森八幡~千日墓地~岩船寺~浄瑠璃寺~牛塚~般若寺

2021.01.01(金) 日帰り

活動データ

タイム

07:24

距離

21.7km

のぼり

1111m

くだり

1108m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
7 時間 24
休憩時間
23
距離
21.7 km
のぼり / くだり
1111 / 1108 m
7 25

活動詳細

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初詣です。 ヤマレコ版はこちら。 https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2835114.html ツイッター版はこちら。 https://twitter.com/mirokunomichi/status/1345279699082100736

 森八幡の神様が夕涼みをするという「涼み岩」。
森八幡の神様が夕涼みをするという「涼み岩」。
 森八幡の神宮寺だった神福寺跡にある笠塔婆(鎌倉後期)。
森八幡の神宮寺だった神福寺跡にある笠塔婆(鎌倉後期)。
 伝説の力持ちずんど坊が杖代わりにしたという岩「ずんど坊の杖」。でも杖には見えないです。
伝説の力持ちずんど坊が杖代わりにしたという岩「ずんど坊の杖」。でも杖には見えないです。
 森八幡のお正月のお供え。本殿とは別に、本殿背後の磐座にお供えが用意されます。
森八幡のお正月のお供え。本殿とは別に、本殿背後の磐座にお供えが用意されます。
 森八幡の後ろは大きな岩が積み重なっています。
森八幡の後ろは大きな岩が積み重なっています。
 不動明王・毘沙門天線彫磨崖仏の前にもお供え。不動明王像。
不動明王・毘沙門天線彫磨崖仏の前にもお供え。不動明王像。
 左:不動明王「松童之本地/于時正中三年丙寅三月十八日/勧進十方檀那奉造立之願主仏子佮阿」。右:毘沙門天「武内之本地」(1326)
左:不動明王「松童之本地/于時正中三年丙寅三月十八日/勧進十方檀那奉造立之願主仏子佮阿」。右:毘沙門天「武内之本地」(1326)
 毘沙門天像
毘沙門天像
 高去集会所六字名号板碑。16世紀。
高去集会所六字名号板碑。16世紀。
 入り口に、一説に鎌倉期とも言われる石鳥居のある千日墓地。
入り口に、一説に鎌倉期とも言われる石鳥居のある千日墓地。
 当尾最大の千日墓地双仏石(南北朝)。
当尾最大の千日墓地双仏石(南北朝)。
 台座に四角いほぞ穴があります。
台座に四角いほぞ穴があります。
 笠石にもほぞ穴があり、当初は石扉があったと考えられています。
笠石にもほぞ穴があり、当初は石扉があったと考えられています。
 穴薬師。
穴薬師。
 中には確かに薬師如来様が(鎌倉)。
中には確かに薬師如来様が(鎌倉)。
 庚申堂(岩船地蔵石龕仏/南北朝)。
庚申堂(岩船地蔵石龕仏/南北朝)。
 岩船観音寺跡。
岩船観音寺跡。
 行者の背(役行者像/江戸)。行者の背と呼ばれるこの山の上は、曲輪状に人工的に平たく整地されており、中世岩船寺の見張り台だったと考えられています。岩船寺は山伏の寺だったため、行者が詰めているので、行者の背と呼ばれるようになったのかもしれません。
行者の背(役行者像/江戸)。行者の背と呼ばれるこの山の上は、曲輪状に人工的に平たく整地されており、中世岩船寺の見張り台だったと考えられています。岩船寺は山伏の寺だったため、行者が詰めているので、行者の背と呼ばれるようになったのかもしれません。
 岩船寺山門。
岩船寺山門。
 池が少し凍っていました。
池が少し凍っていました。
 貝吹き岩からの眺め。かなり遠くまで見えます。
貝吹き岩からの眺め。かなり遠くまで見えます。
 岩船寺十三重石塔(鎌倉中期)。
岩船寺十三重石塔(鎌倉中期)。
 岩船寺の元鎮守だった白山神社・春日神社。白山神社(室町・重文)の修理が始まっていました。
岩船寺の元鎮守だった白山神社・春日神社。白山神社(室町・重文)の修理が始まっていました。
 三体地蔵(鎌倉末期)。六地蔵の前の形式で、過去・現在・未来の地蔵を表すとも言われます。滝坂の道などにも同様の地蔵石仏があります。
三体地蔵(鎌倉末期)。六地蔵の前の形式で、過去・現在・未来の地蔵を表すとも言われます。滝坂の道などにも同様の地蔵石仏があります。
 みろくの辻弥勒磨崖仏(1274)。笠置山の弥勒石を模したとされ、菩薩ではなく如来として彫られています。奈良から笠置山へ向かう弥勒信仰巡礼路のちょうど中間点に位置し、ここから笠置へはほぼ下りのみです。なくなった父親が弥勒菩薩のいる兜率天へ往生することを願い、永清という人が、石大工の伊(猪)末行に作らせた弥勒磨崖仏です。「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道/文永十一年甲戌二月五日/為慈父上生永清造之大工末行」
みろくの辻弥勒磨崖仏(1274)。笠置山の弥勒石を模したとされ、菩薩ではなく如来として彫られています。奈良から笠置山へ向かう弥勒信仰巡礼路のちょうど中間点に位置し、ここから笠置へはほぼ下りのみです。なくなった父親が弥勒菩薩のいる兜率天へ往生することを願い、永清という人が、石大工の伊(猪)末行に作らせた弥勒磨崖仏です。「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道/文永十一年甲戌二月五日/為慈父上生永清造之大工末行」
 笑い仏(1299)。みろくの辻弥勒磨崖仏の作者でもある伊末行の作。「永仁七年二月十五日/願主岩船寺住僧??/大工末行」
笑い仏(1299)。みろくの辻弥勒磨崖仏の作者でもある伊末行の作。「永仁七年二月十五日/願主岩船寺住僧??/大工末行」
 笑い仏脇の地蔵坐像石仏(南北朝)。優美な作風から、伊末行の一世代下の伊派の石工行経の作とも言われます。、
笑い仏脇の地蔵坐像石仏(南北朝)。優美な作風から、伊末行の一世代下の伊派の石工行経の作とも言われます。、
 唐臼の壺。からうすのツボに似ていることからカラスのツボと呼ばれていますが、何かの礎石と思います。
唐臼の壺。からうすのツボに似ていることからカラスのツボと呼ばれていますが、何かの礎石と思います。
 内ノ倉不動明王のある谷。かつては水田でした。狭い谷の一番奥、北側の斜面に彫られています。
内ノ倉不動明王のある谷。かつては水田でした。狭い谷の一番奥、北側の斜面に彫られています。
 内ノ倉不動明王(1334/1/4)。「建武元年甲戌」
内ノ倉不動明王(1334/1/4)。「建武元年甲戌」
 ギョロリとしたお不動さんの目や手に持つ剣、背後の火炎などはなんとかわかります。右下に建武元年の字も見えます。
ギョロリとしたお不動さんの目や手に持つ剣、背後の火炎などはなんとかわかります。右下に建武元年の字も見えます。
 一鍬地蔵(鎌倉中期)。よく晴れた日の午前中、日が当たるともう少し像容がわかります。頭の輪郭や左目、円光光背、裾の模様などは、比較的わかりやすいです。
一鍬地蔵(鎌倉中期)。よく晴れた日の午前中、日が当たるともう少し像容がわかります。頭の輪郭や左目、円光光背、裾の模様などは、比較的わかりやすいです。
 道に面した大きな岩の上に彫られています。かつては上に屋根が付けられていました。像の両脇にある窪みに屋根を支える柱が立てられていたと考えられます。
道に面した大きな岩の上に彫られています。かつては上に屋根が付けられていました。像の両脇にある窪みに屋根を支える柱が立てられていたと考えられます。
 一鍬地蔵の両脇にある窪み。円形の浅い穴がありますが、柱を据え付けるためのほぞ穴と思います。
一鍬地蔵の両脇にある窪み。円形の浅い穴がありますが、柱を据え付けるためのほぞ穴と思います。
 剣豪荒木又右衛門も喉を潤したという水呑地蔵(鎌倉中期)。鎌倉時代にはこの辺りに浄瑠璃寺(西小田原山)の南大門があったとされます。しかしのちに火災で焼け落ちました。東小田原すなわち隋願寺の僧が造立したというのが興味深いです。ここにあった南大門は、東西小田原山の入り口という意識があったのかもしれません。「(願主)僧東小田原??院大工??」」
剣豪荒木又右衛門も喉を潤したという水呑地蔵(鎌倉中期)。鎌倉時代にはこの辺りに浄瑠璃寺(西小田原山)の南大門があったとされます。しかしのちに火災で焼け落ちました。東小田原すなわち隋願寺の僧が造立したというのが興味深いです。ここにあった南大門は、東西小田原山の入り口という意識があったのかもしれません。「(願主)僧東小田原??院大工??」」
 浄瑠璃寺中島弁天社。池が少し凍っていました。山蔭の方が池が凍りにくいのは、山側の数カ所に湧水があるためと思います。
浄瑠璃寺中島弁天社。池が少し凍っていました。山蔭の方が池が凍りにくいのは、山側の数カ所に湧水があるためと思います。
 浄瑠璃寺三重塔(国宝)。浄瑠璃寺流記事に、治承二(1178)年に京都一条大宮から移築したとあります。平安時代の京都にあった建物が戦火に焼かれることなく、そのまま今に残されたという点でも、貴重な建築です。
浄瑠璃寺三重塔(国宝)。浄瑠璃寺流記事に、治承二(1178)年に京都一条大宮から移築したとあります。平安時代の京都にあった建物が戦火に焼かれることなく、そのまま今に残されたという点でも、貴重な建築です。
 浄瑠璃寺奥之院。明治か大正の頃に造立された丸彫不動明王像が、昨年夏の落石で滝の中段から下に落ちてしまいました。秋に修復され、現在はその落石の上に鎮座されています。
浄瑠璃寺奥之院。明治か大正の頃に造立された丸彫不動明王像が、昨年夏の落石で滝の中段から下に落ちてしまいました。秋に修復され、現在はその落石の上に鎮座されています。
 滝の上の段に彫られた永仁四(1296)年の瑠璃不動磨崖仏。いつのことか、上半身部分が剥落し、下にずれ落ちています。上半身が彫られた岩の後ろに下半身部分があり、下半身の左わきに銘文があります。「永仁四年丙申二月四日願主僧祐乗」
滝の上の段に彫られた永仁四(1296)年の瑠璃不動磨崖仏。いつのことか、上半身部分が剥落し、下にずれ落ちています。上半身が彫られた岩の後ろに下半身部分があり、下半身の左わきに銘文があります。「永仁四年丙申二月四日願主僧祐乗」
 浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏の下半身部分。永仁四年と読めます。
浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏の下半身部分。永仁四年と読めます。
 実範上人御廟塔(鎌倉)。実範上人が開いた中川寺があったとされる谷にあります。中川寺跡は、御廟塔のある谷全体に広がっていると考えられます。御廟塔と伝わりますが、実範上人は天養元年(1144)に山城棚倉山光明山寺で入寂しましたので、年代が合いません。もしこの五輪塔が実範上人のお墓だとすると、後年ゆかりのある寺ということで分骨されたのでしょう。
実範上人御廟塔(鎌倉)。実範上人が開いた中川寺があったとされる谷にあります。中川寺跡は、御廟塔のある谷全体に広がっていると考えられます。御廟塔と伝わりますが、実範上人は天養元年(1144)に山城棚倉山光明山寺で入寂しましたので、年代が合いません。もしこの五輪塔が実範上人のお墓だとすると、後年ゆかりのある寺ということで分骨されたのでしょう。
 中川寺跡のある谷から流れ出る小川。護岸の土どめに石塔などが転用されていたところ、近年大雨で流されたのか、小川の中にそれらの残欠が散らばっています。
中川寺跡のある谷から流れ出る小川。護岸の土どめに石塔などが転用されていたところ、近年大雨で流されたのか、小川の中にそれらの残欠が散らばっています。
 小川に散らばる宝篋印塔の笠石など。
小川に散らばる宝篋印塔の笠石など。
 牛塚。南都焼き討ちからの復興の際、当尾の山中から多くの石材が切り出され、牛馬が過酷な荷役によってたくさん死んだと言います。この十三重石塔は、そうした牛を供養するために立てられたと伝わっています。十三重石塔脇にあるのは、伊勢参りの記念碑です(天照皇大神宮奉三十三度供養 敬白/元和二年中川村/丙辰八月六日・1616)。
牛塚。南都焼き討ちからの復興の際、当尾の山中から多くの石材が切り出され、牛馬が過酷な荷役によってたくさん死んだと言います。この十三重石塔は、そうした牛を供養するために立てられたと伝わっています。十三重石塔脇にあるのは、伊勢参りの記念碑です(天照皇大神宮奉三十三度供養 敬白/元和二年中川村/丙辰八月六日・1616)。
 首なし地蔵は室町期の作で、阿弥陀像とも地蔵とも言われます。像の下に別の像からの転用と見られる石の蓮台があります。1980年代まで江戸期に補われた地蔵頭部が首の上に載せられていましたが、今は行方知れずとなっています。地震などで転げ落ち、どこかに埋もれている可能性もあります。
首なし地蔵は室町期の作で、阿弥陀像とも地蔵とも言われます。像の下に別の像からの転用と見られる石の蓮台があります。1980年代まで江戸期に補われた地蔵頭部が首の上に載せられていましたが、今は行方知れずとなっています。地震などで転げ落ち、どこかに埋もれている可能性もあります。
 十三重石塔には金剛界の四方仏を表す種子が薬研彫で刻まれていますが、修復寺に反時計回りに90度ずれた形で固定されています(鎌倉時代)。
十三重石塔には金剛界の四方仏を表す種子が薬研彫で刻まれていますが、修復寺に反時計回りに90度ずれた形で固定されています(鎌倉時代)。
 般若寺は水仙の季節となっていました。いい匂いがします。
般若寺は水仙の季節となっていました。いい匂いがします。
 般若寺十三重石塔(1253)。みろくの辻弥勒磨崖仏・笑い仏の作者、伊末行の祖父とも考えられる、伊行末の代表作です。伊行末は宋から渡来し、陳和卿などととともに南都焼き討ちからの復興に力を尽くしました。現存する日本最古の石の狛犬とわれる南大門の石獅子、みろくの辻弥勒磨崖仏と同じく笠置山の弥勒石を模した大野寺弥勒磨崖仏、法華堂前の石灯籠なども伊行末が関わった作品です。
般若寺十三重石塔(1253)。みろくの辻弥勒磨崖仏・笑い仏の作者、伊末行の祖父とも考えられる、伊行末の代表作です。伊行末は宋から渡来し、陳和卿などととともに南都焼き討ちからの復興に力を尽くしました。現存する日本最古の石の狛犬とわれる南大門の石獅子、みろくの辻弥勒磨崖仏と同じく笠置山の弥勒石を模した大野寺弥勒磨崖仏、法華堂前の石灯籠なども伊行末が関わった作品です。
 般若寺の本堂脇には水仙を水に浮かべた可愛い器がいくつか並べられていました。
般若寺の本堂脇には水仙を水に浮かべた可愛い器がいくつか並べられていました。

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