活動データ
タイム
00:10
距離
818m
のぼり
24m
くだり
27m
活動詳細
すべて見る6時頃家を出るが、今庄までずっと霧中だった。視界が開けたのは太陽が顔を出したからなのか、あるいは敦賀に抜けたからなのか、快晴を期待させるには十分なほど濃く深く暗い濃霧だった。…はずなのに、明るくなっても嶺南は今ひとつの空模様。厚い雲が低く垂れこめて風も強く寒い。あれれ?天気予報が…。 どこに向かってるかというとですね、小浜に向かってます。当初は福知山・宮津に行く予定をしてましたが新型コロナ急増のため県外は断念。関西文化の日を楽しみにしてたのにね(泣)。以前小浜には週1回仕事で来てました。舞鶴若狭自動車道もなく敦賀からは国道27号線か、どちらかと言えば梅街道を通ることの方が多かったけど、遠い道のりをひとりドライブしたものでした。トランプでもなくオバマでもなくブッシュ大統領の頃だったような気がするが、街中も随分変わったもんだと思ったよ。ちりとてちんの頃だったような気もするなぁ。 …初(常高院)。先月小谷城に登りましたが、浅井三姉妹の次女初は小浜と縁が深いのです。長女茶々、三女江に比してややマイナーなイメージですが、なかなかどうして波乱万丈な生涯を送っています。三姉妹ともですが、2度の落城にあい、1度目の小谷城で実父(浅井長政)を、2度目の北ノ庄城では実母(お市の方)と養父(柴田勝家)を亡くしています。大坂の陣では姉妹で敵味方に別れてしまった豊臣方の茶々と徳川方の江の間に入って、何とか戦を回避しようと仲介に奔走しています。なんと生涯計4度の落城を経験しながらも三姉妹のなかで最も長生きし、1633年京極家の江戸屋敷で亡くなりました。茶々、江と比べて地味な印象を受ける初ですが、幸せな人生だったのではないでしょうか、と思ってます。茶々は関白豊臣秀吉の側室、江は二代将軍徳川秀忠の継室、なんとも豪華な顔ぶれですが、それに比べて初が嫁いだのは京極高次。京極氏は名門ではあるものの、歴史の表舞台にはあまり出てこない田舎武将という感じを拭えません(失礼!でも比較対象の関白・将軍が凄すぎるので)。実は京極高次は小谷城で生まれています。つまり初も高次も幼少の頃から良く知っている間柄だったと思うのです。何を言いたいかというと、望まぬ結婚、政略結婚であったかもしれない二人の姉妹に対して、初は恋愛結婚に近いものだったのではないかと推測します。あるいは高次の方が7歳年上なので、初にとっては憧れのお兄さんという感じだったのかもしれません。高次の妹(姉かも)の京極竜子は秀吉お気に入りの側室の一人で容姿端麗だったらしいので、当然高次もイケメンだったのではないかと思います。カッコイイ憧れのお兄さんと結婚できるなんて、幸せなことだと思いませんか?なお、京極高次の母・京極マリアは浅井長政の姉なので、初と京極高次はいとこ同士で結婚したということになります。美男美女のカップルだったんでしょうね。そして歴史のメインストリートにいる姉妹の責任や重圧と比べると、どちらかと言えばやや気楽な立場だったのではないでしょうか。もちろん初もその時代においてのキーパーソンであることには変わりなく、徳川家康とも仲が良かったなんて話も聞こえてきます。豊臣家と徳川家の仲介に入って和議に尽力するなど決して傍観者ではなかったと思いますが、やはり内側にいる人と外側にいる人では明らかに違いますよね。だから当時としては長生きの63歳まで幸せな余生を過ごすことができたのではないかと思ってます。京極マリア、今まで全然知りませんでしたが今回がきっかけで勉強になりました(先月小谷城行ったときにそんなこと書いてあったかなぁ?)。京極マリアが今上天皇の直系祖先だということも知りました。長々と書きましたが、ひとりの人物に想いを寄せて、調べて、妄想して、これはこれでYAMAPからの繋がり広がりは楽しいですね。と、締めのような言葉ですが、いやいやまだ半分ですぞ、のっぽさん。続けてどうぞ! …沼田麝香。この名前ご存知の方はかなりの歴史通と思います。私も年初まではまったく聞いたことがありませんでした。今年自分的にフィーチャーしている細川ガラシャを調べているうちに辿り着いた方です。明智光秀の次女たま(三女とも)は細川藤孝の長男忠興に嫁いだのですが、細川藤孝の奥方が沼田麝香なのです。つまりガラシャにとっての姑にあたります。藤孝は当時では珍しく生涯にわたり側室を持たなかったそうで、そしてその藤孝に愛された沼田麝香の生まれがここ熊川なのです。沼田氏が築いた熊川城は京と若狭を結ぶ要衝の地でした。立地の利便性から、江戸時代には若狭街道が通る熊川宿として繁栄し、現在も宿場町の風情がよく残る「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。と、ここまで調べていて、今まで勘違いしていたことに気づきました。鯖街道、おそらく福井県民なら誰でも知っている名称ですが、その鯖街道とは小浜から京都に向けて真下(南)に向かう道だとずっと思っていたのです。確かにそのような最短ルートはあり、針畑峠を越えて鞍馬に向かう古いルートがそれにあたるようです(この針畑越えも興味あるんだよね)。ところが鯖街道というのは、鯖をはじめとする多くの海産物や物資を運ぶ若狭と京都を結ぶ街道の総称であり、つまり複数のルートがあるということで、そのなかで最も物流量が多かったとされるのが、小浜から熊川を経由して滋賀県の朽木を通り京都に至る、この若狭街道だというのです。小浜からだと一旦上中町の方に(東に)進んでから南進する感じになるので、今までこの若狭街道が鯖街道だという認識はまったくありませんでした。そして鯖街道は物資を運ぶためのものだけではなく、人や文化を運ぶ交流の道でもありました。将軍足利義満への贈り物として日本で初めて小浜にゾウが上陸したというエピソードや、海のある奈良と例えられるほど数多く残る古刹名刹など(今回初めて福井県立若狭歴史博物館に行きましたが、常設展「若狭のみほとけ」良かったですよ)、都にとって若狭は関係の深い重要な地でした。そして次に訪れた国吉城に関係しますが、鯖街道は軍事上の大きな役割も果たしています。話が跳躍してしまってますので強引に戻しますが、いずれにせよ麝香は重要な街道の拠点として熊川城を統治していた沼田氏の出自なのです。晩年、麝香は嫁ガラシャの最後に影響を受けて受洗し、以後マリアを名乗ります。今日2人目のマリアですね。そしてこの沼田麝香もまた今上天皇の直系祖先のひとりらしいです(3,000人以上いるみたいですが)。洗礼後は細川マリアと呼ばれる方が多いらしいのですが、昔の日本は(今話題の)夫婦別姓であったという説もあり、沼田マリア、浅井マリア、明智ガラシャが本来の名前なのかもしれませんね。ということで熊川城跡に登りたい気持ちを抑えて次に向かうのでした。 … 若狭国吉城歴史資料館。こちらも以前から訪れたいと願っていた場所ですが、ちょうど先週の『麒麟がくる』第31回「逃げよ信長」でここ国吉城が紹介されていたらしく(このときはつゆとも知らず)、想像していたよりも多い来館者にビックリしました。国吉城に関して簡潔に紹介しますと、①幾度となく朝倉氏の攻撃に耐え抜いた難攻不落の城、②信長、秀吉、家康の三英傑、そして明智光秀も入城したことがある、③続日本100名城に選出、といったところでしょうか。今回はこの国吉城跡には登らずに歴史資料館でじっくり勉強します。1570年、朝倉を攻めるために京を出発した信長は、秀吉や家康を伴い前述の熊川を通って国吉城へ入城します(今年は信長公入城450年だそうです)。国吉城で3日間滞在したのち越前に侵攻し、敦賀の天筒山城、金ヶ崎城を攻略。ところが妹婿である浅井長政の裏切りにより撤退を余儀なくされます。金ヶ崎の退き口と言われるこの退却戦でも、信長は国吉城から熊川を通って京に逃げ帰ったと言われています。そんな重要な拠点であった国吉城に登って越前若狭を俯瞰してみたいという気持ちがありましたが、今回は抑えてまたいつかの再訪を決めたのです。 福井市内に戻ってきて、夜はライトアップされた養浩館庭園を観賞。福井市内はこの時期とは思えない穏やかな陽気で、幻想的な空間を楽しむことができました。来年の関西文化の日はどこに行こうかな?コロナ禍落ち着いてますように。
もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。