活動データ
タイム
04:34
距離
6.6km
のぼり
284m
くだり
290m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る今日は天気も良く秋の清涼な空気に誘われて、前から気になっていた鹿背山城跡に行ってみた。 最寄りのホームセンターで昼の食材を購入して、新しく造成された住宅地や工事中の道路を辿って、西念寺を目当てにいくことにする。ヤマップの地図には、この城跡の表示は無いからだった。 Google地図で確認すると西念寺が城の入り口で、これに続く道が大手道になっているようなので、此処を目標に決めて進む。 南山城地域の特徴 大きな時代の移り変わりを通じて、この地域は、動乱と安定か繰り返された場所で、しかもその後、したたかに地域の人々が生活を安定させてきたことが特徴だという。古くから大和の王権に対抗する勢力の場。 それに川や山の稜線で境界となるのが普通の地域区分だが、ここではそうではない。川の東西にわたって一体の地名になっている。また、木津川を中心として交通が開け、全体性をもっている。 反骨精神が高い土地柄である。 この地方を最も早く束ねたのは4世紀 大筒木垂根(おおつつきたりね)で、この筒木が綴喜郡の地名のもとであり、椿井大塚山古墳の被葬者の説がある。またこの姫が竹取物語のかぐや姫のモデルである。 木津川西岸を支配したのは王子の大筒木真若、丹後国王と姻戚関係を重ねた。 しかし次の時代には、この地の有力者武埴安彦(はにやすひこ)が大和朝廷に反乱を起したので惨めな地名を付られている。神話での埴安神は大便の神だ、一種の制裁だ。 記紀にある地名。 則ち、元の羽振苑(はふりその)は、武内宿禰の大和軍が来て埴安彦 全部を屠っていった地・・今の地名は祝園(ほうその) また相楽郡の相楽はもともと懸木(さがりき)と言われた。丹波の王族の娘の一人が嫁いだ大和朝廷の天皇に「顔が醜いから故郷へ帰れ」と言われ帰る途中、首を吊ったが失敗したその木が懸木(さがりき)これが後に「さがらか(相楽)」と変った。しかもその娘はもう一度自殺を図り、淀川を渡った乙訓で淵に身を投げて死んでしまう。乙訓(おとくに)は堕国(おちくに)が元の地名。 さらに、屎褌(くそばかま)が訛って枚方の樟葉(くずは)となる。 国名ヤマシロの表記は時代順に、 山代、山背、山城と表わされて来たやましろ国。 山代・・平野が少なく山地が多いことによる。古事記にみられる。枕詞はツギネフ(山が連なる) 山背・・大宝令(七O一)以後の表記山の後が縮まってやましろ 山城・・延暦十三年(七九四)10月に平安遷都が行われ翌月に出された詔。「此の国山河襟帯、自然に城を作す。斯の形勝に因りて、新号を制す可し。宜しく山背の国を改めて山城の国と為すべし」によって確定した表記である。 鹿背山を歩く 里村の中をかなり入って行くが、その途中には、あまりこの城には関心を示すが如き標示は無く、新規の道路を造る工事が目を引くばかりだった。 村内に入り歩くこと暫くして、鹿背山柿選果場があった。これを過ぎて、西念寺の参道がある辺りまで来ると、寺とお城を案内する石碑が路縁に立っていた。 ようやく場所が見付かったことと、行っても良いのだという思いが出る。こういうシチュエーションでは、我らハイカ―の安堵感が出て来るものであると思う。 青い瓶を外に突き出すように、外壁に埋め込んだ不思議な家屋が目に入る。此処が寺への参道入り口の対正面だ。 参道を上がると、すぐにお寺だった。お寺は立ち入り禁止なのでスルーして、お墓とそこに生えているバナナの木を左横にみて、城への大手道にいく。とその時、上から降りてくる一人歩きの人と出合った。 話のニュアンスから、どうやら城マニアらしき女性と遭遇したようだ。京都市から来られたようで、明智の居城の話など少ししていた。 頂上は見晴らしよくて、木津川が見える様だ。 道はサブルートへ行くと急激な土塁が多く有るという事だった。 面白い事は先に遣りたい我ら二人だから、此処からサブルートへと往くてを変更した。 暫く行って薮蚊が多いので、耐えきれず蚊取り線香を点して長袖を羽織った。 畝状空堀群のそこは、確かに土塁が多くゴツゴツが沢山だった。 この内の一つの土塁の上にシートを広げて昼食を摂った。 その後コースを見つけて主郭の135mに登り詰めることが出来た。弓矢の飛ぶ中では、小さくてもこの山城を落とすのは大変な苦労であろう。例えば籠城でも水には困らないだろう。下山時に水が溜まった池があちこちに沢山有った。だから、なる程蚊が多い訳だ。 古きを賀世山(鹿背山)と記するらしい。この地は、カムナビの山、泉川(木津川)は神秘な水が流れる川、鹿背山の枕詞は大和の三輪山と同じ「三諸つく」で神の鎮座する山という意味がある。那羅山(ナラヤマ)を越え古都奈良へとつづく要所。 鹿背山城跡について 城跡は、木津川市鹿背山鹿曲田の集落、通称「城山」の山頂に所在する中世の山城で、ほぼ鹿背山全山を城郭としており、東西350m、南北300mの規模で南山城地方最大で周囲の風景に溶け農村の里山らしい景観となっています。沿革は定かではないが(1188年頃に着工の記述もあるが)、少なくとも15世紀後半文明年間に奈良興福寺と関連する仏教施設おかれ、後に軍事的性格が加味されて「興福寺出城」となつたと考えられる。 文明年間(1469~1487)大乗院寺社雑記の記事で、ここが興福寺被官の木津氏の山城であつたことが分かっている。主郭I部は興福寺段階で完成し松永はそのまま維持した。 文明年間の100年後の永禄年間1565年頃には、大和多聞城を本拠とした松永久秀が北方の山城方面の押さえとして修築城したといわれる。大和ー国支配として、鹿背山城、信貴山城、多聞山城、竜王山城を結んだ大和国防御の中核施設となつた。ところが元亀ニ年(1571)辰市の合戦で松永軍が筒井順慶に敗れると、大和は織田信長政権下となり衰退する。 現地 西念寺の谷筋道(大手道)を登りつめると城の入口だった。城郭の中に入ると古の城はそのままに今に伝わった感じだ。 3つの地区に分れ主郭が連接する構造。各主郭から20以上の腰曲輪と掘切が点在している。目を引くのは、大きな畝状竪掘群の存在で防御の徹底ぶりを示していた。 石垣式の城に劣らない守りだ。 城跡発掘調査報告 報告文献を読むと、 主郭I部 15世紀の羽釜・擂鉢が出土している。松永以前の興福寺の時に主郭lは形成され、人が生活していた。 15~16世紀の土師器・瓦質土器擂鉢、銭貨(紹聖元宝)が出土 主郭Il部 埋土中から炭と火を受けた石や コマイ(土壁の下地)の痕跡を残した焼壁土が出土、造成工事の痕跡が確認された。15世紀の土器出土の中、天正以後に中国の貨幣を真似て鋳造した私鋳銭「開元通宝」が出土しており、この先に曲輪や土塁が広がるので松永の造成ではと考えられている。「多聞院日記」による天正2年(1574)4月25日の鹿背山城落城により、松永久秀の時代は終る。 日露戦争の紀念碑に行く 城の帰りには、少し足を延ばして明治三十七八年戦役記念碑にも行ってみた。此処は日露戦争の戦勝記念碑だともいえる処だった。 名称 「明治三十七八年戦役紀念碑」 何だこれは、この歴史を振り返る。 日清戦争 明治27年7月25日(1894)〜明治28年11月30日(1895)に清と朝鮮の支配権を争った戦争に勝利の後に 台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲した。(その後 仏独露の三国干涉で遼東半島は手放した)。 日露戦争 日清戦争の後に、 明治37年2月8日から38年9月5日にかけての、1年7ヶ月間を今度は旧制ロシアの南下政策を押しとどめる為に、ということで戦争する。戦場は中国と韓国の地上及び日本海上(当時の無敵艦隊)である。覇権を争って、ロシアの二コライ2世と明治天皇がたたかう。 結果は日本が勝利し、ポーツマス条約により(斡旋は米国のル−ズベルト大統領でポ−ツマスの功績で、ノ−ベル平和賞授賞する。後にルーズベルトの死で、副大統領だつたトル−マンが大統領に成る。これが太平洋戦争で日本の降伏の動きを知りながら原爆を投下する)講和した。ロシア指揮官はアレクセイ・クロパトキンで子供の頃唄った、お手玉遊びの数え唄にでてくる名前だったと記憶している。日本側勝者は東郷元帥でしたね。 勝利の結果、日本は朝鮮半島の利権を全面的に承認された外、ロシア領だった樺太南半分を割譲され、ロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を移権された。東清鉄道の旅順一長春間支線の租借権を移譲された。山縣有明は参謀総長として名をあげた。 しかし賠償金は取れず、戦費借金返済が嵩む結果になる。 樺太には王子製紙 富士製紙 樺太工業などプ比プ産業企業が進出した。また明治維新以来の不平等条約改正の達成に寄与した。 また、アジア諸国に西欧諸国の植民地化に対する有色人種の独立運動が起こる機運をもたらす。 明治天皇は帝国軍人後援会に対し以下の慰労の勅語を下している。 「明治三十七八年の戦役に際し時に及び財を募り、以乙軍人、家族、遺族、廃兵救護の経営に資し、克く軍人援護の績を致せり、朕深く之を嘉す。」 戦カ 日本30万人。 ロシア50万人。 損害 戦死者 日本 55,655人 18.6% 口シア 34,000 6.8%~52,623 10.5% 病死 日本 27,192 9.1% ロシア 9,300 1.9%~18,830 3.8% 負傷者 日本 153,584 51.2% ロシア 146,032 29.2% 捕虜 日本 1,800 0.6% ロシア 79,000 15.8% 損害計 日本 238,231 79.4% ロシア 352,032 70.4%~ 296,485 59.3% 日本兵は消耗度合が高いことが歴然としている。死亡者が多く捕虜が殆んどいない。ロシアは捕虜が多い。こんなに消耗多いのに本当に勝利者なのか?と思う。 相楽郡の慰霊と戦勝記念 慰霊碑 郡尚武義会が組織した軍人家族救護会が「遺家族の貧困者を救護し応召軍人をして役顧の患なからしする為め」と、1905年10月設立した機業講習所に隣接してあった忠霊殿が木津高校裏手の内田山丘陵地に移転して1950年まで有った筈だが見立らない。1944年に日清戦は恒例の吊慰霊も行われず機能は失なわれている。こんは行為は一時的な盛り上りで終わるのは常の事。しかし「宣揚威武」の搭は有るのだが。成功体験は忘れられない。 日露戦役記念碑 「宣揚威武」の塔 日露戦争を物語るもうひとつの施設が今回行ったこの石碑だった。 基壇六角形径 4.8m高さ1.1m 波濤と碇石積台座径 3m高さ1.7m 三稜矛型石碑高さ 4m 総高7m 「明治三十七ハ年戦役紀念碑」 城南郷土史を調べてみた。1906年の凱旋祝賀会の折、郡尚武会長の後藤善二郡長が提案し、自ら設計、尚武義会が建設した。 日清戦争後に、木津町南大路の天王神社に建られたものは、方柱のシンプルなものであった。今回は大がかりだ。 碑の形は、陸海軍に因み銃剣と星章を形どり波に碇を現したもの。 郡の建設資料には、「曠古無比の戦捷を万世無窮に伝ヘ、以て尚武の気象を振作し、義勇奉公の精神を発揮せしむることとせり」と記している。今はなかったが台座の6ヶ所に砲弾が据えられていた様子。戦時教育のシステムと言える。 碑の正面 宣揚威武の刻まれた面。 この文は、勝利宣言であるとともにあらたな戦闘宣言を思わせる 台座に、凱旋者の名が記録された、紀念碑の性格が出ている。 相楽園がここにあった。 橘 尚彦が郷土研究会誌に書いている。日露戦争時の相楽郡は19の町村が分立し、郡行政の持つ主導力は大きなものがあった。日露戦争後、膨大な戦費負担にあえぐ郡民の生活と産業を再建するため、地方改良運動が取り組まれた。その先駆けが、戦事紀念農園「相楽園」だった。郡当局は「木津駅より眺望し得べし」相楽園に「明治三十七八年戦役紀念碑」を建て、忠霊殿を機業講習所から移設し、慰霊と顕彰をてこに、産業振興走目指すシンボルとしたのである。 国鉄木津駅のプラントホームで汽車走待つ相楽郡の人々の目には、東北方向「相楽園」に四季の花が咲き果樹園の緑が萌え、その南の頂には「紀念碑」が聳えていたのである。 まとめ 今回のハイキングから大和朝廷成立前後からヤマシロの成立ち、中世室町の城跡の変遷、日露戦争碑から国際戦争の地域に与えた近代の一面を見る事ができた。 結果、いずれも戦いの歴史だつた。一般人の犠牲に成り立つ傷跡のある歴史だ。 なんとかして変えたい、の願いから和暦の流れがある。 世の中の平和と人々の安寧を願って、暦名を変えて来た事も事実だろう。 和歴は今年から、令和と成った。いままで戦のなかった御世は、きっと平成くらいだろう。 天皇の生前退位と禅譲が平和理に行われた稀有な御代であり、輝かしい歴史の足跡だったと思う。 今年は5月から令和元年だ。 今、正に令和天皇の「即位礼正殿の儀」が執り行なれている。 立派な平和と発展の誓いだつた。其のような政治を真剣にやって欲しいと切望する。 読んでくれた方、根気に感心とともに感謝します。ありがとうございました。
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