活動データ
タイム
02:47
距離
9.8km
のぼり
1163m
くだり
1162m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る「角大師となり、疫病を退散!」 「霧に立つや蝸牛の角の山二つ」 正岡子規 「梅雨晴れや ところどころに 蟻の道」 正岡子規 この前の日曜日、近江の古刹に訪問した時の写真を振り返りながら… 梅雨の合間に伊吹山‼︎ 早朝の山頂は涼しいですね。風が心地よいです‼︎ その後、余呉湖一周6.8㎞のjog‼︎ 余呉湖は別名・鏡湖‼︎ 「これが日本のウユニだ」美しすぎる余呉湖‼︎ 本日の活動日記は…YAMAP&TSUYUP&TSUNOP‼︎‼︎ (ヤマップと梅雨ップと…角ップ) to U‼︎ 本日も感謝‼︎ 感謝‼︎ ◉玉泉寺◉平安時代に流行した病を鎮めたと伝わる「元三大師」◉平安時代の僧・良源の通称◉長浜市三川町生まれ◉比叡山の発展に尽くした中興の祖◉伝承によると984年、都に疫病が流行すると良源は角の生えた鬼の姿「角大師」と化し、その姿を描き写した護符を各家の戸口に張り出したことで、一切の厄災が寄り付かなくなったと言われています◉良源が正月3日に亡くなったことから「元三大師」と呼ばれるように…◉江戸時代、民衆の間で広まったおみくじのルーツ、「元三大師御籤」は家康の参謀・天海が世に広めたとのこと ◉全長寺◉そこは花の波です◉色とりどりの紫陽花が輝いて…◉本堂の入り口付近には達磨の目を向いた石像があたりを睥睨しています◉近くには毛受兄弟の墓◉毛受兄弟は、兄を茂左衛門、弟を勝助といい、ともに勝家の小姓として仕えました。次第に勝家側の敗色が濃くなり、勝家を越前まで落ち延びさせるため、金の御幣の馬印を掲げて身代わりとなり秀吉軍と戦いました。秀吉軍の攻撃により討ち死にしましたが、秀吉は主君の身代わりとなりここまで戦った事に感動し、その亡骸を懇ろに葬り、全長寺の僧に弔いを依頼したと言われています◉勝家は斬り込み討死を覚悟したが、毛受勝介(弟)はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田勝家なり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死したそうです。享年25
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