浄瑠璃寺〜中川寺跡探検

2021.02.05(金) 日帰り

活動データ

タイム

02:34

距離

7.2km

上り

415m

下り

525m

活動詳細

もっと見る

浄瑠璃寺奥之院から、奥之院の少し北にある赤田川の支流を遡って、中川寺跡まで歩いてみました。 奥之院の下流に砂防ダムができる前は、赤田川が盆地に出て、川の流れが緩やかになったあたりにある、川の曲がり角あたりに、上流から流れてきた古い陶器片などが埋もれていることがよくあったそうです。地元の方によれば、今でもその辺りを掘ると、古い陶器片が出るだろうとのことでした。 なぜそういうことがあるかと言えば、赤田川の上流には、中世、中川寺のほか、鳴川山寺という大きなお寺があったので、その遺物が大雨などで時折下流まで流されるということのようです。 そこで、中川寺跡のある谷から流れてくる赤田川の支流を遡れば、川の周辺に何か中川寺由来の遺物が落ちているかもしれないと考えたわけです。 また、護摩石近くにある鳴谷阿弥陀が、中川寺寺域の北端を示すために彫られたものだとすると、この支流沿いにも同じような磨崖仏がある、かもしれません。 ↓鳴谷阿弥陀磨崖仏を訪ねた時の活動日記 https://yamap.com/activities/9455360 結論から言うと何もみつかりませんでした。 たとえ何かあっても、上からざっと眺めているだけでは見つかるわけないですね。 奥之院からしばらくは、大岩がゴロゴロしていて、谷合の渓流らしい風情がとてもいい感じでした。 中川寺跡を一周したのは、久しぶりです。 時々倒木があると地面が掘り返されて、それまでになかったものが地表に出てくることがあります。 それを期待したのですが、特に新しい発見はありませんでした。 ちなみに今回のルートには、小川の中を歩いたり、藪漕ぎをして進んだ場所もあります。

 中川寺跡には布目瓦も落ちています。ただ、一応私有地(大阪の不動産会社が持っている塩漬けの山林=地元の人が怒ることはないです)なので、遺物を見つけた場合は、写真と場所を記録して、元の場所に置いておいた方が良いです。
中川寺跡には布目瓦も落ちています。ただ、一応私有地(大阪の不動産会社が持っている塩漬けの山林=地元の人が怒ることはないです)なので、遺物を見つけた場合は、写真と場所を記録して、元の場所に置いておいた方が良いです。
 浄瑠璃寺本堂中央部分の壁や天井を修理する工事が始まっていました。今日は足場を組む作業のみで、今後6月ごろにかけて、劣化している部分を補修するそうです。本堂中央に遷座されている大日如来さんの上に足場が組まれていました。確かにこれは御本尊さんがおられない間でないとできないですね。
浄瑠璃寺本堂中央部分の壁や天井を修理する工事が始まっていました。今日は足場を組む作業のみで、今後6月ごろにかけて、劣化している部分を補修するそうです。本堂中央に遷座されている大日如来さんの上に足場が組まれていました。確かにこれは御本尊さんがおられない間でないとできないですね。
 せっかくなので本堂を拝観してきました。中に入ると大日如来さんにライトが当たっていました。あんなに明るいところで大日如来さんを見たのは初めてです。でもライトは作業に必要な時だけだそうです。修理中のお寺もなかなか見られないものが見られておもしろいです。
せっかくなので本堂を拝観してきました。中に入ると大日如来さんにライトが当たっていました。あんなに明るいところで大日如来さんを見たのは初めてです。でもライトは作業に必要な時だけだそうです。修理中のお寺もなかなか見られないものが見られておもしろいです。
 珍しく裏口が開いてました。
珍しく裏口が開いてました。
 奥之院から赤田川の支流を遡りました。
奥之院から赤田川の支流を遡りました。
 渓流感があります。
渓流感があります。
 奥之院からしばらくは大きな岩がゴロゴロしていました。
奥之院からしばらくは大きな岩がゴロゴロしていました。
 意外と下流の方まで耕作地があったようです。放棄されたのは5、60年ほど前でしょうか。
意外と下流の方まで耕作地があったようです。放棄されたのは5、60年ほど前でしょうか。
 石垣で護岸されていますが、中川寺由来と思しき石は落ちていませんでした。
石垣で護岸されていますが、中川寺由来と思しき石は落ちていませんでした。
 宝篋印塔の残欠などが散らばっているのは、中川寺跡がある谷にある石橋付近だけでした。
宝篋印塔の残欠などが散らばっているのは、中川寺跡がある谷にある石橋付近だけでした。
 宝篋印塔を土留めの石として再利用したものが、大雨で崩れたのだと思います。
宝篋印塔を土留めの石として再利用したものが、大雨で崩れたのだと思います。
 中川寺跡西側最北の平坦地。
中川寺跡西側最北の平坦地。
 平坦になっています。
平坦になっています。
 中川寺跡中心部西側の平坦地。
中川寺跡中心部西側の平坦地。
 真っ直ぐな坂道が尾根筋まで伸びています。
真っ直ぐな坂道が尾根筋まで伸びています。
 古そうな陶片は割とあちこちに落ちています。ただ、これがいつ頃の何なのかはわかりません。
古そうな陶片は割とあちこちに落ちています。ただ、これがいつ頃の何なのかはわかりません。
 五輪塔の水輪部。ほぼ真上にある中ノ川町共同墓地から転げ落ちたものかもしれません。
五輪塔の水輪部。ほぼ真上にある中ノ川町共同墓地から転げ落ちたものかもしれません。
 中川寺跡西側の平坦地。
中川寺跡西側の平坦地。
 古い道から見下ろしたところにも平坦地が作られています。
古い道から見下ろしたところにも平坦地が作られています。
 実範上人御廟塔の供物台の下にある箱には、中川寺跡のリーフレットが入っています。
実範上人御廟塔の供物台の下にある箱には、中川寺跡のリーフレットが入っています。
 東大寺の僧侶で仏教学者の故堀池春峰師が、中川寺のいずれかの塔頭の礎石かもしれないと指摘した実範上人御廟塔脇の平らな石。
東大寺の僧侶で仏教学者の故堀池春峰師が、中川寺のいずれかの塔頭の礎石かもしれないと指摘した実範上人御廟塔脇の平らな石。
 実範上人御廟塔。実範は、寛治3年(1089年)ごろ、藤原実頼の末流、藤原顕実の第四子として生まれ、興福寺で法相を、醍醐寺で真言を、比叡山横川で天台を学び、広く諸宗に出入りして研鑽に励みました。はじめ忍辱山円成寺にいましたが、仏に供える花を探して中ノ川に入ったとき、そこをただならぬ場所だと感じたため、天永3年(1112年)ごろ、中ノ川の地に、法相、真言、天台の道場として中川寺を開きました。また戒律の復興に勤め、唐招提寺を再興し、東大寺戒壇院受戒式を定めました。晩年は浄土教へも深い関心を寄せ光明山寺に移り、天養元年(1144年)9月10日入寂しました。実範は日本浄土教高祖6人の一人にも数えられています。写真は実範上人の御廟塔と伝わる五輪塔です。
実範上人御廟塔。実範は、寛治3年(1089年)ごろ、藤原実頼の末流、藤原顕実の第四子として生まれ、興福寺で法相を、醍醐寺で真言を、比叡山横川で天台を学び、広く諸宗に出入りして研鑽に励みました。はじめ忍辱山円成寺にいましたが、仏に供える花を探して中ノ川に入ったとき、そこをただならぬ場所だと感じたため、天永3年(1112年)ごろ、中ノ川の地に、法相、真言、天台の道場として中川寺を開きました。また戒律の復興に勤め、唐招提寺を再興し、東大寺戒壇院受戒式を定めました。晩年は浄土教へも深い関心を寄せ光明山寺に移り、天養元年(1144年)9月10日入寂しました。実範は日本浄土教高祖6人の一人にも数えられています。写真は実範上人の御廟塔と伝わる五輪塔です。
 中川寺跡中心部東側のスロープ。
中川寺跡中心部東側のスロープ。
 谷底から真っ直ぐ東に坂道が作られています。
谷底から真っ直ぐ東に坂道が作られています。
 坂道は上の段まで伸びています。
坂道は上の段まで伸びています。
 個人的に本堂跡ではないかと思っている平坦地。
https://mirokunomichi.org/voyages/2016061800/1.shtml#a010105
個人的に本堂跡ではないかと思っている平坦地。 https://mirokunomichi.org/voyages/2016061800/1.shtml#a010105

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。