ツバメと牛乳箱と道標とか。

2020.07.12(日) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
9 時間 3
休憩時間
16
距離
29.7 km
のぼり / くだり
384 / 384 m
1
5 14
2 48

活動詳細

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日記風。 最近うちん家にツバメが巣を作ってヒナが4羽産まれた。 でも先日1羽が巣から落ちて死んだ。 そして今日も1羽…。庭にとなり同士で埋めた。 ツバメの世界にもいろいろあるだろうが、 とにかく親鳥も残った2羽のヒナも頑張れ、とか思う。 以前はツバメはただのツバメだったが、 今は歩いていてツバメを見かけるとかわいくてついつい話しかけてしまう。 ツバメは(他の鳥も)おなかがかわいい。 さて、最近なんか歩くのしんどいなぁ、なんでやろ? スナック菓子の食べ過ぎかなぁ…、とか思っていたら、 それはただ暑いからだった、ということがわかった。 どおりで、涼しい今日(7/12)は歩くのがらくちんだった。 この夏は涼しい日を選んでまた名張→大和八木をやろう。 今年は山添村経由にしようかな、むふふふ…、 とか考えてると楽しくて仕方がない。 近ごろは雨が多いので平野部ばかり歩いている。 ここんところとくに目立った発見もなく、 レポ上げるほどのこともなかったのだけど、 アカウントに緑色のカビが生えてきたので、 今回はいくつかの道標の近況と、牛乳箱など。

矢田丘陵・法隆寺 さて、これはJR法隆寺駅前に立つ道標。右は法隆寺を案内する大正11年の道標。最上部の左指差しマークが消されている。左は砂かけ祭で有名な廣瀬大社(河合町川合)を案内している道標。 駅前の南北の道は、法隆寺街道・廣瀬街道・興留街道とも呼ばれ、法隆寺から田原本、箸尾方面へ通じていたようだ。
さて、これはJR法隆寺駅前に立つ道標。右は法隆寺を案内する大正11年の道標。最上部の左指差しマークが消されている。左は砂かけ祭で有名な廣瀬大社(河合町川合)を案内している道標。 駅前の南北の道は、法隆寺街道・廣瀬街道・興留街道とも呼ばれ、法隆寺から田原本、箸尾方面へ通じていたようだ。
矢田丘陵・法隆寺 おっ、これはかなりレア?(というかローカル)な西本牧場の牛乳箱。(ちなみに牛乳箱にそれほど詳しいわけではない)
おっ、これはかなりレア?(というかローカル)な西本牧場の牛乳箱。(ちなみに牛乳箱にそれほど詳しいわけではない)
矢田丘陵・法隆寺 こちらはよく見かける明治牛乳の牛乳箱。 このすぐあとに、道の真ん中でおじいさんが自転車でこけたので救助。救助後にお互いマスクをはずしていたことに気付いて慌てて装着。
こちらはよく見かける明治牛乳の牛乳箱。 このすぐあとに、道の真ん中でおじいさんが自転車でこけたので救助。救助後にお互いマスクをはずしていたことに気付いて慌てて装着。
矢田丘陵・法隆寺 さてこれは「ぽっくり寺」として知られる吉田寺入口に立つ道標(天保15年)。江戸後期の僧侶、神南辺大道心(隆光)によると思われるもの。伊勢本街道の行悦と並んで、神南辺大道心も泉州、南河内を中心に多くの道標を残した。奈良県内では現在6基を確認している。(たぶんもっとある?)
さてこれは「ぽっくり寺」として知られる吉田寺入口に立つ道標(天保15年)。江戸後期の僧侶、神南辺大道心(隆光)によると思われるもの。伊勢本街道の行悦と並んで、神南辺大道心も泉州、南河内を中心に多くの道標を残した。奈良県内では現在6基を確認している。(たぶんもっとある?)
矢田丘陵・法隆寺 ここは国道25号の竜田大橋の東詰。 かつてこの場所に大きな 『信貴山毘沙門天道』 の道標が立っていたが…、
ここは国道25号の竜田大橋の東詰。 かつてこの場所に大きな 『信貴山毘沙門天道』 の道標が立っていたが…、
矢田丘陵・法隆寺 2014年の暮れ頃に信貴山の県道脇に移設された。場所は大門ダムから200mほど東。
2014年の暮れ頃に信貴山の県道脇に移設された。場所は大門ダムから200mほど東。
矢田丘陵・法隆寺 江戸新吉原仲の町、尾張屋太郎兵衛(通称?「尾太」)によるもの(文政2年)。「尾太」さんによる 『信貴山毘沙門天道』 道標は、これの他に、三郷町勢野東、王寺町役場南にある。また、朝護孫子寺境内の玉垣などにもその名前が見られる。
江戸新吉原仲の町、尾張屋太郎兵衛(通称?「尾太」)によるもの(文政2年)。「尾太」さんによる 『信貴山毘沙門天道』 道標は、これの他に、三郷町勢野東、王寺町役場南にある。また、朝護孫子寺境内の玉垣などにもその名前が見られる。
矢田丘陵・法隆寺 話しを竜田大橋に戻して、この橋の西詰には 「左 松尾道」 の道標があるが、数年前から折れて倒れている。
話しを竜田大橋に戻して、この橋の西詰には 「左 松尾道」 の道標があるが、数年前から折れて倒れている。
矢田丘陵・法隆寺 「左 松尾道」 の下に 「大坂取次 山田屋栄助 伊勢屋栄助 武田源七」 の名があるが、この3名による 「松尾道」 道標は他に、法隆寺四脚門前、法隆寺東大門前、平群町福貴の白山神社下、十三峠、などにある。
「左 松尾道」 の下に 「大坂取次 山田屋栄助 伊勢屋栄助 武田源七」 の名があるが、この3名による 「松尾道」 道標は他に、法隆寺四脚門前、法隆寺東大門前、平群町福貴の白山神社下、十三峠、などにある。
矢田丘陵・法隆寺 側面には 「寿具 枩尾道(すぐ松尾道)」。横に小さく 「南 たいま」 。 車が多くて撮るのが恥ずかしい。
側面には 「寿具 枩尾道(すぐ松尾道)」。横に小さく 「南 たいま」 。 車が多くて撮るのが恥ずかしい。
矢田丘陵・法隆寺 これは持聖院の東にある不気味なお顔の坐像さん…。
これは持聖院の東にある不気味なお顔の坐像さん…。
矢田丘陵・法隆寺 三郷町勢野東の持聖院前には、大和西国三十三所霊場の道標がある。
三郷町勢野東の持聖院前には、大和西国三十三所霊場の道標がある。
矢田丘陵・法隆寺  「やまとさいこく 第一ばんの札所」 「このうへ」 とあるので坂の下から移設されたものかな?
「やまとさいこく 第一ばんの札所」 「このうへ」 とあるので坂の下から移設されたものかな?
矢田丘陵・法隆寺 次はすぐ北の勢野東墓地にある立派な道標。
次はすぐ北の勢野東墓地にある立派な道標。
矢田丘陵・法隆寺 こちらも大和西国三十三所霊場の道標で、第一番札所の先ほどの持聖院(戦国末期に焼失した補陀落山総持寺の子院)と、第二番札所の神南融念寺、第三番札所(不明)を案内。
こちらも大和西国三十三所霊場の道標で、第一番札所の先ほどの持聖院(戦国末期に焼失した補陀落山総持寺の子院)と、第二番札所の神南融念寺、第三番札所(不明)を案内。
矢田丘陵・法隆寺 右側面には 「右…」 などの文字があるが、一部を残してたぶん石が欠けている。(または割られている)
右側面には 「右…」 などの文字があるが、一部を残してたぶん石が欠けている。(または割られている)
矢田丘陵・法隆寺 奈良街道(竜田越)を進み、三郷中学校のすぐ南に、龍田大社の芸能衆の一人 「春樂軒」 の功績を称えて弟子たちによって建てられた道標がある(弘化3年)。
奈良街道(竜田越)を進み、三郷中学校のすぐ南に、龍田大社の芸能衆の一人 「春樂軒」 の功績を称えて弟子たちによって建てられた道標がある(弘化3年)。
矢田丘陵・法隆寺 達磨寺と當麻寺を案内している。
達磨寺と當麻寺を案内している。
矢田丘陵・法隆寺 さてさて、奈良街道(竜田越)をさらに進むと丁石が2つ立っている。
さてさて、奈良街道(竜田越)をさらに進むと丁石が2つ立っている。
矢田丘陵・法隆寺 まず一つ目 「十九丁」。 大阪市西区の中谷さんによるものだが…、
まず一つ目 「十九丁」。 大阪市西区の中谷さんによるものだが…、
矢田丘陵・法隆寺 その先の立野連合自治会館前には こっそりと 「二十丁」 の丁石がある。これは私は気付かなくてツイッターで教えてもらったもの。
その先の立野連合自治会館前には こっそりと 「二十丁」 の丁石がある。これは私は気付かなくてツイッターで教えてもらったもの。
矢田丘陵・法隆寺 これらの丁石は龍田大社への丁石だと私は思っているんだけど、ほんとのことだれか教えて。
これらの丁石は龍田大社への丁石だと私は思っているんだけど、ほんとのことだれか教えて。
矢田丘陵・法隆寺 さてこれは 「いかるが牛乳」 ではなくて 「いかるが乳業」(別会社)の牛乳箱。ともに奈良の斑鳩とは関係のない大阪の会社。 「Ikaruga 新しい牛乳 古い信用」。 年季入ってる。
さてこれは 「いかるが牛乳」 ではなくて 「いかるが乳業」(別会社)の牛乳箱。ともに奈良の斑鳩とは関係のない大阪の会社。 「Ikaruga 新しい牛乳 古い信用」。 年季入ってる。
矢田丘陵・法隆寺 最後に、こいわい家のツバメ。 では!
最後に、こいわい家のツバメ。 では!

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