活動データ
タイム
00:05
距離
381m
のぼり
0m
くだり
0m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る2019年8月15日 御盆の満月の夜、 最愛のエリザベス(13歳♀)が私の腕の中で息を引き取りました。 今年正月に乳腺腫瘍(乳ガン)が発覚。 1月下旬と2月下旬に乳腺摘出手術をして経過観察。 4月中旬にリンパ節への転移が判明し、緩和ケアに移行。 6月中旬には肺転移が見つかり、転移性肺ガンによりステージは最終段階。 6月下旬、余命1ヶ月以内との宣告。 4月のリンパ節への転移の時点で余命は数ヶ月と覚悟し、 闘病記録をつけ始めました。 明日への希望をこめて、そしてこんな時だからこそ明るい気持ちで猫たちとの暮らしを充実させようと、燦々と降り注ぐ陽光のような色合いの黄色い手帳を選びました。 手帳の1ページ目には「いつか来るその日に備えて、猫たちとの日々をより良く生きるために」というテーマを記し、以下の4つの約束事を掲げました。 ☆猫の前では決して不安そうな顔をしない。とにかく笑顔で優しく接する。 ☆これまでと何も変わらない穏やかな日常の1コマ1コマを大切に。 ☆末期には仕事を全部休む。 ☆必ず住み慣れたこの部屋を最期の場とする。 かかりつけの獣医、腫瘍科認定医、そして往診専門の獣医から「肺ガンの末期には呼吸困難に陥ります。餌を食べられず、水を飲めず、横たわる事も 眠る事もできない過酷な状況になるので、時期を見極めて安楽死させる事が選択肢となります。」と告げられました。 私は当初は 不殺生という仏教的な観点から、安楽死に対して強い抵抗感がありました。しかし、肺ガンについて調べていくうちに、最終的には安楽死を選択する事が愛猫の為になる、と納得しました。 子猫の時からずっとのびのびと穏やかに暮らし、のんびり屋で甘えんぼうでおおらかな性格に育ったエリ。 その猫生の最期が、食べる事も眠る事もできずに何日もかけて徐々に溺死させられるような壮絶な苦痛と恐怖に満ちたものであってはならない。 安楽死という選択は、穏やかな猫生のまま苦しまずに眠るように息を引き取ってもらう為の、飼い主として最後にしてあげられる愛の施しになる、と。 …… 猫たちとの出会いは、今から13年前の2006年5月でした。 当時の勤務先だった中学校に出勤して職員室に入ると、猫の鳴き声が聴こえてきました。驚いて見に行くと、段ボールの中で2匹の子猫が寄り添っています。 校庭の片隅にある石灰倉庫の中で石灰まみれになって鳴いているところを生徒が保護したとの事でした。 管理職が「昼過ぎに保健所に電話するか」と呟くのを聞いた私は咄嗟に「自分が面倒を見ます」を手を挙げていました。 校内の相談室を間借りして段ボールハウスを作り、仕事そっちのけで子猫の世話に明け暮れた数日間。 生徒が「エリザベスとゴンザレスにしよう!」と名前をつけてくれました。 エリは片眼が少し下に偏った斜視で、性格は臆病で人見知り。 一方、ゴンは社交的で誰にでも人なつっこく甘える人気者。 ゴンはみんなから可愛がられましたが、エリは人に囲まれたり触られたりすると体調を崩してしまい、一時は獣医から「この子は生き延びられないかもしれない」と言われたほどでした。 私は当初は2匹ペアで引き取ってくれる里親を探しましたが見つからず、世話をしているうちに自分が一人暮らしをして飼おうと決意し、猫たちを一時的に実家に置きました。 実家には既に犬や猫たちがいるので実家では飼えない状況でした。 2006年7月、都内の職場の近くにマンションを借りて、私と猫たちとの生活が始まりました。 どんなに仕事で疲れた時も、人間関係に悩んだ時も、冬の寒さに凍えそうな時も、部屋に帰れば二匹の仲良し姉妹猫が無邪気に出迎えて甘えてくれる…その温もりがどんなにか私の心に安寧をもたらし、癒しと喜びを与えてくれた事か…。 部屋にお客さんが来ると、人なつっこくて甘え上手、好奇心旺盛なゴンがおもてなし。小柄で敏捷なのでお客さんともよく遊びます。 そんなゴンとは対照的に、エリはとにかく臆病で人見知り、いつも物陰に隠れていました。 しかしお客さんが帰ると安心して出てきてお腹を見せて寝そべり、私にベッタリと甘えます。エリは私だけに心を許し、甘えてくれる猫でした。 二匹は性格や体型こそ違うけれど とにかく仲良しで、食べるのも寝るのも遊ぶのもいつも一緒でした。 東京下町のマンションの一室で、エリとゴン2匹合わせて「エリゴンズ」との幸せな日々は、ずっと続くように思われました。 しかし、2019年 正月、エリの乳ガンが発覚。 1月2月の大きな手術を無事に乗り越え、獣医にも驚かれるほど元気に過ごしてくれていたので、その頃の私はまだ楽観的でした。このまま寛解、完治に至ってくれるのではないかと。 しかし4月中旬、リンパ節への転移が判明。この時点でガン細胞は全身に飛んでおり、どこに転移巣ができてもおかしくない状況です。もう積極的な治療法は無く、緩和ケアの段階に入りました。 私はガンの抑制効果があるとされる薬を与え、評判の良いサプリメントを飲ませ、食いしんぼうのエリに好きなものを何でも喜んで食べてもらえるよう、いろいろな種類のパウチやスープを買い込んで揃えました。 6月中旬、ガン専門医による診断で、最も恐れていた肺転移が発覚。 ガンの肺転移はデータ上では一切の例外無く3ヶ月以内に死亡する事を意味します。 その後もガンの肺への侵襲は容赦無く進行し、6月下旬、ついに余命宣告が下されました。 「もう1ヶ月は もたないでしょう。あと2週間程度で何も食べられなくなり、呼吸困難が進行します。QOLが保てなくなれば安楽死の処置が考えられますが、タイミングは飼い主様の判断です。私が往診してタイミングを見極める助言はできます。日取りが決まれば看護師と二人でお伺いし、致死量の麻酔薬を投与する形になります。」 病院からの帰り道、私は涙をこらえる事ができませんでした。ふくよかな体型のエリが入ったキャリーバッグは命の温もりを伝えてずっしりと重く、網越しに外気の匂いを嗅ぐエリの鼻先が見えます。 もうすぐ、エリとお別れしなければならない…。私の足取りは地にめりこむように重く、そして宙を踏むように虚ろでした。 ガンの一部が脳に転移し、痙攣発作で倒れた夜。脇の下にできた腫瘍が破裂し、大量に出血した夜。呼吸に異音が混じり始めた夜。 私はこの頃から毎日、夜が怖くなりました。 全身状態の悪化を示すさまざまな症状を呈しながらも、ふだんのエリはこれまでと変わらず食欲は旺盛で、これまでと同じように私に常に甘え、のんびりと穏やかな表情で過ごしていました。 苦いであろう薬を頑張って飲み、不器用な私の下手くそな包帯替えもよく我慢してくれました。 辛い思いをしているはずなのに私を見上げる瞳はいつも無邪気で温かく、私に全幅の信頼と愛を寄せてくれているのが伝わってきました。 予め業者からレンタルしていた酸素室に閉じ込める事なく部屋で日常生活を送れる日々が続き、獣医からは「稀に末期ガンでも胸水が溜まらないタイプの子がいます。まだ餌を食べられているのは幸運にも胸水が溜まっていないからでしょう。とても珍しい事です。よく頑張っていますね。」と言われました。 7月13日。余命宣告通りなら命のリミットが迫っています。リンパ節転移から3ヶ月、希望をこめた黄色い手帳は日々の記録で埋まり、新しい手帳を買いに行きました。 2冊目の手帳の表紙はエリに似た雰囲気の猫のイラストで、「わたしは食べる事と寝る事が大好き。今夜のディナーは何?」と英語で書かれています。 食べる、寝る、というエリの幸せがせめてもう少しだけでも続きますように、という願いをこめて選びました。 この日は満月でした。先月の満月の夜、月明かり射す窓辺でくつろぐエリを撫でながら、次の満月も平穏に過ごせますようにと願いましたが、それが叶ったのです。 夜闇が怖いとは感じても、月明かりや星明かりは、ともすれば絶望に塗りこめられそうになる私の心を照らす光でした。 エリの病気の事を人に話すと、皆さん「まだ若いのに、可哀想に…」と境遇に同情してくれました。 しかし私は内心「エリは可哀想な猫なんかじゃない。こんなに頑張って健気に生きているんだから。」と反発を覚えていました。 「最後まで奇跡を信じて!」と励ましてくれた方もいましたが、ガンが消える奇跡を信じるほど私は信心深くもありませんでした。 猫たちの前で不安な顔は見せず明るく元気に優しく接する事を心がけていましたが、一歩外に出ると気持ちは重く沈み、食欲が失せて体重も落ち、この頃が一番精神的に辛かったように思います。 いい歳をした中年男が、人に見られないよう仕事帰りの暗い夜道で、猫に気づかれないようマンションの階段で、堪えきれない涙を拭っていました。 7月19日。 セミの初鳴きを聞く。例年なら梅雨明けの頃だが、予報は月末まで陰鬱な曇りマークと雨マークに塗りこめられ、一向に明ける気配が無い。 エリと夏を迎える事はできるのだろうか…。 もう多くは望まない。こんな灰色の梅雨空ではなく、せめて明るく青い夏空の下で、そして叶うならできるだけ穏やかな最期を迎えてほしい。それだけを願う。 7月20日。 中学校が夏休みに入り、31日まですべての仕事を休んで猫たちと過ごす計画。まだエリは基本的な生活の質を保って穏やかに過ごせているが、歩いただけで呼吸数が増す。酸素室に入れたり酸素マスクをあてがう時間が増えてきた。 7月29日。 東京で連続降水32日間を記録し、日照時間の短さや低温の記録をも塗り替えながら52日間続いた長い長い梅雨が明けた。 1ヶ月以内との余命宣告からちょうど1ヶ月。まだエリは食事を楽しみ、よく甘えてくれる。エリと共に夏を迎える事ができて感謝。 8月3日。 マンション屋上から東京千葉埼玉の7つの花火大会が見える。眼下の公園では盆踊り。空気が澄んで夜空を彩る大輪の花が遠く近く、とても美しい。この日までエリが生きていてくれるとは想像していなかった。本当にうれしく、感謝。 8月4日。 盛夏到来。連日35℃を超える猛暑日が続く。 エリはついに24時間 酸素室生活。 世界はこんなに広いのに、エリはもう大気中の酸素濃度20%では苦しくて、狭い酸素室の中でしか生きられない。 それでも透明なアクリル板越しに、世話用の小さな丸窓に身体を寄せて甘えてくれる。丸窓から腕を入れてエリの身体をたくさん撫で、寝る時にはアクリル板を挟んで顔を寄せ合って寝る。 ゴンは何かを察したのかおとなしく過ごし、酸素室の中のエリを見守っている。最近 時々、二匹が目で何事か語り合っているように見える。 8月9日。 酸素室濃度27%。投薬時にエリが開口呼吸を始める。既に肺の呼吸機能の半分以上が失われ、末期症状を示す。それでもまだ餌を食べ、眠り、排泄もでき、無邪気に甘えてくれる。 8月10日。 15日までお盆休み。全力看護に入る。平常心を保つべく努力しながら、明るく優しく笑顔を心がける。投薬時には必ず開口呼吸になってしまう。酸素室濃度を30%まで上げた。酸素室の機能では約40%が限界値。40%まで上げても苦しくなったら、いよいよ最後の選択をしなければならない。 エリの肺はあと何日耐えられるのだろうか。 8月12日。 看護にかまけていたので部屋が荒れている。一念発起して部屋を掃除。酸素濃度33%。エリは身体を起こすだけで肩で息をして動きは緩慢だが、まだ餌を食べ、水もよく飲み、たくさん甘えてくれる。しかしトイレでは体勢を保てず、粗相してしまった。綺麗好きな猫にとって、粗相は耐えがたい事だろう。不安げに私を見つめるエリを「大丈夫大丈夫、いいんだよ。」と撫でているうちに涙をこらえきれなくなる。 8月13日。 夏空に映える入道雲が眩しいほどに白く光る。蝉たちの命の謳歌が賑々しい。 夜、遠くから盆踊りの太鼓が聴こえた。 エリの開口呼吸が始まり、酸素濃度を一気に38%まで上げた。深夜には微かな痙攣を伴う喘鳴呼吸。酸素室の隙間を養生テープで塞ぐ。酸素濃度39.2%。 明け方には少し落ち着いたようで、ゆっくりと起き上がり、お気に入りの餌を食べた。 8月14日。 酸素濃度40%。酸素室から出してマスクを口元にあてがい、最後になるかもしれないガーゼ交換に踏みきる。丁寧に丁寧に…。これまで何度も失敗してうまくいかなくて負担をかけてしまったガーゼ替えが、今日はとてもうまくできた。エリもじっと耐えてくれた。頭と背中も何度も撫でて労う。薬も頑張って飲んでくれた。暫くそのままエリを部屋に出しておくと、ゴンがやってきて横に並んだ。自分も横に並び、窓越しに夏空を見上げる。みんなでゆっくりできる最後のひとときになるかもしれない。夜、養生テープを貼りめぐらせて隙間を塞いだ酸素室の酸素濃度は41%。しかし、エリは痙攣を伴う大きな呼吸。もう肺が限界に近い。明日、病院に電話しよう。それでも15日の明け方にはおいしそうにフードを食べた。 8月15日。 台風11号が西日本に上陸の見込みだが東京はまだ晴れている。朝、酸素室を開放して直接吸入に切り替えたがエリは珍しくマスクを嫌がる。しかし、好物の魚のスープは舐めてくれた。窓を開けると今日も蝉の鳴き声が大きい。獣医に電話して状況を伝えると、「このあと浅く速い呼吸になり、呼吸が尽きるまでは最長3日間くらいでしょう。厳しい状況になります。」と告げられた。もう、これ以上苦しませる事はできない。翌16日午後に来てもらい、楽にしてくれる注射を打ってくれるように最後のお願いをした。エリの寿命を、飼い主の責任で決めた瞬間だった。 酸素室を目貼りする養生テープを切らしてしまったので買い物に出ると、明るい空から天気雨が降り注ぎ、風が強まっていた。 12時間おきに飲ませなければならない薬を、もう丸1日以上 飲ませる事ができていない。投薬には酸素室から出す事が必要だが、もうそれが可能な状況ではなかった。呼吸の苦しさと癌の痛みが、明日までエリの身体を苛む事になる。せめて、癌性疼痛だけでも緩和してやりたい。しかし以前お世話になった往診医はお盆の中日とあって休診。ネットで調べ、急遽 別の往診医に来てもらい、即効性のある痛み止めの注射を打ってもらった。 安楽死について意見を求めると「私なら、今この子を安楽死させるかといえば、この状態ならグレーゾーンです。ただ、明日という事なら、確かにもう引導を渡して楽にしてあげるべきかもしれません。」 この女医さんは私の話をたくさん聞いてくださり、追い詰められていた私の心は少し和らいだ。 夜8時半、エリはもう横たわる事もできず、足を踏ん張って座って大きく呼吸をしている。朝から水も飲めていない。もう最後の砦だった酸素室も、エリが安住できる世界ではなくなってしまった。世話用の丸窓を開くと酸素濃度が下がってしまうので触れる事もできない。 どうする事もできず暗然として立ち尽くす私を、エリがじっと見ていた。その眼は、私にもう限界だと強く訴えているように見えた。「ここから出してほしい。そしていっぱい撫でてほしい。」と。… 明日 獣医に最後の処置をしてもらうまで、このまま酸素室に閉じ込めておく事にいったい何の意味があるというのか。愛するエリが独りで病魔と闘い苦しむ姿を、何もしてやれずにただ座視する事はできない。 私は酸素室を厳重に封鎖していた養生テープを片っ端から剥ぎ取った。今夜は徹夜ででも酸素マスクからの直接吸入でエリの顔を支え続け、身体を撫で、ひたすら声をかけ続けよう、と。 酸素室の扉を開放し、入り口にクッションを置いてエリの身体を右手で支え、直接吸入を開始。エリは私の手に顎を乗せ、濃度45~50%の酸素を吸っている。昨夜からほとんど眠る事ができていないからだろうか、時折、エリは寝落ちするようにガクッと力が抜けた。私はエリに、余命宣告以来ずっと伝えてきた愛の言葉をかけ続けた。 「ありがとう。可愛いね。大好きだよ、ずっと一緒だよ。」と。 直接吸入の開始から40分ほど経っただろうか、時刻は21時半。それまでマスクに顔をうずめていたエリが突然 顔を上げ、長年住み慣れた部屋を見回して身体を起こした。そしていったいどこにそんな力が残っていたのだろう、一歩二歩と力強く足を踏み出したのだ。私は慌てた。 どうしたんだエリ、酸素から離れちゃダメだ。私はエリの身体を支えようと腕を伸ばした。 その私の腕に倒れ込みながら、エリが声にならないクゥーッという息を吐き出し、全体重を私に預けて凭れかかった。 この時の感覚を、どう表現したらいいだろう。 私は頭ではまだ理解してはいなかったが、直感でははっきりと悟っていた。 エリが今この瞬間、息絶えてしまったという事を。 本当に死んでしまったのだろうかまさかそんなはずはないという驚きと、エリの魂はついに苦痛から解放されて自由になったのだという確信と。 顔をのぞきこむと、エリはもう呼吸をしていなかった。私は、心臓が停止しても聴覚は僅かな時間だが最後まで残っているという話を思い出した。私はエリの耳元でありったけの愛と感謝の気持ちを伝え、まだ柔らかく温かい身体を抱いた。 そこは、長年エリが愛用したクッションの上で、7年前の夏に天寿を全うした実家の先代猫の骨壺の前だった。 いつの間にかゴンが隣りに来て、もう動かないエリをじっと見つめている。 闘病の応援の為に横浜からこちらに向かってくれている弟に連絡し、私は立ち上がった。足元では酸素マスクがシューッと酸素を吹き出したまま転がっている。 1ヶ月半、エリの命を繋いで日々24時間フル稼働し続けてくれた酸素室の電源を落とす。 部屋は、急に静かになった。あまりの静寂に圧倒されて立ち尽くすと、強風が電線を揺らす音が窓外から聴こえてきた。 部屋の静けさは、エリの癌との闘いの終わりと共に、かけがえのないあの命の温もりがもう決して戻る事は無いという厳然たる現実を告げて、ただ虚ろな余韻だけが何度も何度も空しく私の胸を叩いた。 エリの身体は次第に硬直が始まり、目を閉じさせる事はできなかった。手足が硬直しても、撫でているとふとお腹が動いたような気がして、そのたびに手を止めて確認した。 深夜、弟が到着。 弟は実家の先代猫をはじめ、実家の歴代の犬猫の看取りに立ち会ってきた。その弟が、エリを撫でながら「いい顔をしてる」と言ってくれた。 この時の私は、無意識のうちに心の平衡を保つ作用が働いていた為だろうか、少し気持ちが高揚していた。お通夜と称してビールを口にし、この日 初めての食事を取った。 エリを自分の腕の中で看取る事は、闘病生活が始まって以来、最後の目標となっていた。 翌日に獣医の注射によってもたらされる事になっていた死ではなく、エリとゴンと私とで13年間暮らしてきた部屋で、そして自分の腕の中で、しかもエリお気に入りのクッションの上で、ゴンと共にこの小さな家族だけで最期を看取る事ができた、これ以上に理想的な最期は望めまい。その一点に、私はこの時 満足していた。 8月16日 エリを大きなプラスチックケースの中に安置し、保冷剤を敷き詰めた。ついさっきまで命の温もりの愛しさを慈しんでいた自分が、ひたすらエリの身体を冷やす事に専念している。しっかりと冷やさなくては、最愛のエリの身体が腐敗してしまう。朝、病院に電話してエリが亡くなった事を報告。先生によれば、死因は酸素の循環不全による心停止、との事だった。ガンが進行すると肺の壁が脆くなって破れたり、内臓の血流が循環不全を起こして亡くなる例があるとは言われていた。日中は仕事があり葬祭場での立ち会い火葬ができないので、移動火葬業者に電話し、翌日夕方の火葬が決まった。ゴンは、プラスチックケースの傍らでじっとしている。私もケースの傍らで過ごし、ケース越しにエリと並んで眠る。 8月17日 仕事から急いで帰り、エリの身体との別れに備える。最後に、エリをケースから住み慣れた部屋に出し、クッションの上に横たえた。ゴンはエリを一瞥したが近寄らず、無関心のように見えた。私は、ゴンはエリの魂がもうその肉体には宿っていない事を知っているのだ、と思った。 火葬の場所は郊外の大きな公園の片隅。 夕暮れの夏空から茜色を帯びた金色の斜光が射し、木立から蝉時雨が降り注ぐ。 エリは私が願った通り さまざまな命輝く熱い夏まで生きて、私の望んだように私の腕の中でその生を終え、そして私が大好きな夏の夕暮れの空へ、大いなる命の循環の中へと還っていった。 帰り道、膝の上に乗せて抱えた骨壺はまだ火葬の余熱を残して暖かく、私はエリの魂がこれからも私とゴンを温かく見守ってくれるようにと願った。 …… あれからもうすぐ3ヶ月。季節は移り、もうあの夏の日々が遠い昔のようにも感じます。エリの骨壺はいつもエリが居た場所にあり、その前にはエリお気に入りのクッションを置き続けています。 実家の先代猫が亡くなった時には、その直後に魂の存在を感じさせるような不思議な出来事を体験し、夢にも何度も出てきてくれました。肉体がその役割を終えても、魂は少なくとも暫くの間はそばにいてくれるんだな、と確信を得たものです。 だから私は、エリの魂もまた何らかの不思議な現象を起こしてくれるものと思っていました。 ところが、エリに関しては巷でもよくペットの死後の体験談として聞くような「気配、音、感触」などは一切無く、夢にもはっきりと出てきてくれた事がありません。 すぐに成仏してもう遠くの世界へ行ってしまったのだろうか、と寂しくなります。 ある人は、エリがちょうど御盆の満月の夜に息を引き取った事から「きっと祖霊がちゃんと向こうに連れていってくれたのよ。」と仰いましたが、当時の私は「連れて行ってくれなんて頼んでもいない。もしそうなら、毎年の命日の前後だけでも魂が部屋に帰れるようにしてほしい。」という気持ちでした。 もしかしたら、私が良かれと思って努力したつもりの介護もエリにとってはストレスでしかなく、本当は酸素室も嫌で仕方なかったのに、頑張って我慢を重ねていたのかもしれません。もしそうなら、自由になった魂が私に寄りつかなくても仕方ありません。 それでも、私には一つだけ確信があります。 それは、エリは今も必ずゴンを見守ってくれているはずだという事です。 エリは幼少の頃は弱々しく、いつもゴンに護られていました。何があってもまずゴンが前面に出てきて防波堤となり、エリの負担を軽減してくれていたように思います。 しかし年を経るにつれてエリの身体は大きくなり、晩年にはゴンの3倍近い体重がありました。 身体が大きいぶんエリはおおらかな性格と包容力を持つようになり、いつしか小さな身体のゴンが逆に護られるような形になっていきました。 繊細で神経質とも思えるようなゴンの心身をエリの懐深い温もりがゆったりと包んで、ゴンも安息を得ていたように思います。 今回エリがその生を終えた事で、私はゴンがどうなってしまうのか、それが一番心配でした。 中には、仲良し猫の死後、その姿を探し続けて夜鳴きするようになったり、ショックのあまり餌を食べなくなって衰弱したり、さらにまるで後を追うかのように死んでしまう猫もいると聞きます。 ゴンもやはりエリの姿がなくなって暫くの間は落ち着きなく不安げで夜鳴きもありましたし、エリが愛用していたクッションの傍らに佇んで悄然として見える事もありました。 私も小さな部屋の中でいかにエリの存在が大きかったかを痛感し、部屋と私の心の真ん中にぽっかりと大きな穴が開いて部屋の温度や体温までもが下がってしまったかのようにも感じました。 深い喪失感は悲しみと共に小波を立てて私の胸に寄せては返し、何もやる気が起きず茫然として座りこむ事もありました。 私でさえそうなのに、産まれてから毎日 片時も離れず13年間 共に暮らしてきた同族姉妹のゴンが受けた衝撃の深さはいかばかりかと、私はせめて表面上だけでも明るく振る舞う事でゴンを励まそうとしました。 しかし、私もゴンもそうした日々は長くは続かず、まもなく元気を取り戻しました。 というよりむしろ、意外にもすぐに元気を取り戻したゴンに、私自身が元気づけられたという事かもしれません。 ゴンはよくオモチャを追いかけて走り回って遊び、餌もしっかりと食べてくれます。 ふとした拍子に寂しそうな様子をする事もありますが、姿こそ無くてもエリの愛に今でも包まれているのか、丸くなって気持ち良さそうに眠っています。 エリの最後の日々の中に、時々2匹が視線や思念で会話しているかのように見える光景がありました。 ひょっとしたら私が知らないだけで、2匹の間では既にすべてが納得ずくで、お互いにこれから起こる事が何もかもわかっていたのかもしれません。 私は骨壺に掛けてあるペンダントの写真に声をかけ、餌や水も供えています。エリ在りし日々の幸せの追憶と感謝の涙がこみあげる事はありますが、いわゆるペットロスのような状態には陥らずに済んでいます。 これは、やはりエリが紡いでくれた幸せな絆が今も私たちと共に生き続けているからだと思います。 季節は晩秋を迎え、朝晩は肌寒くなってきました。北風冷たい冬の日には、エリの柔らかな温もりを思い出して涙する事もあるでしょう。 春には桜の花びらにエリの優しい息づかいを感じ、また夏の一周忌が近づく頃には闘病の記憶がよみがえりもするでしょう。 エリは私にたくさんの幸せをくれました。「人間は目に見えるものに囚われ過ぎている」という言葉があります。もう愛するエリと見つめ合い、その身体の温もりに触れる事ができないからといって、13年間の幸せが消えてしまうわけではありません。 だから私は、もう悲しいとかさびしいとは言いたくありません。 宮沢賢治の詩集「春と修羅」の「小岩井農場」の一節が、今の私の心情を表してくれているように感じます。 もうけつしてさびしくはない なんべんさびしくないと云つたとこで またさびしくなるのはきまつてゐる けれどもここはこれでいいのだ すべてさびしさと悲傷を焚いて ひとは透明な軌道をすすむ 私の不在時や、昼寝からふと目を覚ました時、ゴンが感じるさびしさは私よりもずっと深く大きなものでしょう。 私がどんなにゴンを大切にしても、エリの代わりにはなれません。 それでも、残されたゴンの余生にしっかりと寄り添う事が、エリから託された私の使命です。 エリゴンズとの絆の温もりを胸に、私もしっかりとこれからの人生を歩んでいきます。 追記 10月下旬の深夜、エリが珍しくはっきりと夢に現れました。展開が定かではないその夢はやがて別の夢に切り替わり、しかし その夢を破るように耳元でフンフンと鼻を鳴らす音が明瞭に聴こえて、私は一気に目を覚ましました。「エリだ!」と直感し、反射的に手を伸ばしてゴンの居場所を確認すると、ゴンはいつもの定位置で丸くなって寝ていました。私は、枕元にエリが来てくれたと思っています。 【山歩きについて】 山に生きるさまざまな命の営みは、私の死生観に多大な影響を与えています。山は、山に生きるすべての命は大いなる自然の循環の中にあり、身体がその役割を終えてもまた形を変えて悠久の時の流れに生き続ける事を教えてくれました。 また、山中や山麓の石造物は昔の人々の愛と信仰を語りかけてくれます。 私は歴史の彼方に歩き去った今は亡き古人の面影を慕い、樹間を渡る風に大いなる山の自然の息遣いを感じながら歩いてきました。 これからも、山は私にいろいろな事を教えてくれるでしょう。私はこれからも五感を磨ぎ澄まして独りで山を歩いていきます。 後記 エリは山に出かける私を、いつも優しい眼差しで見送ってくれました。一方のゴンは、私が山行前夜にザックを取り出しただけで私の長時間の留守を察し、暗い顔をしていました。それでも私が山に頻繁に出かける事ができたのは、2匹で遊んだり2匹で寝たりしながら私の帰りを待ってくれていると思えたからです。 しかし、今はエリの魂が見守ってくれていても、形ある存在はゴンだけとなりました。 ゴンの命ある限り、泊まりや夜行日帰りの山行はやらない事に決めました。 今後は月2回くらいの朝発 日帰り限定で、山を再開します。 山歩きと関わりの無い長編記事にも関わらずここまで読んでくださった方、ありがとうございました。 YAMAPの皆様、今後ともよろしくお願い致します。
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