り囲んでいたお歯黒どぶ(大溝)は、約3.6mの深さで5間(約9m)もの幅があった 人形町から吉原を移転した時に田んぼに土を盛って土地を造成した為、遊郭は周囲よりも盛り上がった場所にあった
絵も描いてたのか
山谷堀橋 山谷堀(さんやぼり)は、かつての東京の水路。江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(現在の隅田川)への出入口である今戸まで造られた 現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700m「山谷堀公園」に
猪牙舟(ちょきぶね) 江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言い、船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた 界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だった 落語『夢金』の船宿
猪牙舟とスカイツリー 隅田川から吉原遊廓へ山谷堀を猪牙舟で向う気分を疑似体験
熱海寒桜とスカイツリー 山谷堀公園から
今戸橋
本龍院(待乳山聖天)の天狗坂 推古天皇3年(595年)に突然一夜で湧き出た霊山で、金龍が天より降って山を廻り守護したそう
天狗坂近くにさくらレール(無料スロープカー)あり
待乳山山頂からの眺め 標高9.8m 隅田公園内にある小さい丘で、昔は東に筑波山、西に富士山をのぞむことができたそう
待乳山聖天といえば大根 浮世絵でも大根抱えて階段上がる様子が描かれてる https://e-asakusa.jp/culture-experience/14621
大根や巾着は聖天様の大きな御利益を端的に表したものだそう
池波正太郎は待乳山聖天の南側(旧浅草聖天町)で生まれたそう 向かいの店には大根づくしの縁結びランチ
梅とスカイツリー 隅田公園の梅めぐり散歩道より
梅とスカイツリー 隅田公園の梅めぐり散歩道より
言問橋(ことといばし) 「竹屋の渡し」という渡船場があった場所 次の吾妻橋へ進む 落語や歌舞伎で有名な「文七元結」の長兵衛の吉原からの帰り道と、偶然同じルートだった
本法寺 寺の外塀は歴代の噺家の名が刻まれている
はなし塚 太平洋戦争開戦前の1941年10月、落語界幹部らが上演自粛を決めた53話を納める為に建てた 遊郭や好色、酒などを扱い「時局柄ふさわしくない」とされたネタは「禁演落語」と呼ばれ、名作「明烏」「子別れ」等の台本が塚に納められた
下谷神社 横山大観の拝殿天井絵「龍」あり 関東大震災で社殿を焼失し、社殿新築でお金が掛かっただろう、神様の事だからこれはそっくり奉納すると言って、揮毫(きごう)料を、その封筒のまま全額、神社へ奉納し、代わりの大宴会で神社や氏子を助けたそう
左「寄席発祥之地」 柳家小さん師匠の文字 右「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」 正岡子規の句碑 江戸時代、寛政10年(1798)6月に初代山生亭花楽が下谷稲荷社(現下谷神社)の境内で五日間の寄席興行を行ったのが江戸最初の寄席興行といわれる
黒門 新政府軍は黒門近くの料亭(雁鍋と松源)の2階に四斤山砲を持ち込み、山王台の彰義隊を狙撃して黒門を突破したそう
黒門を表現した壁泉 焼け残った本物の黒門は荒川区の円通寺に移築
清水観音堂と月の松 歌川広重の連作浮世絵「名所江戸百景」には「上野山内月のまつ」「上野清水堂不忍ノ池」の2枚に描かれている
月の松 清水観音堂から不忍池を眺める 落語「崇徳院」でも、高台にある清水観音堂からの眺望の良さ(弁天様の池、湯島天神、神田明神、待乳山聖天の森)や、若旦那が上野の清水様へお参りに行き恋煩いになるエピソードで出てくる
彰義隊士の墓 上野戦争では上野動物園内(寒松院跡)が彰義隊の本陣だった 午前7時過ぎに開始し午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した(彰義隊の残党は、大村益次郎が用意した退路の根岸方面に敗走)
天海僧正毛髪塔 上野の寛永寺をはじめ、清水観音堂や不忍池弁天堂などを建立し、上野公園に桜を取り寄せ、不忍池に蓮を植えたのも天海大僧正だそう
摺鉢山への登山道 江戸時代はこの山での花見も有名だった https://youtu.be/aREe2XK62aQ
摺鉢山山頂からの眺め 標高24m 約1500年前に築かれた全長約70mの前方後円墳 隣には正岡子規記念球場
大仏山 像高約6メートルの釈迦如来坐像だった 関東大震災で崩れ落ち、大仏の顔面部のみ保存展示され、「これ以上落ちない」と受験生の験担ぎのパワースポットに
寛永寺の本坊にあった表門 元々は今の東京国立博物館の敷地内に本坊があったが、幕末の上野戦争でこの表門だけが焼け残り、その後ここに移築された
門扉には当時の弾痕が残されている