清瀬市 中里の富士塚 散策-2019-10-21

2019.10.21(月) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
1 時間 9
休憩時間
3
距離
3.2 km
のぼり / くだり
34 / 34 m
1 9

活動詳細

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始めに.. 2019年10月12日~13日に上陸した台風19号により、被害に遭われた方々には心よりお見舞いを申し上げます。 また被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。 さて、2019年10月20日。 孫の顔を見に埼玉県所沢へ行った帰りに少し脚を延ばして、お隣の清瀬市の丸嘉講「中里の富士塚」を散策して来ました♪ かつては江戸八百八町ならぬ江戸八百八講とも言われた富士講。(ちなみに富士講の開祖は長谷川 角行) しかし現在も活動を続けている富士講はごくわずかです。 東京都 清瀬市の丸嘉講武州田無組中里講社はそのひとつ。 丸嘉講は近江屋嘉右衛門を講祖とする富士講。(嘉右衛門の名前が丸嘉講の由来) その富士講が1733年(享保18年)に嘉右衛門の弟子から田無の秀行道栄という人物に伝えられ、その後、秀行道栄の熱心な布教により、現在の練馬区や西東京市、武蔵野市、調布市、埼玉県所沢市など近隣の村々に広がり「田無組」と呼ばれる講社の連合体が形成されたそうです。 講は地域ごとに独立して活動するのが一般的なので、「田無組」はかなり珍しい存在です。 鉄道が開通するまでは 途中で宿泊しながら甲州街道を歩き、大月を経て富士吉田口へ向かい富士登拝するのが基本でした。 往復で1週間から10日の行程です。 田無組は連合体なので、途中で他の講社の講員と合流しながら向かったようです。 最盛期には100人前後の田無組の講員が、甲州街道を富士山へ向かう姿が見られたそうです。 普通の富士講は 富士山に行くとしても、大体4~5人、多くて2桁なので、100人前後の人達が、揃いの白装束を着て甲州街道沿いをずっと歩いて行く姿は壮観だったと思います。 また、初期の頃には山梨側だけでなく静岡の方にも足を伸ばして富士山を目指していた時期もあったようで、世界文化遺産の構成資産のひとつである人穴富士講遺跡 (富士宮市 人穴浅間神社)には田無組の先達の石碑が何個か建っているそうです。 中里の丸嘉講は 現在も.. 1月上旬の御師・上文司家への初詣 6月1日の山開き 7月上旬の火の花祭の大松明に使う麦の棒打ち 7月下旬の富士登拝 8月下旬の吉田の火祭りへの参加 9月1日の中里の火の花祭 12月22日の星祭 と、活動されています。 こうした江戸時代からの祭事や富士塚が今も ちゃんと残っている所は 都内ではほとんど無いそうで、大変貴重であることから、1985年(昭和60年)に中里の富士塚が東京都の有形民俗文化財に、中里の火の花祭が東京都の無形民俗文化財に指定されました。

国分寺市 清瀬金山緑地公園の駐車場🅿️(有料)に車を停め、丸嘉講「中里の富士塚」に向かいます。
清瀬金山緑地公園の駐車場🅿️(有料)に車を停め、丸嘉講「中里の富士塚」に向かいます。
国分寺市 清瀬金山緑地公園には ケヤキやクスノキ、コナラ・エゴノキ・ウツギ・ヤマハギ等の樹木が植えられています。
清瀬金山緑地公園には ケヤキやクスノキ、コナラ・エゴノキ・ウツギ・ヤマハギ等の樹木が植えられています。
国分寺市 清瀬金山緑地公園のすぐ側を流れる柳瀬川。右側に桜並木。
清瀬金山緑地公園のすぐ側を流れる柳瀬川。右側に桜並木。
国分寺市 金山公園入口 交差点にお地蔵様。

右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つこのお地蔵様は、中里村に念仏講を開いていた二十八名によって江戸時代 宝暦五年九月吉日(1755年)に建立された地蔵菩薩です。歴史がありますなぁ♪
金山公園入口 交差点にお地蔵様。 右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つこのお地蔵様は、中里村に念仏講を開いていた二十八名によって江戸時代 宝暦五年九月吉日(1755年)に建立された地蔵菩薩です。歴史がありますなぁ♪
国分寺市 清瀬市 中里の富士塚に到着♪
清瀬市 中里の富士塚に到着♪
国分寺市 中里の富士塚に向かう途中に、中里の町の人に道を尋ねたら、「富士山は..」と話しておられたので、地元の人達は富士塚を富士山として親しまれているのだなぁと感じました。
中里の富士塚に向かう途中に、中里の町の人に道を尋ねたら、「富士山は..」と話しておられたので、地元の人達は富士塚を富士山として親しまれているのだなぁと感じました。
国分寺市 丸嘉講武州田無組中里講社により、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれた。文政8年(1825)再築という伝承や、頂上の石祠に同年の銘があることなどから、文化文政年間(1804~1830)の築造と考えられる。明治7年(1874)に2m程かさ上げされ、周囲よりの高さは約9mである。
北側の鳥居を潜ると登山道が九十九折りに続く。途中1合目から9合目までを記した小さな石柱がある。山頂には文政8年の石祠と、大日如来を刻む石碑が建つ。この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社を象ったもの。中腹には、富士山五合目に祀られる「小御嶽神社」の碑がある。少し下った先には、富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」の碑。その中間に、帰路で詣でる「道了大薩埵」の碑が建つ。
富士信仰に関する石造物を具備する一方、今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されている。また全山赤土で、一般の富士塚に見られる溶岩は一切使われていない。舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示している。なお、講に関する中里丸嘉講関係資料が附として指定されている。初期の富士塚として、また江戸後期に武蔵野に進出した富士講の活動を知る上で重要である。
と説明されています。
丸嘉講武州田無組中里講社により、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれた。文政8年(1825)再築という伝承や、頂上の石祠に同年の銘があることなどから、文化文政年間(1804~1830)の築造と考えられる。明治7年(1874)に2m程かさ上げされ、周囲よりの高さは約9mである。 北側の鳥居を潜ると登山道が九十九折りに続く。途中1合目から9合目までを記した小さな石柱がある。山頂には文政8年の石祠と、大日如来を刻む石碑が建つ。この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社を象ったもの。中腹には、富士山五合目に祀られる「小御嶽神社」の碑がある。少し下った先には、富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」の碑。その中間に、帰路で詣でる「道了大薩埵」の碑が建つ。 富士信仰に関する石造物を具備する一方、今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されている。また全山赤土で、一般の富士塚に見られる溶岩は一切使われていない。舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示している。なお、講に関する中里丸嘉講関係資料が附として指定されている。初期の富士塚として、また江戸後期に武蔵野に進出した富士講の活動を知る上で重要である。 と説明されています。
国分寺市 北側に向く立派な鳥居が お出迎え♪ 
\(^o^)/
北側に向く立派な鳥居が お出迎え♪ \(^o^)/
国分寺市 鳥居を潜って左側に手水舎があります。
鳥居を潜って左側に手水舎があります。
国分寺市 参拝するために身を浄めます。
参拝するために身を浄めます。
国分寺市 馬頭観世音と刻まれた碑には文化6年(1809年)と刻まれています。
馬頭観世音と刻まれた碑には文化6年(1809年)と刻まれています。
国分寺市 講碑の上部に丸嘉講の印が彫られています。
講碑の上部に丸嘉講の印が彫られています。
国分寺市 左右、両石碑は丸嘉講の碑。
左右、両石碑は丸嘉講の碑。
国分寺市 大勢の名前が刻まれた大きな講碑。
こちらの講碑の上部にも丸嘉講の印が彫られています。
大勢の名前が刻まれた大きな講碑。 こちらの講碑の上部にも丸嘉講の印が彫られています。
国分寺市 登山道は九十九折りに続き、途中には「一合目」から「九合目」までを記した小さな合目石が置かれています。
登山道は九十九折りに続き、途中には「一合目」から「九合目」までを記した小さな合目石が置かれています。
国分寺市 明治八年奉納の碑
薄っすらと猿が彫られています。
明治八年奉納の碑 薄っすらと猿が彫られています。
国分寺市 庚申塔
下部には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫られています。
素晴らしい~🎵😍🎵

60年に1度の庚申の年は「御縁年(ごえんねん)」として特別視されています。
庚申の年に、富士山は 突然空が晴れ渡って姿を現したという伝説が残っているからです。
庚申塔 下部には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫られています。 素晴らしい~🎵😍🎵 60年に1度の庚申の年は「御縁年(ごえんねん)」として特別視されています。 庚申の年に、富士山は 突然空が晴れ渡って姿を現したという伝説が残っているからです。
国分寺市 庚申塔は享保19年(1734年)の物で、この時の将軍は八代 徳川吉宗。
庚申塔は享保19年(1734年)の物で、この時の将軍は八代 徳川吉宗。
国分寺市 お地蔵様と庚申塔が拝された山麓右側に、御胎内巡りを模した風穴も掘られていますが、現在は危険なため鉄板で封印されています。
お地蔵様と庚申塔が拝された山麓右側に、御胎内巡りを模した風穴も掘られていますが、現在は危険なため鉄板で封印されています。
国分寺市 庚申碑
庚申碑
国分寺市 小さな狛犬さん♪
可愛い~❤️
小さな狛犬さん♪ 可愛い~❤️
国分寺市 富士山最古の神社「小室浅間神社」 (現 冨士御室浅間神社)の碑
富士山最古の神社「小室浅間神社」 (現 冨士御室浅間神社)の碑
国分寺市 二合目 石柱
二合目 石柱
国分寺市 一合目の「鈴原天照大神社」の碑
一合目の「鈴原天照大神社」の碑
国分寺市 富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」(たかおさん あじゃりみょうおう)の碑
富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」(たかおさん あじゃりみょうおう)の碑
国分寺市 三合目 石柱
三合目 石柱
国分寺市 四合目 石柱
四合目 石柱
国分寺市 富士山五合目「小御嶽神社」の碑
富士山五合目「小御嶽神社」の碑
国分寺市 六合目 石柱
六合目 石柱
国分寺市 七合目
七合目
国分寺市 八合目 石柱
後ろの石祠は手引薬師 (現 迎久須志神社)と思われます。
八合目 石柱 後ろの石祠は手引薬師 (現 迎久須志神社)と思われます。
国分寺市 九合目 石柱
九合目 石柱
国分寺市 山頂が見えて来ました♪
山頂が見えて来ました♪
国分寺市 山頂の奥宮へ参拝
山頂の奥宮へ参拝
国分寺市 左側の奥宮を表す頂上の石祠は「仙元大菩薩」の社を象ったものです。側面に「文政8年3月」の銘があることから1825年と考えられます。当時の将軍は11代 徳川家斉。

右側は 「大日如来」が彫られた石碑。
このような事から当時は 大日堂 (現 浅間大社奥宮) を現していたものと推測します。
左側の奥宮を表す頂上の石祠は「仙元大菩薩」の社を象ったものです。側面に「文政8年3月」の銘があることから1825年と考えられます。当時の将軍は11代 徳川家斉。 右側は 「大日如来」が彫られた石碑。 このような事から当時は 大日堂 (現 浅間大社奥宮) を現していたものと推測します。
国分寺市 大日如来が彫られています。
大日如来が彫られています。
国分寺市 山頂から見下ろします。
高さ約9m、直径15mほど、赤土を盛り上げて円錐状に築いた富士塚です。
柳瀬川に向かって傾斜する丘の縁に築かれたためか?9mより高く感じます。
頂上から本物の富士山も見えるそうですが、今日は曇り空で残念(>_<)
山頂から見下ろします。 高さ約9m、直径15mほど、赤土を盛り上げて円錐状に築いた富士塚です。 柳瀬川に向かって傾斜する丘の縁に築かれたためか?9mより高く感じます。 頂上から本物の富士山も見えるそうですが、今日は曇り空で残念(>_<)
国分寺市 富士講が帰路で詣でる 神奈川の道了尊 大雄山最乗寺、「道了大薩埵」の碑。
富士講が帰路で詣でる 神奈川の道了尊 大雄山最乗寺、「道了大薩埵」の碑。
国分寺市 下山を終え、ご満悦のふじ爺さん(笑)
下山を終え、ご満悦のふじ爺さん(笑)
国分寺市 まるで富士山のジオラマ♪
めっちゃ楽しい~🎵⤴️
まるで富士山のジオラマ♪ めっちゃ楽しい~🎵⤴️
国分寺市 中里の富士塚の南側に向かいます。
中里の富士塚の南側に向かいます。
国分寺市 鳥居と反対側の南に「宝永山」碑。
北側に鈴原天照大神社と小室浅間神社、南側に宝永山ということで、中里の富士塚は富士吉田口から見た富士山という事になりますなぁ♪
鳥居と反対側の南に「宝永山」碑。 北側に鈴原天照大神社と小室浅間神社、南側に宝永山ということで、中里の富士塚は富士吉田口から見た富士山という事になりますなぁ♪
国分寺市 チビッ子達へのお触書(笑)
チビッ子達へのお触書(笑)
国分寺市 楽しかった中里の富士山を後にし、清瀬金山緑地公園に戻ります。
楽しかった中里の富士山を後にし、清瀬金山緑地公園に戻ります。
国分寺市 中里の富士塚に行くには、清瀬中里郵便局と清瀬富士見幼稚園を目印にするといいと思います。
中里の富士塚に行くには、清瀬中里郵便局と清瀬富士見幼稚園を目印にするといいと思います。
国分寺市 清瀬市の欅(ケヤキ)図柄のマンホール蓋。
清瀬市の欅(ケヤキ)図柄のマンホール蓋。
国分寺市 清瀬市の柳瀬川には カワセミやカワウ、コサギが 良く遊びに来るそうです♪
清瀬市の柳瀬川には カワセミやカワウ、コサギが 良く遊びに来るそうです♪
国分寺市 清瀬金山緑地公園に到着しました。
お疲れ様でした🍀
清瀬金山緑地公園に到着しました。 お疲れ様でした🍀

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