活動データ
タイム
04:54
距離
13.1km
のぼり
1331m
くだり
1331m
活動詳細
すべて見る明智光秀を巡る伝説は全国各地に残っており、岐阜県大垣市には「光秀が生まれた地」と伝わる地区があります。(諸説あります) 逆臣という喧伝が強い故、光秀を擁護する側の動きにも熱がこもります。 当該地区の方々の主張される光秀像は、どれもが尊く胸に響きます 北鈴鹿縦走コース…ワイルドな登山道です。急登、細尾根、岩場。景色は抜群。鈴鹿の厳しさと優しさを識ることができます 縦走コースでは、景色の良さに写真400枚以上撮りました。まるでコマ送り写真です笑 下山後は、大垣市上石津を観光しました。 写真コメント欄をご覧ください。 歴史があり、自然豊富…贅沢な観光地でした。本日も感謝‼︎ 感謝‼︎‼︎ ◉山容が「烏帽子」に似ていることが、山名の由来◉平安時代の末期に、熊坂長範がこの山を拠点として旅人を襲ったという伝説があります◉三重県では昔から「熊坂山」と呼ばれていました◉古くから北側の山麓は、大垣市上石津町から鈴鹿山脈の五僧峠を越えて滋賀県彦根市に至る要路◉関ヶ原の戦で敵中突破…島津越えが有名です◉ここ時山地区は、古い歴史の中で息づいています◉平家の落ち人が西国壇ノ浦より逃れて住みついた里とも言われています◉島津隊を助けて近江・多賀への峠道を逃しましたが、共に敗者が持つ心情からでしょうか…◉山麓の集落からは三角錐の端正な山容を望むことができ「美濃富士」とも呼ばれています◉冠橋付近から見た「烏帽子岳」が、大垣市景観遺産の一つに指定◉山頂付近にはツツジ科のホンシャクンゲやベニドウダンの岐阜県下有数の群落があります ◉輿越峠◉千数百年前の壬申の乱の舞台となった場所◉日本史上、最初の天下分け目の合戦で、甥と叔父が皇位をめぐって争った戦◉甥は天智天皇の息子大友皇子、叔父は天智天皇の弟で後に天武天皇となる大海人皇子。ちなみに大海人皇子の妻で、後の持統天皇は天智天皇の娘◉輿越峠は桑名に陣を構えた大海人皇子が関ヶ原に行く途中に通った所だと言われており、妃の後の持統天皇が輿に乗って通ったので、輿越峠と呼ばれているそうで、今もしっかりした山道が残っています◉持統天皇は伊勢神宮を今の場所に移した人とも言われているらしく、多賀大社から天照大神を移す際、壬申の乱の折、しばらく行宮のあった細野に神宮を作るはずであったのが、何らかの事情で叶わず、その行宮の後が細野地区にあった祖光寺となったという伝承が残っているということです ◉多羅城◉「明智光秀大垣市上石津出生地説」◉光秀は1528年に上石津多羅に生れ、多羅は進士家の居城◉母は明智家当主・明智光綱の妹◉明智家当主・光綱に子供がなかったので養子として明智城に…◉幼かった為、光綱の弟である叔父の光安が後見となったそうです◉明智城落城後、しばらく浪人して、足利義昭に仕え、その後織田信長に仕えたそうです 【他の明智光秀出生地についての活動日記】 『滋賀県多賀町佐目説』 初冬の山道を歩く!第4弾‼︎ 鈴鹿山脈最高峰!霧氷の御池岳〜湖東平野・鈴鹿の大展望と山村風景を楽しむ高室山‼︎ 明智光秀所縁の地‼︎ https://yamap.com/activities/5269886 『岐阜県山県市中洞説』 相戸岳‼︎『麒麟がくる』を巡る山旅⑥#1明智光秀の墓・桔梗塚と相戸岳‼︎ https://yamap.com/activities/5451824
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