浄瑠璃寺〜上狭川城跡〜下狭川城跡〜中墓寺〜加茂駅

2021.02.12(金) 日帰り

活動データ

タイム

05:43

距離

26.0km

のぼり

1019m

くだり

1153m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
5 時間 43
休憩時間
8
距離
26.0 km
のぼり / くだり
1019 / 1153 m

活動詳細

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浄瑠璃寺から笠置街道を辿って、上狭川城跡と下狭川城跡を巡り、笠置から加茂笠置遊歩道を通って加茂駅へ向かいました。

奈良市(東エリア) 浄瑠璃寺参道路傍の馬酔木が花を咲かせていました。
浄瑠璃寺参道路傍の馬酔木が花を咲かせていました。
奈良市(東エリア) 一鍬地蔵(鎌倉中期)。晴れた日の午前中なら、像容がわかりやすいです。曇った日でも円光光背は見えると思います。
一鍬地蔵(鎌倉中期)。晴れた日の午前中なら、像容がわかりやすいです。曇った日でも円光光背は見えると思います。
奈良市(東エリア) 唐臼の壺阿弥陀・地蔵磨崖仏(康永2(1343)年)。左側の岩陰に地蔵立像があります。阿弥陀銘文「康永二年癸未三月十五日願主恒性」。地蔵銘文「康永二年癸未三月廿四日願主勝珍」。
唐臼の壺阿弥陀・地蔵磨崖仏(康永2(1343)年)。左側の岩陰に地蔵立像があります。阿弥陀銘文「康永二年癸未三月十五日願主恒性」。地蔵銘文「康永二年癸未三月廿四日願主勝珍」。
奈良市(東エリア) 笑い仏(永仁7(1299)年)。みろくの辻弥勒磨崖仏の作者でもある伊末行の作。「永仁七年二月十五日/願主岩船寺住僧□□/大工末行」
笑い仏(永仁7(1299)年)。みろくの辻弥勒磨崖仏の作者でもある伊末行の作。「永仁七年二月十五日/願主岩船寺住僧□□/大工末行」
奈良市(東エリア) みろくの辻弥勒磨崖仏(1274)。笠置山の弥勒石を模したとされ、菩薩ではなく如来として彫られています。奈良から笠置山へ向かう弥勒信仰巡礼路のちょうど中間点に位置し、ここから笠置へはほぼ下りのみです。なくなった父親が弥勒菩薩のいる兜率天へ往生することを願い、永清という人が、石大工の伊(猪)末行に作らせた弥勒磨崖仏です。「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道/文永十一年甲戌二月五日/為慈父上生永清造之大工末行」
みろくの辻弥勒磨崖仏(1274)。笠置山の弥勒石を模したとされ、菩薩ではなく如来として彫られています。奈良から笠置山へ向かう弥勒信仰巡礼路のちょうど中間点に位置し、ここから笠置へはほぼ下りのみです。なくなった父親が弥勒菩薩のいる兜率天へ往生することを願い、永清という人が、石大工の伊(猪)末行に作らせた弥勒磨崖仏です。「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道/文永十一年甲戌二月五日/為慈父上生永清造之大工末行」
奈良市(東エリア) 産廃関連事業所の間にある県道を下ります。
産廃関連事業所の間にある県道を下ります。
奈良市(東エリア) 北村戸隠神社にあるおかげ灯篭。「太神宮 天保元寅年九月吉日 おかけ 村中安全」。東山中には計七基のおかげ燈籠がありますが、それらはすべて天保元年(文政十三年/1830年)のおかげ参りを記念するものです(「奈良市史 通史3」283-284ページ)。この年、東山中の村々が競い合うようにして、おかげ燈籠を造立したようです。
北村戸隠神社にあるおかげ灯篭。「太神宮 天保元寅年九月吉日 おかけ 村中安全」。東山中には計七基のおかげ燈籠がありますが、それらはすべて天保元年(文政十三年/1830年)のおかげ参りを記念するものです(「奈良市史 通史3」283-284ページ)。この年、東山中の村々が競い合うようにして、おかげ燈籠を造立したようです。
奈良市(東エリア) 北村観音堂の石仏。左:笠石阿弥陀石仏(南北朝後期)。右:如意輪観音十九夜講衆像(文禄4(1595)年)。「文禄四年/十月十五日/(法名16名)」。

下記研究概要に次のような記述がありました。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-09780119/

「十九夜講とは、月の十九日の夜に女性(おもに主婦)が当番の家や地域の公民館に集まって、如意輪観音の掛輔に念仏を唱えて安産や健康を祈る民俗行事である。これは一般に近世期に始まったとされ、如意輪観音の彫られた十九夜供養碑が建立されるのが通例である。それゆえこの行事は、ある種の<宗教景観>をつくりだす要因ともなる。講の行事を担う社会集団の規模は、近世の藩制村の構成要素としての、いわゆる村組レヴェルの小地域集団であることが多く、藩制村の枠を超えるケースはほとんどない。
十九夜講は関東から東北にかけて盛んであるが、西日本では大和高原の北部地域(「東山中」と呼ばれる地域)に集中的にみられることが、これまでの研究からわかっている。それゆえ全国的にみると、東山中は十九夜講の分布における待異な飛び地をなしているといえる。
この研究では、(1)<制度>としての十九夜講が、どの村落からいかなるかたちで空間的に伝播していったのか、(2)十九夜講が伝播した各村落において、いかなるレベルの社会集団が十九夜講の行事を担い行い、かつ十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたのかを、明らかにすることを目的とした。
2年間の研究の結果、(1)については、十九夜講が現在の奈良市忍辱山地区からおおよそ同心円状に伝播してゆく過程が明らかになってきた。(2)については、十九夜講行事を担う社会集団は近世の藩制村レベルではなく、それを構成する小地域集団(村組や近隣組など)であるケースが多いことがわかっててきた。そのような小地域集団が、十九夜講伝播の担い手となり、十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたと考えられる。」

実際、国境を越えた当尾側には如意輪観音像も十九夜講の痕跡も全く見られません。国境を越えて奈良側に入ると、突然如意輪観音像が増えることはとても興味深いです。

東山中にはあちこちに如意輪観音像や十九夜講の記念碑がありますので、ぜひ探してみてください。
北村観音堂の石仏。左:笠石阿弥陀石仏(南北朝後期)。右:如意輪観音十九夜講衆像(文禄4(1595)年)。「文禄四年/十月十五日/(法名16名)」。 下記研究概要に次のような記述がありました。 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-09780119/ 「十九夜講とは、月の十九日の夜に女性(おもに主婦)が当番の家や地域の公民館に集まって、如意輪観音の掛輔に念仏を唱えて安産や健康を祈る民俗行事である。これは一般に近世期に始まったとされ、如意輪観音の彫られた十九夜供養碑が建立されるのが通例である。それゆえこの行事は、ある種の<宗教景観>をつくりだす要因ともなる。講の行事を担う社会集団の規模は、近世の藩制村の構成要素としての、いわゆる村組レヴェルの小地域集団であることが多く、藩制村の枠を超えるケースはほとんどない。 十九夜講は関東から東北にかけて盛んであるが、西日本では大和高原の北部地域(「東山中」と呼ばれる地域)に集中的にみられることが、これまでの研究からわかっている。それゆえ全国的にみると、東山中は十九夜講の分布における待異な飛び地をなしているといえる。 この研究では、(1)<制度>としての十九夜講が、どの村落からいかなるかたちで空間的に伝播していったのか、(2)十九夜講が伝播した各村落において、いかなるレベルの社会集団が十九夜講の行事を担い行い、かつ十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたのかを、明らかにすることを目的とした。 2年間の研究の結果、(1)については、十九夜講が現在の奈良市忍辱山地区からおおよそ同心円状に伝播してゆく過程が明らかになってきた。(2)については、十九夜講行事を担う社会集団は近世の藩制村レベルではなく、それを構成する小地域集団(村組や近隣組など)であるケースが多いことがわかっててきた。そのような小地域集団が、十九夜講伝播の担い手となり、十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたと考えられる。」 実際、国境を越えた当尾側には如意輪観音像も十九夜講の痕跡も全く見られません。国境を越えて奈良側に入ると、突然如意輪観音像が増えることはとても興味深いです。 東山中にはあちこちに如意輪観音像や十九夜講の記念碑がありますので、ぜひ探してみてください。
奈良市(東エリア) 写真の奥から歩いてきました。ただ、近代に入るまで安郷(あんごう)川沿いに、主要道はなかったようです。谷が急峻で道を作れなかったのではないかと思います。右から下りてくるのが旧道で、かつては当尾の大畑に通じていました。現在は廃道状態です。
写真の奥から歩いてきました。ただ、近代に入るまで安郷(あんごう)川沿いに、主要道はなかったようです。谷が急峻で道を作れなかったのではないかと思います。右から下りてくるのが旧道で、かつては当尾の大畑に通じていました。現在は廃道状態です。
奈良市(東エリア) 狭川両町の桜並木。桜の時期はとてもきれいです。春の狭川の田園風景はとても美しいので、また花が咲く頃再訪したいです。
狭川両町の桜並木。桜の時期はとてもきれいです。春の狭川の田園風景はとても美しいので、また花が咲く頃再訪したいです。
奈良市(東エリア) 五人切り磨崖碑。この辺りの小字が「五人切り」です。

「奈良県史 第七巻 石造美術」および「奈良市石造遺物調査報告書 調書編」によると、右から、地蔵菩薩像(奈良県史では「阿弥陀立像」とする)、舟形部分に「天正十二年甲(1584)/キリーク(阿弥陀如来を表す梵字) 大乗妙典三千部供養/三月廿六日仙眼□□」、方形部分に「天正十二年/南無阿弥陀佛/四月八日/西念 道円/西条 西入/道味」、磨崖五輪塔。

豊臣方の落ち武者が五人処刑されたから「五人切り」と呼ばれるようになったという伝承があるそうですが、秀吉が関白になったのが天正十三(1585)年ですから、年代が合いません。
五人切り磨崖碑。この辺りの小字が「五人切り」です。 「奈良県史 第七巻 石造美術」および「奈良市石造遺物調査報告書 調書編」によると、右から、地蔵菩薩像(奈良県史では「阿弥陀立像」とする)、舟形部分に「天正十二年甲(1584)/キリーク(阿弥陀如来を表す梵字) 大乗妙典三千部供養/三月廿六日仙眼□□」、方形部分に「天正十二年/南無阿弥陀佛/四月八日/西念 道円/西条 西入/道味」、磨崖五輪塔。 豊臣方の落ち武者が五人処刑されたから「五人切り」と呼ばれるようになったという伝承があるそうですが、秀吉が関白になったのが天正十三(1585)年ですから、年代が合いません。
奈良市(東エリア) 光明寺の南には、近隣の石造物がたくさん集められています。
光明寺の南には、近隣の石造物がたくさん集められています。
奈良市(東エリア) 阿弥陀石仏(享禄二(1529)年)。「享禄二年己丑四月十五日」。
阿弥陀石仏(享禄二(1529)年)。「享禄二年己丑四月十五日」。
奈良市(東エリア) 光明寺の境内にある石造物。
光明寺の境内にある石造物。
奈良市(東エリア) 六観音像。右から、如意輪、十一面、不空羂索、聖、馬頭、准胝観音。(江戸)
六観音像。右から、如意輪、十一面、不空羂索、聖、馬頭、准胝観音。(江戸)
奈良市(東エリア) 真ん中の坂道を登ります。
真ん中の坂道を登ります。
奈良市(東エリア) 坂道の登り口右側に、あたご坂地蔵(室町)があります。像の下に「堯観」と彫られています。
坂道の登り口右側に、あたご坂地蔵(室町)があります。像の下に「堯観」と彫られています。
奈良市(東エリア) 「奈良県史 第七巻 石造美術」296ページによると、この十三重塔は福岡越前守藤原助宣と令室の供養塔で、福岡家代々の菩提寺であった吉水寺の塔だったとのことです。相輪は折損して補修されています。基壇一面に「天文七年(1538)戌戊/二親/善昌妙業/道観妙阿/卯月三日」。

前回来たときにはなかった「上狭川城趾」の案内板があったので行ってみることにしました。
「奈良県史 第七巻 石造美術」296ページによると、この十三重塔は福岡越前守藤原助宣と令室の供養塔で、福岡家代々の菩提寺であった吉水寺の塔だったとのことです。相輪は折損して補修されています。基壇一面に「天文七年(1538)戌戊/二親/善昌妙業/道観妙阿/卯月三日」。 前回来たときにはなかった「上狭川城趾」の案内板があったので行ってみることにしました。
奈良市(東エリア) 道標を頼りにきれいに整備された山道を歩いていくと、上狭川城(福智城)趾にたどり着きました。
道標を頼りにきれいに整備された山道を歩いていくと、上狭川城(福智城)趾にたどり着きました。
奈良市(東エリア) 春風亭昇太師匠のブログに、春風亭昇太師匠が千田嘉博先生の案内で上狭川城を訪れたときの記事がありました。縄張り図もあります。
http://shunputeishota.com/2012/03/entry-140/

現地は縄張り図の通りで、素人目にも土塁と空堀がはっきりとわかりました。山城だった頃の様子が想像されて、おもしろいです。
春風亭昇太師匠のブログに、春風亭昇太師匠が千田嘉博先生の案内で上狭川城を訪れたときの記事がありました。縄張り図もあります。 http://shunputeishota.com/2012/03/entry-140/ 現地は縄張り図の通りで、素人目にも土塁と空堀がはっきりとわかりました。山城だった頃の様子が想像されて、おもしろいです。
奈良市(東エリア) 上狭川城趾の北端にある行者堂。中に役行者像が収められていました。
上狭川城趾の北端にある行者堂。中に役行者像が収められていました。
奈良市(東エリア) 子安地蔵堂。地蔵菩薩像(天文8(1539)年)。「奈良県史 第七巻 石造美術」295ページによると「奉造立逆修□/(梵字:キリーク)/天文八年己亥六月廿四日□」とあり、下方に法名が多数刻まれているとのことです。

お堂の右かたわらに江戸時代の十九夜講碑があります。
子安地蔵堂。地蔵菩薩像(天文8(1539)年)。「奈良県史 第七巻 石造美術」295ページによると「奉造立逆修□/(梵字:キリーク)/天文八年己亥六月廿四日□」とあり、下方に法名が多数刻まれているとのことです。 お堂の右かたわらに江戸時代の十九夜講碑があります。
奈良市(東エリア) 奥城戸小堂。地蔵菩薩像(室町)。如意輪観音像(天明5(1785)年)。「十九夜/天下和順/日月清明/天明五巳年(1785)/二月十九日」
奥城戸小堂。地蔵菩薩像(室町)。如意輪観音像(天明5(1785)年)。「十九夜/天下和順/日月清明/天明五巳年(1785)/二月十九日」
奈良市(東エリア) 阿弥陀石仏(室町)。下狭川城の馬場跡と言われる場所の入り口付近右側にあります。
阿弥陀石仏(室町)。下狭川城の馬場跡と言われる場所の入り口付近右側にあります。
奈良市(東エリア) 下狭川城の馬場跡と言われる場所。この奥に狭川家の金剛院墓地があります。
下狭川城の馬場跡と言われる場所。この奥に狭川家の金剛院墓地があります。
奈良市(東エリア) 新しいお墓がありました。右側のお墓には狭川明俊師のお名前が刻まれていました。狭川明俊師は、現東大寺別当狹川普文猊下の祖父にあたる方で、東大寺の第201代別当を勤められました。

このあと中墓寺で御住職から伺ったお話によると、明俊師は、下狭川城趾にあったお屋敷から、東大寺まで通っておられたそうです。それもあって、自分のお墓はお屋敷のそばにある狭川家の墓所に作ってほしいと希望されていたのだとか。
新しいお墓がありました。右側のお墓には狭川明俊師のお名前が刻まれていました。狭川明俊師は、現東大寺別当狹川普文猊下の祖父にあたる方で、東大寺の第201代別当を勤められました。 このあと中墓寺で御住職から伺ったお話によると、明俊師は、下狭川城趾にあったお屋敷から、東大寺まで通っておられたそうです。それもあって、自分のお墓はお屋敷のそばにある狭川家の墓所に作ってほしいと希望されていたのだとか。
奈良市(東エリア) 左(南)へ行くと柳生へ抜けられたそうですが、今は途中から藪漕ぎ状態だそうです。右(北)にも道があり、下狭川城趾を通り抜けて、中墓寺へ通じています。
左(南)へ行くと柳生へ抜けられたそうですが、今は途中から藪漕ぎ状態だそうです。右(北)にも道があり、下狭川城趾を通り抜けて、中墓寺へ通じています。
奈良市(東エリア) 笹藪が薄くなっているあたりを突き抜けて、竹藪の中の道を行きます。
笹藪が薄くなっているあたりを突き抜けて、竹藪の中の道を行きます。
奈良市(東エリア) 道の入り口付近はかなり荒れていました。ただ、荒れているのは数十メートルほどです。その先は歩きやすい山道でした。
道の入り口付近はかなり荒れていました。ただ、荒れているのは数十メートルほどです。その先は歩きやすい山道でした。
奈良市(東エリア) 狭川家のお屋敷があった場所に、狭川家元祖四百年忌にあたる昭和11年に建立された記念碑がありました。
狭川家のお屋敷があった場所に、狭川家元祖四百年忌にあたる昭和11年に建立された記念碑がありました。
奈良市(東エリア) お屋敷跡の出口付近もひどい荒れようでした。ただ荒れているのはやはり数十メートルだけです。
お屋敷跡の出口付近もひどい荒れようでした。ただ荒れているのはやはり数十メートルだけです。
奈良市(東エリア) 箱根山墓地の六地蔵(江戸)。
箱根山墓地の六地蔵(江戸)。
奈良市(東エリア) 箱根山墓地の阿弥陀石仏(室町)。
箱根山墓地の阿弥陀石仏(室町)。
奈良市(東エリア) 小さな石仏が墓地の土留めに再利用されていました。
小さな石仏が墓地の土留めに再利用されていました。
奈良市(東エリア) 中墓寺の石仏。中墓寺にもたくさんの石仏が集められています。

中墓寺は明治初年に廃された勝福寺の跡に、明治5(1872)年再建されました。そのため、中墓寺にある石仏は勝福寺ゆかりのものが多いとされます。
中墓寺の石仏。中墓寺にもたくさんの石仏が集められています。 中墓寺は明治初年に廃された勝福寺の跡に、明治5(1872)年再建されました。そのため、中墓寺にある石仏は勝福寺ゆかりのものが多いとされます。
奈良市(東エリア) 中墓寺収蔵庫に安置された定印の阿弥陀如来坐像(平安)。
中墓寺収蔵庫に安置された定印の阿弥陀如来坐像(平安)。
奈良市(東エリア) 「奈良市史 社寺編」713ページによると、現在の中墓寺は明治五年(1872)九月、下狭川の大念寺・西念寺の両寺を廃すと同時に、もと勝福寺跡だった現在地に堂を修復したうえで、狭川東町にあった中墓寺をこの地に移したものだそうです。

本尊は大念寺の阿弥陀如来立像と西念寺の阿弥陀如来坐像で、収蔵庫には、平安時代に造られた薬師如来坐像と阿弥陀如来像二体のほか、日光月光菩薩が安置されています。

今日はたまたまご住所が外におられたので、ダメもとでお願いしてみたところ、快く収蔵庫を開けてくださいました。

ただ、ご住職がお寺におられないことも多いそうで、収蔵庫の中を必ず拝観したい場合は、事前に電話予約をしてほしいとのことでした。
「奈良市史 社寺編」713ページによると、現在の中墓寺は明治五年(1872)九月、下狭川の大念寺・西念寺の両寺を廃すと同時に、もと勝福寺跡だった現在地に堂を修復したうえで、狭川東町にあった中墓寺をこの地に移したものだそうです。 本尊は大念寺の阿弥陀如来立像と西念寺の阿弥陀如来坐像で、収蔵庫には、平安時代に造られた薬師如来坐像と阿弥陀如来像二体のほか、日光月光菩薩が安置されています。 今日はたまたまご住所が外におられたので、ダメもとでお願いしてみたところ、快く収蔵庫を開けてくださいました。 ただ、ご住職がお寺におられないことも多いそうで、収蔵庫の中を必ず拝観したい場合は、事前に電話予約をしてほしいとのことでした。
奈良市(東エリア) 中墓寺収蔵庫に安置された上品下生の阿弥陀如来坐像(平安)。

これらの平安仏は、元は隋願寺など、当尾の寺にあったものとも言われます。
中墓寺収蔵庫に安置された上品下生の阿弥陀如来坐像(平安)。 これらの平安仏は、元は隋願寺など、当尾の寺にあったものとも言われます。
奈良市(東エリア) 奈良市教育委員会の報告書「奈良市の文化財調査中間報告〜石造物、わらべ歌、伝説」(昭和52年3月31日)に、下狭川町田辺森の伝説として次のようなお話が収録されています。

静海坊さんの石像

 子供達が川遊びに行くと、真っ先に川岸にある大きな石の像にじゃぶじゃぶと水をかけるという静海坊さんの石像のお話です。
 昔下狭川町の中墓寺のある所に、松尾山勝福寺という寺がありました。この寺は笠置寺の末寺であったということですが、ここに静海坊というたいそう偉いお坊さんが住んでおられました。寺の下を流れる白砂川は水がきれいでとても眺めがよく、近くの子供達がよく泳ぎに行きましたが、時々溺れて亡くなる子があって、親達を悲しませました。
 静海坊さんはこれを大変悲しまれたのでしょうか。いつの頃からか子供達が川遊びを始めだすと河岸の上に腰をおろし、泳いでいる子供達をじっと見守っていられるようになりました。もし溺れかける子供があると、直ぐに飛び込んで助けあげようと思っていられたのでしょう。
 子供達がすぐ川へ飛び込もうとすると、
 「これこれ急いじゃいけないよ。手足をしっかり動かして、からだに水をじゃぶじゃぶかけて、ついでにわしにも水をかけて、……」
と、いわれるので子供達は自然に軽い運動をし、静海坊さんにも盛んに水をかけてから入るようになりましたので、その後は溺れて亡くなる子もありませんでした。親達もそれからは安心して子供を川遊びにやれるようになりました。
 泳ぎつかれた子供達が川岸で休憩していますと、静海坊さんはよく面白い昔話をしてくれました。話し終わって
 「さあもう帰るんだよ。」
 「もっともっと。」
 「次はあした。」
と、言われると子供達は、
 「お坊さん有難う。さようなら。」
と、皆にこにこ元気で家に帰っていきました。
 こうして子供達に大変親しまれていた静海坊さんも、だんだん年をとってきました。自分が亡くなった後子供達を誰が見守ってくれるだろうかと、心配になって来たのでしょうか。坊さんは自分の手で川岸の岩に大きな像を彫り始めました。子供達は、
 「お地蔵さんだ」「いや仏さんだ」等とさわいでいましたが出来上がって来ると静海坊さんそっくりだったので、本当に驚きました。
 彫り上がった日、お坊さんは大変嬉しそうでしたが、だいぶつかれていられるようでした。
 「この仏さんは私の身代りだよ。みんなのお友達にしてあげておくれよ。」
と、子供達におっしゃって寺へ戻られましたが、それから間もなく亡くなってしまわれました。お坊さんはきっと自分が亡くなってもここで子供達を見守っていようと願われ、またきれいな白砂川の流れが、石像への手向けの水になることを願っていられたのでしょう。
 また夏が来て子供達は川へ泳ぎにやって来ました。静海坊さんの石像は強い日光に照りつけられて火のように熱くなっていました。そのとき誰かが、
 「これこれ急いじゃいけないよ、……」と歌い出すと、皆静海坊さんのいつもの歌を思い出し歌いながら手足の運動をして、静海坊さんの像にも盛んに水をかけました。こんなことが習慣になってしまって、自然に準備運動ができていたのでしょうか。静海坊さんの石像が守っていて下さったのでしょうか。この川ではその後永く水の事故が起こらなかったということです。

この近くに高城商店があり、自販機もあるので、飲み物や食べ物を調達できます。高城商店以外に近隣にお店も自販機もありません。
奈良市教育委員会の報告書「奈良市の文化財調査中間報告〜石造物、わらべ歌、伝説」(昭和52年3月31日)に、下狭川町田辺森の伝説として次のようなお話が収録されています。 静海坊さんの石像  子供達が川遊びに行くと、真っ先に川岸にある大きな石の像にじゃぶじゃぶと水をかけるという静海坊さんの石像のお話です。  昔下狭川町の中墓寺のある所に、松尾山勝福寺という寺がありました。この寺は笠置寺の末寺であったということですが、ここに静海坊というたいそう偉いお坊さんが住んでおられました。寺の下を流れる白砂川は水がきれいでとても眺めがよく、近くの子供達がよく泳ぎに行きましたが、時々溺れて亡くなる子があって、親達を悲しませました。  静海坊さんはこれを大変悲しまれたのでしょうか。いつの頃からか子供達が川遊びを始めだすと河岸の上に腰をおろし、泳いでいる子供達をじっと見守っていられるようになりました。もし溺れかける子供があると、直ぐに飛び込んで助けあげようと思っていられたのでしょう。  子供達がすぐ川へ飛び込もうとすると、  「これこれ急いじゃいけないよ。手足をしっかり動かして、からだに水をじゃぶじゃぶかけて、ついでにわしにも水をかけて、……」 と、いわれるので子供達は自然に軽い運動をし、静海坊さんにも盛んに水をかけてから入るようになりましたので、その後は溺れて亡くなる子もありませんでした。親達もそれからは安心して子供を川遊びにやれるようになりました。  泳ぎつかれた子供達が川岸で休憩していますと、静海坊さんはよく面白い昔話をしてくれました。話し終わって  「さあもう帰るんだよ。」  「もっともっと。」  「次はあした。」 と、言われると子供達は、  「お坊さん有難う。さようなら。」 と、皆にこにこ元気で家に帰っていきました。  こうして子供達に大変親しまれていた静海坊さんも、だんだん年をとってきました。自分が亡くなった後子供達を誰が見守ってくれるだろうかと、心配になって来たのでしょうか。坊さんは自分の手で川岸の岩に大きな像を彫り始めました。子供達は、  「お地蔵さんだ」「いや仏さんだ」等とさわいでいましたが出来上がって来ると静海坊さんそっくりだったので、本当に驚きました。  彫り上がった日、お坊さんは大変嬉しそうでしたが、だいぶつかれていられるようでした。  「この仏さんは私の身代りだよ。みんなのお友達にしてあげておくれよ。」 と、子供達におっしゃって寺へ戻られましたが、それから間もなく亡くなってしまわれました。お坊さんはきっと自分が亡くなってもここで子供達を見守っていようと願われ、またきれいな白砂川の流れが、石像への手向けの水になることを願っていられたのでしょう。  また夏が来て子供達は川へ泳ぎにやって来ました。静海坊さんの石像は強い日光に照りつけられて火のように熱くなっていました。そのとき誰かが、  「これこれ急いじゃいけないよ、……」と歌い出すと、皆静海坊さんのいつもの歌を思い出し歌いながら手足の運動をして、静海坊さんの像にも盛んに水をかけました。こんなことが習慣になってしまって、自然に準備運動ができていたのでしょうか。静海坊さんの石像が守っていて下さったのでしょうか。この川ではその後永く水の事故が起こらなかったということです。 この近くに高城商店があり、自販機もあるので、飲み物や食べ物を調達できます。高城商店以外に近隣にお店も自販機もありません。
奈良市(東エリア) 田部神社。社殿とは別に、磐座の上にもしめ縄が飾られていました。この大岩自体が御神体なのではないかと思います。
田部神社。社殿とは別に、磐座の上にもしめ縄が飾られていました。この大岩自体が御神体なのではないかと思います。
奈良市(東エリア) 田部神社にあった灯籠に興味深い銘文がありました。「太守様城和」と読めます。藤堂藩は大和国の一部と山城国の一部をその領地としていました。これを「城和領」と言います。

「城和領」は、元和三(1617)年に加増された南勢田丸城付五万石の替地でした。元和五(1619)年徳川頼宣の和歌山転封に伴って伊勢国の多くが紀州領とされたため、山城・大和のうちで五万石が与えられたのです。
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail.asp?record=128

また江戸時代、領地が一国以上である大名のことを太守と言いました。

つまりこの銘文は、藤堂藩の藩主と何らかの関係がありそうです。
田部神社にあった灯籠に興味深い銘文がありました。「太守様城和」と読めます。藤堂藩は大和国の一部と山城国の一部をその領地としていました。これを「城和領」と言います。 「城和領」は、元和三(1617)年に加増された南勢田丸城付五万石の替地でした。元和五(1619)年徳川頼宣の和歌山転封に伴って伊勢国の多くが紀州領とされたため、山城・大和のうちで五万石が与えられたのです。 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail.asp?record=128 また江戸時代、領地が一国以上である大名のことを太守と言いました。 つまりこの銘文は、藤堂藩の藩主と何らかの関係がありそうです。
奈良市(東エリア) 下狭川磨崖仏。「奈良県史 第七巻 石造美術」297ページによると、三体彫られた磨崖仏のうち中央の阿弥陀如来像の左右に「天文八年(1539) 己亥 二月十五日 与三郎」と刻まれているそうです。阿弥陀如来像の左右は地蔵菩薩像です。

この磨崖仏は、街道が集落のある谷あいの平地から、川沿いの道へ入るところにあります。道の保全と道中の安全を願ったものでしょうか。

磨崖仏の周囲には地蔵菩薩像や舟形五輪塔などがちらばっています。左上の岩には小さな六地蔵も彫られています。
下狭川磨崖仏。「奈良県史 第七巻 石造美術」297ページによると、三体彫られた磨崖仏のうち中央の阿弥陀如来像の左右に「天文八年(1539) 己亥 二月十五日 与三郎」と刻まれているそうです。阿弥陀如来像の左右は地蔵菩薩像です。 この磨崖仏は、街道が集落のある谷あいの平地から、川沿いの道へ入るところにあります。道の保全と道中の安全を願ったものでしょうか。 磨崖仏の周囲には地蔵菩薩像や舟形五輪塔などがちらばっています。左上の岩には小さな六地蔵も彫られています。
奈良市(東エリア) こうもり博物館。土日に不定期開館しているそうです。
http://www.abri.or.jp
こうもり博物館。土日に不定期開館しているそうです。 http://www.abri.or.jp
奈良市(東エリア) こうもり博物館前にはこんな標識が。
こうもり博物館前にはこんな標識が。
奈良市(東エリア) 林道から笠置山を望む。左の大きな岩は笠置寺の貝吹き岩だと思います。
林道から笠置山を望む。左の大きな岩は笠置寺の貝吹き岩だと思います。
奈良市(東エリア) ここから山道になっていました。この直前に携帯電話の電波塔がありました。山道の途中にも送電線の鉄塔があり、そうしたインフラのメンテナンスのために、山道が整備されているのではないかと思います。

今回はこの山道を歩いてみるのも目的の一つでした。木津川南岸の山の中に、加茂と笠置を結ぶ道があるとは知りませんでした。
ここから山道になっていました。この直前に携帯電話の電波塔がありました。山道の途中にも送電線の鉄塔があり、そうしたインフラのメンテナンスのために、山道が整備されているのではないかと思います。 今回はこの山道を歩いてみるのも目的の一つでした。木津川南岸の山の中に、加茂と笠置を結ぶ道があるとは知りませんでした。
奈良市(東エリア) 山道を抜けると茶畑でした。
山道を抜けると茶畑でした。
奈良市(東エリア) 御霊神社にある寛延4(1751)年に日賢が本堂を改修したときの記念碑。ここにも、「伊賀之太守御武運長久國家安全五穀豊穣」などとあり、藤堂藩の支援があったことが窺えます。
御霊神社にある寛延4(1751)年に日賢が本堂を改修したときの記念碑。ここにも、「伊賀之太守御武運長久國家安全五穀豊穣」などとあり、藤堂藩の支援があったことが窺えます。
奈良市(東エリア) 御霊神社は、元は燈明寺の鎮守社として奈良の氷室神社の古社殿を移築したと伝えられているそうです。南北朝時代に創建された三間社流れ造りの檜皮葺で、重要文化財に指定されています。
御霊神社は、元は燈明寺の鎮守社として奈良の氷室神社の古社殿を移築したと伝えられているそうです。南北朝時代に創建された三間社流れ造りの檜皮葺で、重要文化財に指定されています。
奈良市(東エリア) 平成になって再建された御霊神社の一の鳥居。大坂の書林河内屋から天明7年(1787)秋に板行された「拾遺都名所圖會」に、加茂東明寺の絵図が掲載されていますが、現在加茂駅近くにある一の鳥居も描かれています。
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_911.html
平成になって再建された御霊神社の一の鳥居。大坂の書林河内屋から天明7年(1787)秋に板行された「拾遺都名所圖會」に、加茂東明寺の絵図が掲載されていますが、現在加茂駅近くにある一の鳥居も描かれています。 https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_911.html

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