メモリアル登山

2019.10.13(日) 日帰り

活動データ

タイム

00:37

距離

1.4km

のぼり

119m

くだり

119m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
37
休憩時間
5
距離
1.4 km
のぼり / くだり
119 / 119 m

活動詳細

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ヤマッパーの皆様へご報告です。 長い間、温かくご声援していただいておりました 最愛なる妻であり、私の最高の登山相棒である 『ひろちゃん』は、10月8日天国へと旅立ちました。 8年にわたる癌との闘病生活の末でした。 昨年夏に、北アルプス雲ノ平へ4泊5日をかけて縦走したのが、本格登山の最後となってしまいました。 この山行の後に受けた定期検査で病状の悪化が認められました。 肺の腫瘍への抗がん剤治療、背骨への放射線治療が施されましたが・・・ 年が明けてからは徐々に痛みが出始め、さらには肺に水が溜まる息苦しさも加わって、辛い日々を送っていました。 私は、隣にいる妻がこんなにも苦しんでいるというのに、その痛みや辛さをどうしてやることもできない自分が本当に情けないやつだと悔しい気持ちで溢れかえっていました。 そんな中、担当医師から「がん治療は手を尽くしたので、これからは痛みを軽減させる緩和ケアに変えましょう。」との説明がありました。いわゆる終末医療ということです。 同席した私は、妻はもう助かることはないのかと愕然とさせられました。 この余命宣告ともとれる言葉によって、もう自分は死ぬしかないんだという絶望の淵に追いやられた妻は、どれほどの深い悲しみや真っ暗な恐怖に駆られたことでしょうか。胸は張り裂けんばかりであったと思います。 それなのに彼女は泣き崩れることもなく「わかりました。よろしくお願いします。」と毅然とした態度で答えたのでした。 こんなにも気丈に振る舞う妻の姿は初めてで、私にはとても真似ができないと強く心を打たれました。 この頃から「最期は自宅で迎えたい。」という希望を口にするようになりましたが、快復することを妻も私も決して諦めませんでした。 しかし、8月から始まった在宅医療では痛みの強さと鎮痛麻薬の増量との追いかけっこでした。 私も仕事を休んでずっと側に付き添っていましたが、妻はベッドで横になる時間がしだいに長くなっていき、食事も僅かしか摂れなくなると、体力は目に見えて衰えていきました。 それでも妻は「寝たきりになるのは嫌だ。」と最後までトイレに行こうしました。これは、私に世話をさせては申し訳ないという、彼女の優しい思いやりの心からでした。 私たち夫婦にとって、10月10日は37回目の結婚記念日になるはずでした。 毎年、妻手作りのケーキでこの日を静かに祝っていました。 亡くなる3日前、妻は意識が混濁している中で「今日は10月5日、結婚記念日まであと5日。」と、か細い声で話してくれました。 彼女もこの日が来るのを心待ちにしており、その日まで頑張って生きようとしていることが痛いほどにわかりました。 しかし、残念ながら今年はその日を二人で迎えることができませんでした。 妻は最期を迎える日まで毎日、私に『ありがとうね』の言葉を何度も何度も言ってくれました。 この言葉には、二人が出会ってから今日までにあった色々なことに対して、そして今現在のことに対してが含まれていると思いました。 私も全く同感です。今日まで陰で支えてきてくれたこと、そして今は私のために病魔と闘い、必死に生きようと頑張っていてくれることに感謝の気持ちでいっぱいでした。 『ひろちゃんありがとう』の言葉は、言っても言っても決して言い尽くすことはありません。 妻の希望どおり、その時を自宅で迎えることになりました。 最期の日、痛みと苦しみに苛まれながら、意識がだんだんと薄れていく中で「お父さんと二人だけにして」と、妻は側にいた子供達を家の外へ追いやったのでした。 こんな状況にあっても、一番に私と一緒に居たいと思ってくれていることがとても嬉しかったです。 最後の30分は痛みに抗うこともなく、以前のような穏やかな表情に戻って静かに息を引取りました。62歳のその生涯を閉じたのでした。 この1年ほどの間、妻はたった一人で痛み苦しみ辛さ、そして着々と忍び寄って来る死の恐怖と毎日闘い続けてきました。 その悲痛な心境は、そばにいる私にでさえ到底計り知れないものです。 とても孤独な闘いであったと思います。 それゆえに、最期をおそらくは穏やかに迎えられたこと私が看取ってやれたことが、せめてもの慰めとなりました。 『ひろちゃん、ほんとうにお疲れ様でした。どうぞやすらかに。天国では大好きなお花いっぱいに囲まれて楽しい毎日でありますように。』 二人の関係が深まり、お互いの絆が強まったのは登山に出会ってからのことでした。 妻は、山に咲く可憐な花々の虜になり、その名前を次から次へと覚えていきました。 そんな妻のはつらつとした姿や楽しそうな笑顔を見るたびに、連れてきてあげて良かったと私も幸せな気持ちになりました。 険しい岩山や雪山では、安全を確実なものにするため二人注意し合いながら、時にはとても女性とは思えない妻の勇気や行動力に励まされ、ピークに立つことができました。 私は妻のことを、妻も私のことを単なる登山仲間以上の、とても心強い相棒であると、お互いの存在を非常に大きく重く感じていました。 このことは、登山のみならず実生活においても同時進行していて、お互いなくてはならない関係になっていました。 その妻が今は隣りに居りません。 こんな喪失感、虚無感は今までに味わったことはありませんでした。 まさに心に大きな穴がポッカリと空いた感じです。 毎日、祭壇に飾ってある妻の遺影に向かって、生前のように冗談ぽく笑顔で話しかけています。この時は、別段悲しい感情が湧くことはありません。 しかし、彼女がもっと長生きできる方法はあったんじゃないかとか、彼女がまだまだいっぱいやりたかった事などに思い耽ると、つい涙が溢れてしまいます。 この精神的に不安定な状態から早く脱しなくてはと思っていますが・・・ この先も登山を続けていくつもりですが、今までのスタイルは変更を余儀なくされることから、楽しさは半減してしまうのか、どう変わるのやら。 しばらくは、私の体力回復とトレーニングを兼ねて里山へ。 ひろちゃんのお写真と一緒に『メモリアル登山』開始です。

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