歴史上の偉人コース

2020.07.12(日) 日帰り

活動データ

タイム

02:01

距離

8.3km

のぼり

5m

くだり

14m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
2 時間 1
休憩時間
0
距離
8.3 km
のぼり / くだり
5 / 14 m
2 1

活動詳細

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気温は26℃と高く 蝉が鳴きはじめていました。

 8:46  野口公民館を出発
8:46 野口公民館を出発
 看板は読めませんが解説は
奈良時代、野口町野口周辺には賀古駅家(かこのうまや)という宿場がありました。奈良時代前期の僧、教信上人はこの野口に庵を建て、念仏を唱えながら旅人や念仏を唱え続けて旅人や農民を助けたので「荷送り上人」とか「阿弥陀丸」と呼ばれ民衆から尊敬を集めました。庶民仏教の普及の努めた上人の庵の跡に建てられたのが現在の教信寺です。国道2号線の南側にある「駅ケ池」は教信上人が農民の為に造ったといわれ、教信上人にまつわる伝説が残っています。仏道を実践するには聖僧ぶる必要はない。虚飾を捨ててこそ真実という信念を持つ教信上人がある日、土地の人にもらった鮒を食べたところ、それを見た者から「僧にあるまじき行為」と非難されました。そこで教信上人はその者を「駅ケ池」へ連れていき、「仏道修行者は魚を食うもよし、食わぬもよし」と口から吐き出したところ、鮒は何事もなかったように泳いだと伝えられています。ただその鮒は片目を失っていたので、その後も地域の人が片目の鮒を釣り上げると貴き鮒「上人鮒」と呼んで池に放す風習があったといわれています。
看板は読めませんが解説は 奈良時代、野口町野口周辺には賀古駅家(かこのうまや)という宿場がありました。奈良時代前期の僧、教信上人はこの野口に庵を建て、念仏を唱えながら旅人や念仏を唱え続けて旅人や農民を助けたので「荷送り上人」とか「阿弥陀丸」と呼ばれ民衆から尊敬を集めました。庶民仏教の普及の努めた上人の庵の跡に建てられたのが現在の教信寺です。国道2号線の南側にある「駅ケ池」は教信上人が農民の為に造ったといわれ、教信上人にまつわる伝説が残っています。仏道を実践するには聖僧ぶる必要はない。虚飾を捨ててこそ真実という信念を持つ教信上人がある日、土地の人にもらった鮒を食べたところ、それを見た者から「僧にあるまじき行為」と非難されました。そこで教信上人はその者を「駅ケ池」へ連れていき、「仏道修行者は魚を食うもよし、食わぬもよし」と口から吐き出したところ、鮒は何事もなかったように泳いだと伝えられています。ただその鮒は片目を失っていたので、その後も地域の人が片目の鮒を釣り上げると貴き鮒「上人鮒」と呼んで池に放す風習があったといわれています。
 国道2号線を北へ渡ると教信寺が見えてきます。
国道2号線を北へ渡ると教信寺が見えてきます。
 天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。平安時代前期の僧、沙弥教 信(しゃみきょうしん)がこの野口に庵をつくりました。念仏を唱えな がら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、わらじを作って貧しい人 に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人を助 けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。庶民仏 教の普及に努めた庵跡に建てられたのが教信寺です。境内の左手奥 に教信上人廟があります。 春には、満開の桜が境内を彩ります。
天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。平安時代前期の僧、沙弥教 信(しゃみきょうしん)がこの野口に庵をつくりました。念仏を唱えな がら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、わらじを作って貧しい人 に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人を助 けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。庶民仏 教の普及に努めた庵跡に建てられたのが教信寺です。境内の左手奥 に教信上人廟があります。 春には、満開の桜が境内を彩ります。
 山陽道を西へ進みじけまち商店街へ
山陽道を西へ進みじけまち商店街へ
 泊川を越え、泊神社へ向かいます。
泊川を越え、泊神社へ向かいます。
 泊神社へ到着しました。
泊神社へ到着しました。
 神代に伊勢神宮の御神体の一つである御鏡がここに泊まり着い たことから泊神社が起こったといわれています。 祭神は、 天照大 神少彦名神(すくなひこなのかみ)・国懸大神(くにかかすのおお かみ)です。現在の社殿は、 承応2年(1653) 宮本武蔵の養子、 宮 本伊織が改築した時のものといわれています。歩足を踏み入れ ると境内は広く、 南北朝時代の石弾城(いしはじき城)の石垣 と思われるものや宮本伊織寄贈の花崗岩製の灯篭、市指定文化財 の36歌仙図絵馬が残っています。
神代に伊勢神宮の御神体の一つである御鏡がここに泊まり着い たことから泊神社が起こったといわれています。 祭神は、 天照大 神少彦名神(すくなひこなのかみ)・国懸大神(くにかかすのおお かみ)です。現在の社殿は、 承応2年(1653) 宮本武蔵の養子、 宮 本伊織が改築した時のものといわれています。歩足を踏み入れ ると境内は広く、 南北朝時代の石弾城(いしはじき城)の石垣 と思われるものや宮本伊織寄贈の花崗岩製の灯篭、市指定文化財 の36歌仙図絵馬が残っています。
 本社は、大和の時代に伊勢神宮の御神鏡の一つがこの 処に泊まり付き、お祀りしたのが発祥です。 承応二年(一六五三)、宮本武蔵の甥で養子の伊織が 一族の氏神である泊神社の荒廃を嘆き、浄財を寄進して 全面的に社殿を改築再建立しました。 この時、伊織は、武蔵の生地が播磨であることを書き 記した第一級資 料である棟札を奉納しました。 伊織は、他に、狩野探幽の門人であった甲田重信の作 といわれている三十六歌仙図絵馬(市指定文化財)を 奉納し、本殿裏の石玉垣の囲いの中に、一族の田原正久が 寄進した石灯籠と並んである高さ二七九センチの花崗岩 製の石灯籠を寄進しました
本社は、大和の時代に伊勢神宮の御神鏡の一つがこの 処に泊まり付き、お祀りしたのが発祥です。 承応二年(一六五三)、宮本武蔵の甥で養子の伊織が 一族の氏神である泊神社の荒廃を嘆き、浄財を寄進して 全面的に社殿を改築再建立しました。 この時、伊織は、武蔵の生地が播磨であることを書き 記した第一級資 料である棟札を奉納しました。 伊織は、他に、狩野探幽の門人であった甲田重信の作 といわれている三十六歌仙図絵馬(市指定文化財)を 奉納し、本殿裏の石玉垣の囲いの中に、一族の田原正久が 寄進した石灯籠と並んである高さ二七九センチの花崗岩 製の石灯籠を寄進しました
 この本殿裏の二基の灯篭は、宮本伊織とその一続である田原正久が寄進したものです。
この本殿裏の二基の灯篭は、宮本伊織とその一続である田原正久が寄進したものです。
 石弹城跡

南北朝時代~室町時代(14世紀~15世紀頃) 城館跡

江戸時代の文献史料である『播磨鑑』によると、石弾城の城主は、暦応2(1339) 年に雁南荘(現在の高砂市米田町及び加古川市加古川町の西部を中心とした地域)の地頭職(中世における荘園・国衙領の役職を与えられた大井三樹伊豫守宰であったと 伝えられています。 その後の城主は、大井三樹伊稼守幸の五男の雁南右衛門四郎勇という人物で、永和元(1375)年、父の伊豫守幸が出家したため家督を相続し、自らは主馬助と名乗り、 赤松氏に従ったとされています。 きょうとく その後、雁南右衛門四郎勇の長男である雁南刑部太郎長が享徳3(1454)年に家督を相続して木村源五郎と名乗り、康正元(1455)年、父の四郎勇が討死した後、 石弾城を守っていたようです。 しかし、長禄元(1457)年、赤松氏と敵対していた山名宗全による攻撃を受けて 木村源五郎討死し、石弾城は落城したと伝えられています。
石弹城跡 南北朝時代~室町時代(14世紀~15世紀頃) 城館跡 江戸時代の文献史料である『播磨鑑』によると、石弾城の城主は、暦応2(1339) 年に雁南荘(現在の高砂市米田町及び加古川市加古川町の西部を中心とした地域)の地頭職(中世における荘園・国衙領の役職を与えられた大井三樹伊豫守宰であったと 伝えられています。 その後の城主は、大井三樹伊稼守幸の五男の雁南右衛門四郎勇という人物で、永和元(1375)年、父の伊豫守幸が出家したため家督を相続し、自らは主馬助と名乗り、 赤松氏に従ったとされています。 きょうとく その後、雁南右衛門四郎勇の長男である雁南刑部太郎長が享徳3(1454)年に家督を相続して木村源五郎と名乗り、康正元(1455)年、父の四郎勇が討死した後、 石弾城を守っていたようです。 しかし、長禄元(1457)年、赤松氏と敵対していた山名宗全による攻撃を受けて 木村源五郎討死し、石弾城は落城したと伝えられています。
 泊神社を後にし、鶴林寺へ向かいます。
泊神社を後にし、鶴林寺へ向かいます。
 鶴林寺へ到着。
鶴林寺へ到着。
 鶴林寺は589年、聖徳太子が16才 の時、秦河勝(はたのかわかつ)に命じ 仏教をひろめるための道場として建て られました。釈迦三尊と四天王を祀り 「四天王寺聖霊院」と称されたのがこの 寺のはじまりといわれ、播磨の法隆寺 とも呼ばれています。 平安時代の壁画 が見つかった県下最古の木造建築物、 国宝「太子堂」や、泥棒が盗み出し壊そうとしたら「アイタタ」という声が 聞こえてきたため、改心したと伝えら れている「金銅聖観音立像」など多く の仏教美術が残されています。
鶴林寺と風致公園を中心とし隣接する周辺の民有地を含む良好な街並み 景観は周辺の住民、市民にとって重要な資産であるため、保全・育成 することが必要です。 そのため、平成19年5月10日に本市初の景観形成地区として指定され ました。歴史を感じる落ち着いた生活空間、緑あふれる魅力的な沿道環境、 潤いのある水辺空間の形成を図るため次のとおり「目標」を定めます。
●建物の系統的つながりによる、まとまりのある落ち着いた街並み景観の形成
●緑量かな眺望性に優れた道路景観の形成
●落ち着いた街並みを保全し、育てる官民協働の沿道景観の形成
鶴林寺は589年、聖徳太子が16才 の時、秦河勝(はたのかわかつ)に命じ 仏教をひろめるための道場として建て られました。釈迦三尊と四天王を祀り 「四天王寺聖霊院」と称されたのがこの 寺のはじまりといわれ、播磨の法隆寺 とも呼ばれています。 平安時代の壁画 が見つかった県下最古の木造建築物、 国宝「太子堂」や、泥棒が盗み出し壊そうとしたら「アイタタ」という声が 聞こえてきたため、改心したと伝えら れている「金銅聖観音立像」など多く の仏教美術が残されています。 鶴林寺と風致公園を中心とし隣接する周辺の民有地を含む良好な街並み 景観は周辺の住民、市民にとって重要な資産であるため、保全・育成 することが必要です。 そのため、平成19年5月10日に本市初の景観形成地区として指定され ました。歴史を感じる落ち着いた生活空間、緑あふれる魅力的な沿道環境、 潤いのある水辺空間の形成を図るため次のとおり「目標」を定めます。 ●建物の系統的つながりによる、まとまりのある落ち着いた街並み景観の形成 ●緑量かな眺望性に優れた道路景観の形成 ●落ち着いた街並みを保全し、育てる官民協働の沿道景観の形成
 公園内は木陰で涼しく水路も整備されています。
公園内は木陰で涼しく水路も整備されています。
 公園の橋には蒸気機関車C11 331号機があります。
公園の橋には蒸気機関車C11 331号機があります。
 駅名は東加古川と書いてあります。
駅名は東加古川と書いてあります。
 C11は旧国鉄を代表するタンク機関車で381両が製造されました。381両のうちの「331番」というからには、かなり後になって作られたもののようです。案内看板には「製造初年 昭和7年」などと書かれていますが、この331号は昭和21年に日本車両(愛知県)で生まれ、少なくとも昭和25年から廃車になった昭和47年まではずっと姫路第一機関区に配置されていた生え抜きの機関車で、播但線でC11のさよなら列車を牽いたということです。
C11は旧国鉄を代表するタンク機関車で381両が製造されました。381両のうちの「331番」というからには、かなり後になって作られたもののようです。案内看板には「製造初年 昭和7年」などと書かれていますが、この331号は昭和21年に日本車両(愛知県)で生まれ、少なくとも昭和25年から廃車になった昭和47年まではずっと姫路第一機関区に配置されていた生え抜きの機関車で、播但線でC11のさよなら列車を牽いたということです。

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