茶堂跡(おめん茶屋) 扉は締まっていますが、中には弘法大師像と不動明王像が設置) 戻る 次へ

黒河道から紅葉の高野山への写真

2020.11.08(日) 12:32

茶堂跡(おめん茶屋) 扉は締まっていますが、中には弘法大師像と不動明王像が設置)

この写真を含む活動日記

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19.6 km

1946 m

黒河道から紅葉の高野山へ

高野参詣道(高野山・楊柳山・雨引山) (和歌山, 奈良)

2020.11.08(日) 日帰り

山岳会のメンバーと共に歩きました  力不足のリーダーの私は、サブリーダーのshoさんに おんぶに、だっこに、肩車状態でお世話になって 何とか終了しました 黒河道の様子は他の人が沢山アップされているので、 事前に調べていた黒河道の事について書きます 黒河道 高野山に続く7つの街道の一つで 和歌山県橋本市の定福寺から黒河道女人堂跡の約16~17キロの道 現在、黒河道とされている道は、旧黒河村を通らずに 村の西側の道を通っています 久保小学校から子継峠(文献では香春峠・粉撞峠・粉突峠と表記)の区間で、 いくつかの史料や道標をかんがみても、旧黒河村を通る道が本来の黒河道で 西側の道は高野参詣道としての黒河道ではないかと思われます 現在の道でも、町の中心部に車を通行させるより バイパスを作って通行させるといった感じかな? ここからは仮定ですが、旅人はすべて善人ではなく、 村は旅籠でもないため、高野山に参拝する人は 村へ立ち寄らせたくなかったのではないでしょうか? 黒河村は9世紀頃、高野山建設に従事した人たちが住み着いた集落で、 高野山との関係は密接でした また、古くから「御番株」という役目で、 高野山奥之院燈明の油の補給を担当していたことから、 お供物や下燈などのおさがりで恵まれていたようです 室町時代には二軒茶屋から久保、子継峠を経て 高野山に至る高野街道が示されていました その後、太閤秀吉が高野山で禁じられている能楽を催したため、 豪雨と雷鳴におののき、馬で駆け下りたことから「太閤道」といわれるようになりました 神仏を恐れず比叡山を焼き討ちした信長に比べると 神仏を恐れて高野山から逃げ降りる秀吉のエピソードが対照的で面白いですね