活動データ
タイム
01:09
距離
3.2km
のぼり
34m
くだり
34m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る始めに.. 2019年10月12日~13日に上陸した台風19号により、被害に遭われた方々には心よりお見舞いを申し上げます。 また被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。 さて、2019年10月20日。 孫の顔を見に埼玉県所沢へ行った帰りに少し脚を延ばして、お隣の清瀬市の丸嘉講「中里の富士塚」を散策して来ました♪ かつては江戸八百八町ならぬ江戸八百八講とも言われた富士講。(ちなみに富士講の開祖は長谷川 角行) しかし現在も活動を続けている富士講はごくわずかです。 東京都 清瀬市の丸嘉講武州田無組中里講社はそのひとつ。 丸嘉講は近江屋嘉右衛門を講祖とする富士講。(嘉右衛門の名前が丸嘉講の由来) その富士講が1733年(享保18年)に嘉右衛門の弟子から田無の秀行道栄という人物に伝えられ、その後、秀行道栄の熱心な布教により、現在の練馬区や西東京市、武蔵野市、調布市、埼玉県所沢市など近隣の村々に広がり「田無組」と呼ばれる講社の連合体が形成されたそうです。 講は地域ごとに独立して活動するのが一般的なので、「田無組」はかなり珍しい存在です。 鉄道が開通するまでは 途中で宿泊しながら甲州街道を歩き、大月を経て富士吉田口へ向かい富士登拝するのが基本でした。 往復で1週間から10日の行程です。 田無組は連合体なので、途中で他の講社の講員と合流しながら向かったようです。 最盛期には100人前後の田無組の講員が、甲州街道を富士山へ向かう姿が見られたそうです。 普通の富士講は 富士山に行くとしても、大体4~5人、多くて2桁なので、100人前後の人達が、揃いの白装束を着て甲州街道沿いをずっと歩いて行く姿は壮観だったと思います。 また、初期の頃には山梨側だけでなく静岡の方にも足を伸ばして富士山を目指していた時期もあったようで、世界文化遺産の構成資産のひとつである人穴富士講遺跡 (富士宮市 人穴浅間神社)には田無組の先達の石碑が何個か建っているそうです。 中里の丸嘉講は 現在も.. 1月上旬の御師・上文司家への初詣 6月1日の山開き 7月上旬の火の花祭の大松明に使う麦の棒打ち 7月下旬の富士登拝 8月下旬の吉田の火祭りへの参加 9月1日の中里の火の花祭 12月22日の星祭 と、活動されています。 こうした江戸時代からの祭事や富士塚が今も ちゃんと残っている所は 都内ではほとんど無いそうで、大変貴重であることから、1985年(昭和60年)に中里の富士塚が東京都の有形民俗文化財に、中里の火の花祭が東京都の無形民俗文化財に指定されました。
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