活動データ
タイム
05:20
距離
12.5km
のぼり
581m
くだり
579m
活動詳細
すべて見る我が家から一番近い山は巨石パークと言う山であるが、中学生の頃にメジロ捕りに良く通った山で、当時は石神さんと呼んでいました。大岩が沢山存在し、現在烏帽子岩と呼ばれている岩は、川上の与止姫神社の守り神様と言われていました。確かに烏帽子岩の先は与止姫神社の方向を向いているので、真偽は兎も角あながち的を得た伝説かも知れませんねぇ。 竹下登総理時代の、ふる里創生で振る舞われた一億円に二億円をプラスして、当時の町の村おこし事業として開発された巨石パーク、当時は無駄づかいと非難されましたが、最近は訪れる観光客やハイカーで結構賑わっていると聞いています。ただパークの名前とは裏腹に結構な山道なので歩きは厳しくて、ハイキングから登山の部類に俗すると思えるので、名称を変更して欲しいと個人的には願っています。 最初こそ散策路を素直に歩るいていたが、天ノ岩戸手前で又もや好奇の虫があっちにも赤テープが在るよと囁くのでテープを追ったが、程なくしてテープが途絶え、踏み跡も無くなったので勘を頼りに進むと、肝心の巨石群を通り越して山頂稜線まで来てしまった。お昼も過ぎていたので手早く済ませ、数年前に偶然見つけた山神宮様を探してみた。直ぐに大岩の下に手厚く護られた祠はみつかった。山岳信仰の流れなのかは信仰心の薄い私にはちんぷんかんぷんながら、塔碑に刻まれた山神宮にただただ手を合わせるのみ。山陰に隠れた大岩故に、一般登山者や巨石パークのハイカーはこの山神宮様の存在を知る人は少ないのでは?。 金敷城山も名前からしてかつては城址だったのだろうか、城跡を示す遺構などは見当たらないけど…。 後で調べてみたら、1557年頃に神代勝利によって築かれ、龍造寺氏との間でこの地で戦があり、神代氏はこの金敷城山に陣を敷いたとされる。この戦いは金敷峠合戦と言われているそうだ。金敷城山に建ってる供養塔はその戦いで亡くなった龍造寺軍の小河信安らを悼む供養塔で、江戸時代に建立されたと言う。城郭遺構は少なく、主郭付近に平段、南に伸びる尾根上に堀切が僅かに残っているそうだ。 今日は腰の塩梅があまり良くないので、金立山まで行かずに名尾峠で降りる事にした。今でこそダンプカーが行き交う広い道路となってるが、半世紀前までは人がやっと通れるほどの杣道で、当時は金敷峠と呼ばれていました。言葉で聞くとどうしても悲しき峠と聞こえてきて、ここでの別れを悲しんだ為に悲しき峠と言うんだと、大人になるまで間違えて覚えていたのです。滑稽ですよねぇ~。 その半世紀以上も前になりますが、忘れられない事件がこの峠で発生したのです。5~6kmほど下った団地で、2歳の女の子が行方不明となり、川や溝などあらゆる場所を捜すも見つからなかったが、隣の集落のおばさんが、そう言えば泣きながら山に向かって歩いていたがと言われた。私も同じ団地に住んでいて当時は25歳と若かりし頃、2~3人で狭い杣道を走る🏃ように登り、この峠を越えれば隣の町と言う時、泣き疲れたのであろうか、キョトンと目を開けて寝っ転がっていたのである。とても2歳児の行動とは思えない事件であったが無事で良かった。その子も今では50半ば、元気に暮らしているでしょうねぇ。この峠を通る度にその事件を思い出すが、今日は記憶も遠くなった昔を懐かしく思い出しながら、広くなった道路を下って行った。麓には藩主、鍋島光茂公が佐賀城下の安寧を願って彫らせた、三仏の磨崖仏がミカン🍊畑の真ん中にで~んと鎮座されていて、400年経った今も佐賀城下を静かに見守っていてくれてます。 峠から我が家まで、下りとは言え悠に1時間半の車道歩きは少々長かったなぁ。
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