活動データ
タイム
05:04
距離
4.9km
のぼり
693m
くだり
708m
活動詳細
すべて見る本来は下呂市と郡上市に股がる簗谷山(やなだにやま)を目指していました。しかし、登山口を目指す途中の県道86号線が土砂崩れで通れず、迂回を試みるも明宝からの別ルートは冬季閉鎖で通行不能。最後は国道257号線を郡上市から大回りするルートになりますが、行けばお昼を回ると予想されるので簗谷山は断念。この時点で既に時計は9時を回っていたので、近くに手軽に登れる山を物色。真っ先に目についたのが馬瀬の谷合を隔てて反対にある「仏ヶ尾山(ほとけがおやま)」でした。以前から気になっていた山ですが、余り人気がなく、距離も短いので敬遠していましたが、それが今回の条件にバッチリ当てはまり向かうことに。「仏ヶ尾山」などと変わった名前の山だと不思議に思いましたが、登山口に岐阜県の設置した標識がありその由来がわかりました。 <「仏ヶ尾山」の由来> 山麓の野上の猟師庄兵衛が、ある時、獲物を追って黒谷から山の尾に出た。ふと前方を見ると、明るい山の頂きの岩上に山鳥が止まっている。狙い定めて放つた弾は、確かに手ごたえががあった。近寄ってみると、山鳥だと思った獲物は阿弥陀仏如来像であった。驚いた庄兵衛は、この如来像を背負い悄然とわが家へ帰った。以来、ぷっつりと猟を止めたという。その後、誰いうとなく仏山の名が伝わっている。 何となく理由が単純過ぎて、内容にドラマ性を感じられない由来に驚きです。村を救ったとか、大金持ちになったとか、悪人を懲らしめたとかいう話を期待したいところですが、ある意味この飾りのない理由こそが真実なのだと思い、自分なりにその由来の背景を考えてみました。 この地域には、江戸の初期に円空上人(1632~1659)という何処の寺院にも属さない僧侶が居ました。円空は旅の中で、その土地土地の人々と触れ合いながら、独自の作風で木彫りの神仏を掘り続け修行を重ねた。この近くでも高賀山や瓢ヶ岳の麓には円空が修業したとされる洞窟や滝が紹介されるなど、馴染み深い存在です。下呂でも多くの円空仏が残っていて下呂市の合掌村や温泉寺などで紹介されています。その円空がこの地域を訪れ、この山の頂に登り、阿弥陀仏如来像を修めても何ら不思議はない。庄兵衛は円空の残した阿弥陀仏如来像を、山鳥と間違えて撃ったか、阿弥陀如来像が山鳥の身代わりとなったか…。 さて、かたや庄兵衛ですが、江戸期という武士の時代に、そもそも鉄砲などの高価で物騒なものが、一般の農民でも所持できたのでしょうか?調べてみると、鉄砲は戦の恐れが無くなる江戸期には、装飾を施し美術品として価値を高めることにより、大名や武士が所有するステータスシンボルとなる一方、実用面では農民に害獣駆除のための道具として普及したそうです。もちろん幕府や領主への届けが必要ですが、領地の農産物や或いはオオカミや熊から人命を守るために鉄砲は普及し使われていたようです。 私なりに解釈した仏ヶ尾山のストーリーは、「円空は修業のため訪れたこの山で、阿弥陀仏如来像を山頂に修めた。時は変わり猟師の庄兵衛は山鳥を追って山に入る。山頂近くで山鳥を見つけ、狙いを定めて撃ったら円空の阿弥陀仏如来に当る。庄兵衛は山鳥の身代わりとなった阿弥陀仏如来像の姿に殺生の愚かさを悟り、自宅に持ち帰って供養をし猟師を辞める。」 これこそが円空の教えではなかったか…。 今回は、こんなことを思い巡らせながら、仏ヶ尾山に登ってみました。
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