「信玄棒道 +」 蓼科山(百名山)

2020.12.06(日) 日帰り

① スズラン峠登山口🚻→蓼科山 (ピストン) ② スズラン峠登山口→蓼科親湯温泉→竜源橋駐車場→ (ピストン、反時計周回) (長野県茅野市.立科町) ※ 7合目、大河原峠、通行止め要確認。 ※ ノーアイゼンでしたが積雪凍結に注意。 武田信玄が

武田信玄(当時名 晴信)は、甲斐国の国主となり 信州の一部にまで領土を広げていた。

武田信玄(当時名 晴信)は、甲斐国の国主となり 信州の一部にまで領土を広げていた。

武田信玄(当時名 晴信)は、甲斐国の国主となり 信州の一部にまで領土を広げていた。

1548年 上田原で 村上勢に 敗戦。

1548年 上田原で 村上勢に 敗戦。

1548年 上田原で 村上勢に 敗戦。

1550年 村上勢を倒すため、

1550年 村上勢を倒すため、

1550年 村上勢を倒すため、

甲斐と信濃を結ぶ 軍事用道路を作りはじめる。

甲斐と信濃を結ぶ 軍事用道路を作りはじめる。

甲斐と信濃を結ぶ 軍事用道路を作りはじめる。

兵を早急に送り込めるように 一直線の道に、

兵を早急に送り込めるように 一直線の道に、

兵を早急に送り込めるように 一直線の道に、

馬を休ませる牧場を所々に、

馬を休ませる牧場を所々に、

馬を休ませる牧場を所々に、

逆利用されないように屈曲させた道を何カ所かに、

逆利用されないように屈曲させた道を何カ所かに、

逆利用されないように屈曲させた道を何カ所かに、

のろし台や関所を要所に、

のろし台や関所を要所に、

のろし台や関所を要所に、

1552年 2年間で その道を 完成させた。

1552年 2年間で その道を 完成させた。

1552年 2年間で その道を 完成させた。

翌1553年 村上勢の 戸石城(現跡地 上田市) と 葛尾城(現跡地 板城町)を 攻め落とした。

翌1553年 村上勢の 戸石城(現跡地 上田市) と 葛尾城(現跡地 板城町)を 攻め落とした。

翌1553年 村上勢の 戸石城(現跡地 上田市) と 葛尾城(現跡地 板城町)を 攻め落とした。

その後、上杉謙信との 川中島の戦へと つづく...。

その後、上杉謙信との 川中島の戦へと つづく...。

その後、上杉謙信との 川中島の戦へと つづく...。

その道は 八ヶ岳南麓から西麓にかけて作られ、

その道は 八ヶ岳南麓から西麓にかけて作られ、

その道は 八ヶ岳南麓から西麓にかけて作られ、

荒野にまっすぐ1本棒のように存在していたので、

荒野にまっすぐ1本棒のように存在していたので、

荒野にまっすぐ1本棒のように存在していたので、

「棒道」 と 呼ばれるようになったとされています。

「棒道」 と 呼ばれるようになったとされています。

「棒道」 と 呼ばれるようになったとされています。

信玄棒道の一部は、前回歩いた 南八ヶ岳、甲斐小泉駅の付近にも残っていますが、

信玄棒道の一部は、前回歩いた 南八ヶ岳、甲斐小泉駅の付近にも残っていますが、

信玄棒道の一部は、前回歩いた 南八ヶ岳、甲斐小泉駅の付近にも残っていますが、

今回はここ、北八ヶ岳 蓼科山の麓にも存在していたことを知りました。
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今回はここ、北八ヶ岳 蓼科山の麓にも存在していたことを知りました。

今回はここ、北八ヶ岳 蓼科山の麓にも存在していたことを知りました。

武田信玄やその兵たちが、信州攻略のために 必死に作り 歩いた道を、

武田信玄やその兵たちが、信州攻略のために 必死に作り 歩いた道を、

武田信玄やその兵たちが、信州攻略のために 必死に作り 歩いた道を、

今こうして、庶民のボクが、趣味の登山として 平和に 気持ち良く 歩いている。

今こうして、庶民のボクが、趣味の登山として 平和に 気持ち良く 歩いている。

今こうして、庶民のボクが、趣味の登山として 平和に 気持ち良く 歩いている。

なんとも 不思議な気持ち...。

なんとも 不思議な気持ち...。

なんとも 不思議な気持ち...。

ただ 470年前も、

ただ 470年前も、

ただ 470年前も、

八ヶ岳やアルプスなどの山々は、

八ヶ岳やアルプスなどの山々は、

八ヶ岳やアルプスなどの山々は、

今と変わらない姿で、

今と変わらない姿で、

今と変わらない姿で、

その山々を見た人たちは、
「美しい」 
と 純粋に感じていたのでしょうか...。

その山々を見た人たちは、 「美しい」 と 純粋に感じていたのでしょうか...。

その山々を見た人たちは、 「美しい」 と 純粋に感じていたのでしょうか...。

武田信玄(当時名 晴信)は、甲斐国の国主となり 信州の一部にまで領土を広げていた。

1548年 上田原で 村上勢に 敗戦。

1550年 村上勢を倒すため、

甲斐と信濃を結ぶ 軍事用道路を作りはじめる。

兵を早急に送り込めるように 一直線の道に、

馬を休ませる牧場を所々に、

逆利用されないように屈曲させた道を何カ所かに、

のろし台や関所を要所に、

1552年 2年間で その道を 完成させた。

翌1553年 村上勢の 戸石城(現跡地 上田市) と 葛尾城(現跡地 板城町)を 攻め落とした。

その後、上杉謙信との 川中島の戦へと つづく...。

その道は 八ヶ岳南麓から西麓にかけて作られ、

荒野にまっすぐ1本棒のように存在していたので、

「棒道」 と 呼ばれるようになったとされています。

信玄棒道の一部は、前回歩いた 南八ヶ岳、甲斐小泉駅の付近にも残っていますが、

今回はここ、北八ヶ岳 蓼科山の麓にも存在していたことを知りました。

武田信玄やその兵たちが、信州攻略のために 必死に作り 歩いた道を、

今こうして、庶民のボクが、趣味の登山として 平和に 気持ち良く 歩いている。

なんとも 不思議な気持ち...。

ただ 470年前も、

八ヶ岳やアルプスなどの山々は、

今と変わらない姿で、

その山々を見た人たちは、 「美しい」 と 純粋に感じていたのでしょうか...。

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