活動データ
タイム
02:01
距離
4.1km
上り
202m
下り
189m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る富士山 船津口登山道の起点で、富士山北麓 御坂山地を背負い、河口湖越しに富士山と対峙して鎮座する「河口浅間神社」に参拝して来ました。(近い将来、船津口からの富士登山も予定しているので、更に深く歴史を知る為に..) 河口浅間神社は 富士山山霊の浅間大神(木花開耶姫命)を祀っています。 甲州と駿州を結ぶ、鎌倉街道の際に鎮座し、平安の昔から朝廷・領主に厚く遇された古格の社で、富士信仰の北口根拠地として崇敬されて来ました。 神徳は 安産、結縁、育児、奨学、裁縫、家内安全、商売繁昌だそうです。 河口浅間神社の創建は貞観7年(865年)。前年から発生していた富士山の貞観大噴火(溶岩流は 青木ヶ原樹海を作り、北麓にあった広大な湖、剗の海の大半を埋没させました) により、甲斐国は甚大な被害を受けていました。このため勅命により、浅間大神(木花咲耶姫命)を奉斎して鎮火を祈願。これが創建の由緒です。 ※船津口登山道とは.. 河口浅間神社を起点に河口湖畔の船津から、船津胎内樹型を経て、現在の富士スバルライン五合目である小御嶽五合目に至る登山道です。 (三合目では 精進口登山道と合流します) その歴史は 川口(現 富士河口湖町河口地区)の御師町と共にあったと考えられています。 江戸期、富士山北麓には御師が集まり住んでいた町があり、一つが吉田(現 富士吉田市 上吉田地区)、もう一つが川口でした。 川口の御師町は 中世後半には成立していたとされ、主に鎌倉往還の御坂峠を越えてやって来る甲州盆地や信濃国の中部方面からの登山者を受け入れ、最盛期には140もの宿坊を数えるほど栄えたそうです。 江戸時代後期に入り、長谷川角行を祖とする富士講が隆盛すると、登拝者の多くは吉田口へ向かい、川口の御師は次第に減っていき、それと共に船津口も衰退していったと推測されます。 昭和初期には 船津口はバス道に利用され、1964年 富士スバルラインが開通するまで、河口湖駅から三合目経由で、小御嶽五合目へ向かうための登山バスが運行していました。
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