川苔山事件~Mの悲劇~

2021.02.21(日) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
6 時間 30
休憩時間
1 時間 26
距離
12.7 km
上り / 下り
1336 / 1440 m
37
1 24
18
1 19
36

活動詳細

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 キョースケは鳩ノ巣駅から電車に乗り込み俺と合流した。無料の町営鳩ノ巣駐車場にマイカーを停めてきたのだ。俺の隣の座席に着くと、駐車場のトイレが如何に素晴らしかったか語りだした。正直俺はあまり興味がなかったが、「そうか」と相づちを打ったり、「大と小のどっちだ?」などと適当なことを言って興味を持っている振りをした。話によるとキョースケは「個室」を使用したらしい。  奥多摩駅からはバスに乗り換える。飛び石連休の中日だからか、平日にもかかわらず終点『川乗橋』の臨時バスが出るらしい。通常この路線は日原地区の道路事情により、マイクロバスで運行されている。だが、川乗橋までなら普通のサイズのバスで運行できる。いつもなら超満員の車内が、数人の立ち乗り客だけで済んだ。  川乗橋バス停に到着し、バスは乗客を吐き出してUターンした。予報では、この日の最高気温は十数度まで上がるらしかった。俺は早々とベースレイヤーだけになったが、キョースケはウインドシェルを羽織っていた。この先は舗装道路を三~四十分歩いて行く。登山口にたどり着く前に一人の小柄な老人に追い越される。七十五歳より上に見えたが、しっかりした歩調で進んでゆく。彼は濃紺に白の三本ラインが入ったノーブランドのジャージズボンを履き、上は長袖と半袖のTシャツを重ね着していた。ジャージは恐らく孫娘が中学時代に履いていたものを譲り受けたに違ない。その後ろ姿は、「登山は恰好じゃねぇ」、「低山ごときでブランド物に浮かれているようじゃまだまだだ、若輩どもめ」と語っていた。確かにそうだ。この使い古されたジャージは、「このジャージをおじいちゃんだと思って、大切にしてくれ」と病院のベッドに横たわる今際の際の老人から、最愛の孫娘に半強制的に形見分けされることだろう。俺は悪くない人生だと思った。  ようやく登山道に入り、川沿いの崖を進む。美しい峡谷だが、共に高所恐怖症気味の俺たちにとって思いの外怖い道だった。慎重に進むので、ややゆっくりしたペースで進む。気配を感じ後ろを振り向くと、美熟女2人組が迫ってきていた。彼女たちは高貴なオーラを身に纏っていた。体が温まり気温も上昇し、滝に着く前に顔が滝になっていた俺は、キョースケに道を譲ることを提案し脇に退く。俺たちは軽くあいさつしたが、美熟女たちは余裕のない表情で、そっけなく挨拶された。俺の顔がびしょびしょだったせいかもしれない。  曲がりくねった道を進み、幾度か丸太を組んだだけの橋を渡っていると、突如百尋の滝が目に入ってきた。前を歩くキョースケが「おお、これか!」と感嘆の声を上げる。俺もこの滝を見るのは初めてで内心興奮していたくせに、「そうだ、これだ」と冷静を装った。豊富な水量とは言えないが、落差を誇る百尋の滝は、見る者の気持ちを浄化してゆく。ひんやりした空間にいて、汗が引いていった。  滝壺近くから次の目的地、川苔山に向け歩み始めた時、ウサギがニンジンを食べるときのように鼻をぴくぴく動かすのと、しかめっ面と無表情を繰り返すのが混ざったような、何とも言えない顔の動きをしながらこちらに向かって歩いてくる40代くらいの女性がいた。俺は面白いなぁと思いつつ見入ってしまった。いかんと思いすぐに目をそらしたが、花粉症の始まりだったかもしれない。花粉症の人はこれから大変な季節なのだ。  川辺から鉄製の手摺が付いた階段を上り岩場に進路をとる。ここから二〇分くらいのトラバースは滑落事故が多発している。俺たちは慎重を期すため、会話しないことにした。真新しい鎖が敷設されていて、つかんでいると安心感がある。だが油断は禁物だ。滑落事故現場を示すラミネートシートがあった場所は、この危険区間の中ではあまり危険とは思えない場所だった。きっと気が緩んだのだろう。一瞬の気の緩みが死を決定づけることもある。  危険区間を抜け若干の急登を越え杉林に入った。暑さの中、静かな日陰道で涼しい風に首筋を撫でられて俺たちの緊張感もほぐれる。そのせいか、キョースケがダム決壊の恐れを訴えた。幸い後方に人影は見えない。GOサインを出し、俺も後を追った。杉林にしては急峻な斜面を見下ろし、魂の開放を試みる。キョースケがサイレンを鳴らし終わった時、俺はまだ道半ばだった。三〇秒後、俺も最終段階に入った。そして今日のその時。俺たちがやってきた登山道に人影があるのに気づく。逆光を背に現れたのは、黒いつば広の帽子、黒いジャケットと黒づくめの男だった。まるで地獄の修道士だ。気まずい空気が漂う。まだ男でよかった。俺たちは少女のように頬を染め、そそくさとその場を立ち去った。  林間を抜け開けた谷間に辿り着く。谷間では若い小柄な女性がチェーンスパイクを装着していた。下りてきた男性に必要性を確認すると、この先は付けないと行けないと言われた。軽アイゼンを使用したことはあったが、チェーンスパイクは初めてだった。少しワクワクしながら装着する。すると先ほどの地獄の修道士が現れた。そして目があった。そしてお互いうつむく。準備を整え俺たちは谷の奥に進む。そこでは落ち葉の下に巧妙に隠された氷が罠を仕掛けていた。しかし、氷の罠もチェーンスパイクの前では脅威ではなかった。チェ-ンスパイクは氷を踏み砕き完全にグリップした。  更に谷の奥に進むと残雪があり、俺たちはその上をゆっくり進む。すると前方から先に進んでいた女性とジャージ姿の小柄な老人が引き返してくる。谷を進みすぎたらしい。ちょうど俺たちがいた近くの折り返しで谷を這い上がる道が正しいルートだった。ここからは最後の難関らしく急峻だった。大方乾いていたが、氷がところどころにあって、チェーンスパイクを脱げないもどかしい坂道は、川苔山と鳩ノ巣方面の分岐点である東の肩まで続いた。東の肩の分岐にはベンチが二つ設置されている。このベンチでチェーンスパイクを外し、川苔山山頂に向かった。  山頂は既に多くの人で賑わっていた。ちょうど昼時に差し掛からんとしていたため、皆ランチタイムに入っている。ベンチは埋まり地面に座るしかなかった。  一通り写真を撮ってから、キョースケがここがいいと選んだ場所は山頂より少し離れた急斜面の手前だった。キョースケはビニール袋を敷いてくれ、おにぎりを出した。俺はストーブとコッヘル、そしてマルちゃん正麺のカップラーメンをザックから取り出した。すると、マルちゃんがよろけ、転がりだした。「おいおい!おむすびころりんかよ!」俺は相当慌てた。幸い円錐形だったため、真っ直ぐ転がらず円を描くように停止した。俺は内心ホッとした。しかし、この出来事はこの後に起こる事件を暗示していたのだ。  マルちゃんの包装を取り除きふたを開け、加薬を入れる。置く場所がないため片手にふたが開いたマルちゃんを持ち、お湯が入った水筒を取り出すためザックをまさぐった。その時、付属の袋に収められたマーモットのダウンジャケットが飛び出した。あっと言う間もなく、綺麗な円筒形にまとめられた俺のマーモットが転がりだす。俺の1000フィルパワーのダウンジャケットが躍動する。好日山荘のクリアランスセールで買った俺の黒いマーモットがかいてんする。まだ、二回しかきていないおれのマーモットが、たにぞこへぱちんこだまのようにじゅもくにあたりはねかへり・・・ほれのまーもっとちゃんぐあ・・・。  成す術はなかった。とりあえずキョースケに当たってみた。「半分は場所を選んだお前のせいだ!」しかし、100%俺の責任だ。わかっている。すまん。悪あがきは止そう。金で解決できることは大したことじゃない。俺は涙を拭い前を向くことにした。  食事を終え俺の発作も収まり、下山を開始することにした。東の肩のベンチでプロテインを補給し終わり、さて出発するかと言っていた時、滝の前で会った美熟女たちが鳩ノ巣方面に下って行った。少々マゾっ気がある俺たちは後に続いたが、とても追いつけない。美熟女たちは、ゲレンデのこぶ斜面を滑るモーグル選手のように登山道を駆け下りて行った。  最初の方こそ急な下り坂だったが、ある所から一時的に緩やかな下りになった。俺たちはゆっくり話をしながら歩いた。キョースケは夏に向けて、ある考えを俺に披露した。  「今の季節でこんなに暑いと夏なんか大変だと思って色々調べたら、メッシュのベースレイヤーがいいらしいとネットに書いてあって、汗の蒸発に特に効果があるらしいので俺買おうかと考えているよ」文字に起こすととても長い。 俺は、「でもあーいうのは、乳首が見えるぞ」と応酬した。キョースケは、「上に何か着るから大丈夫だよ」と返す。俺はモンベルのジオラインを勧めた。「リーズナブルでいいぞ」というと、キョースケは「それは乳首は見えないのか?」。俺は「大丈夫だ」と返した。いつのまにか選定基準が「乳首が見えるか見えないか」になっていた。  御神木を拝んだ後、林道を横切り最後の下りに移った。また急な下りに変わり、ところどころ岩もある。うんざりだったが仕方ない。下って行った。すると背後に下山者の気配がした。振り向くと二人の若い女性が下りてくる。俺たちは道を空けることにした。軽くあいさつしながら通過してゆく女性たち。爽やかな一陣の風。ちょうど分かれ道の近くで追い越されたが、彼女たちは急峻な道を選んだ。上から彼女らの姿を追うと、天狗かと思うほどの身のこなし。現代のくノ一なのであろうか。ものすごい降下速度だった。もしかしたら、音入れの時間が近かったせいかもしれない。恐らく山行中に出会った美熟女たちも同じ理由で猛スピードだったのだろう。このルートは変化に富んだいいルートだが、この辺に一番の問題点がある。  鳩ノ巣で女天狗に出会った後、俺たちの山行も無事終了した。 この物語はノン・フィクションではありますが、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません

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