旧越後米沢街道調査その2(山形県小国町)-2020-11-29

2020.11.29(日) 日帰り

活動データ

タイム

06:50

距離

9.1km

のぼり

956m

くだり

952m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
6 時間 50
休憩時間
57
距離
9.1 km
のぼり / くだり
956 / 952 m
6 50

活動詳細

すべて見る

先週に続いて旧越後米沢街道の調査を行った。 前回と同じく旧越戸集落跡地を抜け同じルートで尾根を登る。 主稜線に取り付き792mピークへ向かう。緩やかな広い稜線。薮は手でかき分けていけば進める。身体が浮く薮ではない。 やがて山頂に着いた。広く平らなブナ林。樹齢数百年はあると思われる見事なブナが見られる。 小国町の資料によれば大きな平らな岩があるとの事だが、雪でわからない。 そのまま去年、沖庭神社側から登った最終地点の鞍部に向かう。 そこまでほぼ直線を目指すが、薮の薄い箇所をルートに取るため迂回する。 去年の最終地点は鞍部となっていて湿地帯となっている。そこからは踏み跡が付いているので沖庭神社へは容易に行ける。 途中の大沢川への下りは急斜面だが、九十九折道が明確に残っている。 沖庭神社到着後、再び同じ道を戻ったが、鞍部からは他のルートを確認するため、山頂に向かって右側へ迂回して尾根を登った。 その尾根は薮が薄く登りやすいが、旧街道はその尾根ではなく、鞍部から山頂へ直線状に向かうルートが自然だと推測される。 わざわざ迂回する理由は無く、もし薮が無く踏跡があれば登りやすいルートだろう。 再び山頂附近を通り旧越戸集落跡地へ戻る。 以上で今回の調査は終了であるが、旧街道のルートは概ね辿れたと思われる。 山頂近辺には古いナタ目も確認できた。田代峠とは792mピークと推測される。 今回のルートは標高も低く、ブナ林くらいしか見どころはないので、登山道としては魅力はないが、先人が辿った歴史ある街道なので感慨深いものがある。 これから雪に閉ざされることになるが、また、来年も訪れてみたい。

小国町 ナタ目。オオミヤと読める。
ナタ目。オオミヤと読める。
小国町 主稜線部
主稜線部
小国町 山頂付近の古いナタ目。大正と確認できる。
山頂付近の古いナタ目。大正と確認できる。
小国町 山頂部は平坦
山頂部は平坦
小国町 山頂の三角点
山頂の三角点
小国町 ブナの巨木
ブナの巨木
小国町 山頂付近
山頂付近
小国町 山頂付近のナタ目
山頂付近のナタ目
小国町 九十九折道の上から見る大沢川
九十九折道の上から見る大沢川
小国町 沖庭神社へは大沢川支流に沿って道は続く
沖庭神社へは大沢川支流に沿って道は続く
小国町 大沢川出会いから沖庭神社までは、人が結構立ち入っている様で、明確な踏み跡が続く。
大沢川出会いから沖庭神社までは、人が結構立ち入っている様で、明確な踏み跡が続く。
小国町 沖庭神社手前の湿地帯跡
沖庭神社手前の湿地帯跡
小国町 岩の上に立つ沖庭神社。中心部の杉の右側。
岩の上に立つ沖庭神社。中心部の杉の右側。
小国町 沖庭神社の岩峰群。神秘的な場所。
沖庭神社の岩峰群。神秘的な場所。
小国町 沖庭神社からの小国町
沖庭神社からの小国町
小国町 沖庭神社
沖庭神社
小国町 沖庭神社から大沢川出会いまでブナ林を歩く。
杉の植林沿いに道はある。
沖庭神社から大沢川出会いまでブナ林を歩く。 杉の植林沿いに道はある。
小国町 大沢川
大沢川
小国町 大沢川出会いの場所。大沢川支流。
左側の斜面を登る。
大沢川出会いの場所。大沢川支流。 左側の斜面を登る。
小国町 大沢川脇の斜面を登る。九十九折道が残る。
大沢川脇の斜面を登る。九十九折道が残る。
小国町 大沢川から鞍部への道。ナタ目や古いテープが有り、藪も無く歩きやすい。
大沢川から鞍部への道。ナタ目や古いテープが有り、藪も無く歩きやすい。
小国町 鞍部から山頂に向かう尾根。大沢川から直線で繋がるルート。旧街道と推測されるが薮が多い。
鞍部から山頂に向かう尾根。大沢川から直線で繋がるルート。旧街道と推測されるが薮が多い。
小国町 去年来た最終地点の鞍部附近
去年来た最終地点の鞍部附近
小国町 鞍部はやや湿地帯となっている。
鞍部はやや湿地帯となっている。
小国町 鞍部から山頂へ向かう右側のルート。旧街道では無いと思われるが、薮が薄く登りやすい。
鞍部から山頂へ向かう右側のルート。旧街道では無いと思われるが、薮が薄く登りやすい。
小国町 ブナの巨木
ブナの巨木
小国町 大きなブナの倒木
大きなブナの倒木
小国町 旧越戸集落への尾根を下る。
旧越戸集落への尾根を下る。
小国町 昔、水田のあった場所から日本海側を見る。昭和42年の羽越水害の土砂崩壊で埋まった。
幸いにも人的被害は出なかったが、復旧の見込み無く集団移転となった。
水が豊富な場所で水田には向いていたのだろう。
昔、水田のあった場所から日本海側を見る。昭和42年の羽越水害の土砂崩壊で埋まった。 幸いにも人的被害は出なかったが、復旧の見込み無く集団移転となった。 水が豊富な場所で水田には向いていたのだろう。

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。